平成21年5月23日発行 我孫子市史研究センター会報 第87号 通算394号
編集:編集委員会 第87号
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去る4月26日のH21年定例総会で 我孫子: 加瀬 潔 会員(日曜古文書) 我孫子: 古内 和已 会員(火曜古文書) 湖北 : 星野 征朗 会員(研究講座) 市外 : 近江 礼子 会員(合同部会) 会計監事: 千葉 美雪 会員 |
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取手の札所めぐり(二〇〇九・四・一八 合同部会にて) 三谷和夫 三層に並べまつれる百観音年ごと一度 今日開かれぬ さざえ堂に友のみ祖のまつりたる仏をろがむ久々にして 大師堂にすりこ木供ふ知らぬ人の心さすりて返ししもあり 牡丹桜咲き満ちてあり将門を護りし仏を恋ほしみ来れば 盛んなる八ヶ所廻りの寺に来て閑古鳥鳴くと一茶の詠みし 小川芋銭 清涼亭と名づけしに利根の眺めをビルのさへぎる 本殿の結構網に囲みたり天孫降臨彫りてあるらし 八坂神社 別当寺いつしか失せてみ社に札所残るを今日は聞きたり 扉なきこの大師堂木造に胡粉塗りにし像の古りたり 念仏院 水戸烈公その駕籠とめて添削乞ひし沢近嶺は火事に家焼かれけり 寺の外の空地に墓碑の捨ててありぎっしり並びおびただしかり 寺出づる八ヶ所めぐりの道に敷く墓石に花を立てし跡あり その記録我にあたりしみ堂に来て声を上げ読むご詠歌の額を 薬師堂 薬師堂に来しを喜び堂守の嫗は錠を開きくれたり 大師堂再建せりき隣り村のはた東京の人らもこぞりて 札所塔石はげ落ちて木のおほひ彫りにし文字を読みなづみをり 本陣をまもりし人を寄付を受け繕ひ残しし人らを称ふ 取手本陣 烈公のここに寝ねけむ上段の間に人座せぬいく年月か 勇ましき言多かりし烈公の歌碑あり歌を散らし書きして 寄付をせる本陣持ちゐし人死して子はその屋敷に葬儀せむと言ふ |
| 「江戸時代の手賀沼と鳥」 ―水戸家鷹場と鳥の保護― |
清水 千賀子 |
我孫子と鳥
我孫子市には我が国を代表する鳥類専門研究機関である山階鳥類研究所や、全国で唯一の鳥類専門博物館の市立鳥の博物館があります。地域と<鳥>とは関係が深く、現在、<鳥>は「まちづくり」や手賀沼浄化の取り組みのシンボルとなっています。両者のこの関係はすでに江戸時代にも見られました。
さて、ここでは地域に残る古文書を資料に、江戸時代の手賀沼と沼周辺の人々との関係を、<鳥>を視点に見ていくことにします。
水戸家鷹場領域
鷹狩は正式には放鷹(ほうよう)といい、飼いならした鷹を拳に据え、山野に放って野鳥を捕獲する狩猟
の一つです。古くから武術の鍛錬を兼ねた特定の権力者による遊猟として行われてきました。徳川家康の鷹狩好きはよく知られていますが、江戸初期の将軍の鷹狩は単なる遊猟だけではなく、江戸周辺の民情視察も兼ねていたといわれています。家光の代になると将軍家の鷹場領域が確定され、御三家にも鷹場が与えられました。
水戸徳川家は、寛永10年(1633)2月に将軍家光より「下総小金の地」に「村数200ケ村、村高4万5000石」の鷹場を拝領しました[1]。小金領鷹場の領域および200ケ村の村名は明らかではありませんが、柏市に残る天和2年(1682)の利根川漁場出入文書や小金領と守谷領境出入文書[2]から、利根川を境にその以南、市域では柴崎村・青山村・布施村が鷹場に含まれていたことが判明します。また旧沼南町布瀬に残る文政年間の手賀村との鳥猟場出入文書[3]のなかに村の伝承として古来の鷹場境が「片山村地先小松戸下より都部村正泉寺森へ見通し」とあり、これらから推測すると元禄期までの小金領鷹場は、北は利根川を境としその以南、東は市域の都部付近と沼対岸の旧沼南町片山を結ぶ線より以西となり、かつての手賀沼および市域の西方約半分程が鷹場の一部に含まれていたことになります。
