平成29年6月23日発行   我孫子市史研究センター会報   184号  通算491号
  編集:編集委員会 

 

 歴史部会5月の発表

志賀直哉作品に登場の我孫子を探る

荒井 茂男

文豪志賀直哉(1883~1976)が我孫子で暮らした7年半(32~)は、彼の人間として作家として最も充実した時期でした。

彼は生涯に23回転居し、我孫子での生活は長い方ですが、ただ単に時間的な長さだけでなく、色々と人生上の重要な出来事がありました。新婚生活、長女の誕生と死、父親との和解(10数年ぶり)、そして代表作『城の崎にて』『和解』『小僧の神様』『暗夜行路』(前篇と後篇の2分の1)など我孫子で執筆しました。

「僕はどこに住んでもその地方の生活にちっとも接触しないから、またしようともしないから」と昭和10年のインタビューで語っている。が、我孫子は志賀作品に数多く登場します。昭和26月の「我孫子区地図」(楚人冠宅で発見、文化・スポーツ課調製)で作品に登場の我孫子を探りました。

我儘、強情な性格

直哉は明治16年に宮城県石巻町で父・直温(なおはる)母・銀(ぎん)の二男として誕生。長男は満2歳余りで夭折しており、実質志賀家の長男として成育。志賀家は近江国志賀城主だったが没落、相馬藩に仕えた武家。祖父・直道は明治維新後は相馬藩の権知事、福島県の大参事を歴任、明治5年に相馬家の家令となり主家の財政のため古河市兵衛と足尾銅山の開発を行った。父・直温は総武鉄道や帝国生命保険会社の重役として活躍。

直哉は2歳から親元を離れ、祖父母のもとで志賀家の跡取りとして過保護に育てられた。わがまま、癇癪持ちの性格はこの育て方からと思われる。父親からは「猪武者」といわれるほどであった。

尊敬した三人

1.祖父・直道は、二宮尊徳の弟子で「二・三人の最も立派な人の一人」

2.師・内村鑑三は、18歳の時から7年間通い「正しいものをあこがれ、不正虚偽をにくむ」倫理的骨格がつくられ、鑑三の演説を聞いて足尾銅山視察を計画するが、父親に強く反対され断念。(不和の始まり)

3.親友武者小路実篤とは、19歳の時に学習院で2年落第し、同級生となり21歳で小説家を志し、回覧雑誌をはじめ27歳で『白樺』を創刊(1910)、生涯の親友であった。『白樺』創刊号 19104

富国強兵の時代

直哉・実篤・柳宗悦・有島三兄弟ら白樺派の人達は、富国強兵の時代下に育ち、個人尊重・人道主義を唱えるなど文芸活動だけでなく、大正デモクラシーの中心となり多くの若者たちに影響を与えた。

M2728年日清戦争  M37年日露戦争  M38年足尾銅山争議  M39年韓国総監府開庁  M42年伊藤博文総理暗殺  M43年『白樺』創刊、大逆事件


作品に登場の我孫子

「和解」

回春堂(荒井茂雄医師)江戸時代大沢領の名主でM28年開業(22歳)志賀家の家庭医。直哉の坐骨神経痛の治療後に将棋の相手。S4年死去(56歳)に奈良の直哉より香典届く。回春堂・現荒井家

・隣の百姓家、隣のばあさん津川家、ばあさんは嫁のますさん(当時2425歳)で危篤の赤子のために、夜中に沼向(沼南)に氷を買いに行く緊迫感を強めるため新妻を年寄に代えた演出だ。

・三造本名は宇田川三之助、丸キ運送店の船頭で志賀家・柳家の雑用も行っていた。自宅が現楚人冠公園の東南のガケ下にあった(今は空地)。ベンチのある右の崖下の空地が自宅跡

・出入りの大工佐藤鷹蔵、直哉と宗悦の書斎を建てた。旧村川別荘にある三角イスは、バーナードリーチがデザインし鷹蔵が製作した物、一見の価値あり。自宅は、常磐線沿い久寺家道に面した大黒屋。奥さんが下宿屋を営んでいた。

「雪の日」

・停車場前の菓子屋相模屋、地元では苗字の「砂押(すなおし)」とよばれS40年代まで和菓子製造していた。ここの大福は白樺派の人達にも好まれた。

・炭屋薪炭商小熊