五代将軍綱吉の代になり、かの有名な「生類憐みの令」により幕府の鷹はすべて伊豆の新島に放され、元禄6年(1693)に幕府鷹場も廃止されました。それに伴い水戸家鷹場も返上され、市域は一時的ですが鷹場の規制から解放されます。しかし、享保元年(1716)将軍吉宗になるや幕府鷹場が復興されます。享保2年(1717)5月、水戸家は再び下総国葛飾・相馬両郡と武蔵国葛飾郡にわたる村数186ヶ村の鷹場を拝領しました[4]。これにより市域の全域と手賀沼のほぼ全域(東の境界線は「布瀬村鎮守森より東の方、印旛郡亀成新田あつた明神の森へ見通し」[5])が鷹場領域に含まれることになり、寛政元年(1789)に鷹場が休止[6]されるまで続きました。この鷹場村々には、様々な規制と負担が課せられました。次にその内容を見てみましょう。

鷹場法度と鳥の保護
江戸時代を通し鷹は将軍の権威を象徴する特別な<鳥>でした。鷹場の鳥もまた鷹の餌鳥であり、公儀儀礼用の下賜の鳥として特別に保護されました。鷹場村には「鷹場法度」が出され負担や規制のもとにおかれました。布施村には万治3年(1660)「水戸中納言様御鷹場法度之事」[7]という旧鷹場時代(元禄期以前)の請書(承諾書)が残存しています。ここに言う「水戸中納言様」とは黄門さまこと水戸光圀です。法度には鷹場村が守るべき事項7項目が記されています。鷹場内での脇鷹(密び鷹つかい)の監視、道・橋の整備、鷹狩の際の犬、猫の捕縛、餌差(鑑札を持って鷹の餌となる諸鳥を捕獲する者)の確認といった項目に加えて鳥の保護のための3項目がありました。「鳥を追い立てないこと」「鷹場内で大鳥はいうまでもなく、小鳥であっても捕獲しようとしている者がいたなら、たとえ地頭や代官であろうと取調べること」さらに「鉄砲を打った者がいたなら取調べること」。これは無断発砲の取り締まりですが、また発砲する音が鳥を驚かすためにとられた規制です。鳥の保護のために、支障になることは悉く規制されました。
久寺家村、花野井村(柏市)には、吉宗によって鷹場が再興された享保元年の「御鷹場御法度手形之事」[8]が残されています。ここでは、道筋の整備や普請の項目に加え、家屋建築の制限や不審者の排除など村の生活面や治安維持に関わる項目が新たに加わりました。鳥の保護項目は「鳥を追い立てないこと。また監視に鷹番二人を置くこと、ただし15歳以下や歩行困難者ではならない。そして鷹の通行があるときは村継ぎで送る事」「餌差が焼印札を持っているか必ず確認すること。たとえ焼印札を持った正式の餌差であっても、雁・鴨以上の大鳥はもちろん、鷺の類、けり、鷭、川鳥、鶉、雲雀など一切捕らせてはならない。すべて雁、鴨がいる池、沼、川、野、田に張切網、打網、はがもち網を仕掛ける者がいたらその場に留め置き報告すること。勿論ご法度の鳥の巣や雛も捕らせてはならない。」「地頭、代官そのほか誰であろうと、ご法度の鳥は言うまでもなく、小鳥であっても捕らせてはならない。もし殺生したものがいたならば報告すること。また鷹場内で殺生しそうな格好で弓・鉄砲を持ち歩く者がいたならば、取り調べ留め置き報告すること。」というものでした。鳥の捕獲や殺生の禁止に関する規制がより細かく、厳しくなっています。享保の鷹場法度では、村の負担や鳥の保護・規制の強化に加えて、村人の生活面や村の治安維持の面まで鷹場の管理下におかれました。
鷹場法度とその遵守
将軍吉宗は「鷹将軍」と異名があるごとく、鷹狩りという伝統的な遊猟を復活して武家の棟梁である将軍という権威を高めようとしました。江戸を中心に五里四方を将軍自らが鷹狩をする「御拳場(おこぶしば)」、それを取り囲むように五里から十里の間を御三家の鷹場に、さらにその外側に鷹匠が鷹の訓練や鷹の餌を調達するための「御捉飼場(おとらえかいば)」を設けました。江戸時代の鷹場は単に鷹狩をする山野だけでなく、江戸を取り囲む周辺の村々まで、御料、私領、寺社領の区別なく領域に取り込んだことが特徴といえます。そして鷹場領主は「鷹場法度」を介し、支配領主を越えて村々を掌握しました。
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その具体的例を見ていきましょう。布施村に残された、寛保2年(1742)の「差上申惣百姓五人組々合連判証文之事」[9]があります。通称五人組帳と呼ばれるもので、毎年領主に向けて村ごとに作成提出するものです。幕府や領主からの御法度向きや村方よりのお触れが項目をたてて書かれており、年に数度村中の百姓に読み聞かせることになっています。原則的には全ての本百姓がその内容を守る誓約をして記名、捺印し提出する形式となっていました。この申し聞かせの項目の一つに水戸家御鷹場のことも以下の如くあげられていました。「水戸様御鷹場の儀については、以前ご沙汰があった御法式の通り、堅く守り少しも疎かにはしません。勿論鳥類へ一切支障がないようにします。万一間違って鳥類へ支障を及ぼすことや盗取などをしたならば、早々五人組や両隣、向隣の者たちが各方面へ訴え出ます。もし隠しおいて脇から発覚するようなことがあれば、当人はもちろん五人組、両隣、向隣のものまで、本人と同罪になることは承知しています。また案山子、小屋などを仕立てるときは、その節各方面へお届けしお指図通りに致します。もし御鳥見様方へお伺いも立てず、無断で案山子や番小屋を仕立てて見咎められたら、どのような越度にもお言いつけ下さい。」ここでも案山子は鳥を脅すために、小屋の造作は建設時の騒音が鳥に支障があるとして規制されています。鷹場法度の遵守は、このように村ごとに村役人から五人組へと徹底され、違反すれば名主はもちろん五人組や隣組の百姓たちの連帯責任とされました。
鷹場村々の状況
水戸家鷹場の領域は、小金牧などの牧に連なる野付き村々と利根川や江戸川それに手賀沼といった川や沼に面した村々に及んでいました。水戸家御鷹場での鷹狩りや鹿狩の行事はもっぱら小金原(現松戸市)が使われました。この地はまた将軍家の鹿狩の地としても利用されました。鷹場には獲物としての鳥獣類の生息が必要ですが、過剰な保護のために増え続け百姓たちは甚大な被害をうけました。ことに野付き村々では猪鹿などの獣類が増えて作物が食い荒らされ、収穫は減り田畑も荒らされ百姓の生活を脅かすまでになっていました。そこに天明年間の浅間山噴火に続く天候異変で凶作が襲います。天明5年(1785)、高柳村(現柏市高柳)善竜寺の住職は、寺周辺の百姓たちが潰百姓となって退転していく姿を見かね、野付き村々の惣百姓を救うためと、水戸家家老中山備前守へ村々の被害の実状と御鷹場御免の嘆願書を差出すべく近隣村々へ回文を以て掛け合います[10]。結果は「不埒成願」をした廉(かど)で処罰されたようですが、野付き村々の深
刻な状況が窺えます。運よく訴えの一部は通じ、禁止されていた案山子や鉄砲の使用は許されますが、一々許可を得なければなりませんでした[11][12]。
では川や沼付き村々はどのような状況に置かれていたのでしょうか。手賀沼では享保2年8月に、鳥類や畜類の殺生の禁止、漁猟は8月朔日より翌3月晦日まで禁止、また沼川入江での蒲の抜き取りも遠慮すること、禁猟期間中は御用の船以外は一切沼へ出さぬようにとの厳しい規制が申し渡されました[13]。川べり沼べりの百姓たちには漁猟で生計を立てる者もおり死活問題でした。ただ利根川の漁猟に関しては、古くから捕れた鮭・鯉が将軍家の御菜として布佐村や柴崎村から献上されていたこともあり、特別に税金を納めることで認められていました。鳥猟に関しては対岸の取手や守谷側の村々では盛んに行われていながら、鷹場村である市域では密猟とされ、対岸との猟場をめぐる争いが絶えませんでした。
手賀沼は古来より鳥や魚や藻草など豊かな資源に恵まれていました。享保期に水戸家の鷹場となりかつ幕府の進める新田開発の場となったことで、沼の環境は大きく変化しました。旧村と新田村との間で沼の入会に係わる権利獲得の争いがおこります[14]。これは寛保3年(1743)に手賀沼新田39ヶ村が「沼役永」という税金を上納することで漁猟・藻草の入会権を獲得して決着しました[15]。しかし、この時点までは鷹場のため沼での鳥猟はもちろんできません。ただ手賀沼の内、古来より沼猟と深く関わってきたとされる対岸の布瀬村、手賀村、片山村(現柏市布瀬、手賀、片山)の3ヶ村は、理由は定かではありませんが、享保年間に鷹場村から外れ、鷹場境界線より南側「村下字南浦」で鳥猟を行い江戸水鳥問屋との取引を行っていました[16]。市域の村々は利根川でも手賀沼でも対岸の鳥猟を目の当たりにしており、当然の如く密猟もおこなわれました。
大岡越前守と密猟事件
享保9年(1724)暮に起きた利根川筋から手賀沼に及ぶ大がかりな密猟事件[17]は、布施村、久寺家村、我孫子村、下ヶ戸村、高野山新田の市域5ヶ村が関係した周辺村々を揺るがす大事件でした。奉行所で厳しい詮議が行われたのか、牢死者が3人も出ました。当事者たちは勿論その五人組、さらに各村の名主たちも罰せられました[18]。
事件を担当したのが南町奉行の大岡越前守忠相です。当時、忠相は享保の改革を進める将軍吉宗の右腕として辣腕を振るっていました。鷹場内での密猟の横行や江戸市中での不法な水鳥商売に危機感を持っていた矢先の事件だったのでしょうか、判決は通例より重いものでした。そして翌享保10年(1725)正月には早速次のような町触れがだされました。「在々所々 御留場にて盗鳥致し候ものこれ有り、江戸表へ差し出しみだりに商売致し候に付き、今度水鳥問屋6人、岡鳥問屋8人相極め、その外は仲買を始め、脇店小売りの者迄、一切鳥商売停止候[18]」。市域でおきた密猟事件がこの町触れに大きく影響していることは間違いありません。
これ以降、江戸市中に集まる鳥類は幕府公認の6軒の水鳥問屋と8軒の岡鳥問屋のみで扱うことになりました。後々この水鳥問屋が手賀沼と大きな係わりを持つことになります。ちなみに水鳥問屋は食用の水鳥、岡鳥問屋は主に鷹の餌用の小鳥を扱いました。
以上のように厳しい鷹場規制のもとに置かれてきた市域ですが、鳥に対する過剰なまでの保護により沼や川沿いの斜面林や周辺の林には鳥類が居付き、また葭や真菰や蒲が生い茂る沼や利根川の低湿地にはたくさんの渡り鳥が飛来するようになりました。鷹場が解除されて以降、開墾途上の沼では鳥猟が行われ百姓たちの大事な生業となっていきます。その手賀沼の鳥猟については次回に述べることにします。
参考資料
[1]「水戸紀年」[2]『柏市史』資5 [3]柏市布瀬「湯浅家文書」[4]「水戸紀年」
[5]「湯浅家文書」[6]『柏市史』資5,9 [7]『柏市史』資5 [8]『柏市史』資5,7
[9]『柏市史』資5 [10][11][12]『柏市史』資7 [13]我孫子市布佐「斉藤唯之助文書」
[14][15]我孫子市湖北「高田家文書」[16]「湯浅家文書」
[17]『柏市史』資1,5、柏市「後藤敏家文書」[18]『江戸町触集成』4
市史研 本年度の企画(事務局より)
4月26日午後、嘉納治五郎別荘跡地和室において、本年度の定例総会が開かれました。今号にその議事録を添付いたします。ご出席されなかった方々には議案書を同封いたしました。
本年度は総会決定に従い、以下のように運営委員会で企画を練って実施する予定です。皆様のご参加、ご協力をお願い申し上げます。
○ 歴史講演会:秋口に実施予定。(例年通り、一般市民にも呼びかけ)
○ 史跡見学会:来春か又は晩秋に実施予定。(例年通り、一般市民にも呼びかけ)
○ 古文書入門講座:7月と11月に実施予定。(例年通り、会員にも呼びかけ)
○ あびこ楽校フェスティバルに「古文書に習う」講座で参加。(9/26,27)
○ 市民活動フェア2010 inあびこに市史研展示で参加を予定。今回は古文書講座火曜コースの皆さんで展示企画をして見ませんか。
○ 地域歴史資料の整理・保存のため、教育委員会 文化・スポーツ課に協力して整理作業などを継続して行ないます。
この他、各部会・講座でそれぞれ独自の研究課題・企画に取り組んでいます。総会議案書に書かれています。ご興味のある方は直接会合に出席されたり、それぞれの幹事・責任者に問合せをしてみてください。
各部会の活動と予定
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部会 |
講座名 |
日 |
時 |
所 |
担当者 |
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歴史 |
@古文書解読(日曜コース) |
6月14日(日) |
PM 1:00 |
寿市民センター第2会議室 |
高田 明英 |
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下総国相馬郡柴崎村ほか 古文書解説 |
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A古文書解読(火曜コース) |
6月16日(火) |
PM 1:00 |
アビスタ第2学習室 |
金井 準 |
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テキスト 「御取締向御用留」(井上基家文書) |
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B研究講座 |
6月28日(日) |
PM 1:30 |
湖北台近隣センター会議室 |
高木 繁吉 |
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「手賀沼周辺景観試論U」 講師:高木
繁吉 |
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| 合同 | C新四国相馬霊場調査(3) ―小文間地区A― |
6月20日(土) | 9:10 | JR取手駅東口(弁当各自持参) | 中澤 雅夫 |
| 運営委 | 6月度(古文書講座、講演会) | 6月27日(土) | 9:40 | けやきプラザ活動ステーション | 岡本 和男 |
合同部会5月の活動−新四国相馬霊場調査(2)小文間地区@(5/16土) 参加者:14名
近江会員の案内・解説により、小文間地区にある大師堂のうち、6ヵ所を調査した。
09:15 JR取手駅東口集合、09:25発の「ことバス(取手市コミュニティバス)・東南部ルート」で取手市東端の「戸田井」に行き、取手駅方面に戻る形で64番(西光院)・16番(観音堂)、18番(弥陀堂)、72番(大日堂)の順に調査、小文間公民館で昼食後、66番(東谷寺)、15番(弥陀堂)を調査、「中妻」より路線バスで取手駅に戻って午後3時前解散した。
小文間は古戸・新木と渡し舟で結ばれていた所で、今回最初に訪れた64番・16番は、かつては西光院にある64番を参拝して中腹の観音堂に登り、16番を拝んで山を越えると船着場があって、そこから渡し舟で我孫子地区の大師堂に行ったということであった。西光院は中村家の菩提寺で、今は西光院も観音堂もないが、院跡地は綺麗に整備され、近江会員が事前に調査させて頂くことをお願いしてあったので、一族の中村照男さんが2〜3日前から藪を切り払ったり枯葉を掃除したりして、この日も清掃を続けていて、いろいろお話を聞かせて頂いた。
東谷寺は西光院を含めてその近辺の寺院を統括する名刹で、寺内にある66番大師堂は一般のお堂より一際大きく、立派である。副住職により、大師堂の扉を開けて中を見せていただいた。とくに天井が桝目状の色彩図柄で覆われていることは、外からでは分からない。副住職から、現在のお堂は前の時より一回り大きくなったと見えて、図柄が一部足りない、職人が方向が分からず適当に張ったようで、まちまちになっている、などの説明があった。
次回は48番、54番、17番、19番、63番を調査。雨天の場合は勉強会(於市民活動St.)。(中澤 雅夫)
事務局だより
・新入会員のご紹介:塩野 成美さん(白山)、吉田 全吾さん(台田)。お二人ともどうぞ、いろいろな部会・講座にお出になって見てください。
・会員消息:湖北台にお住まいの麻生幸平さんは4月27日火災のため亡くなられました。86才でした。謹んでご冥福をお祈りいたします。
事務局 〒270−1132 編集・発行 編集委員会
我孫子市湖北台5-15-17 岡本方 TEL. 04-7149-6404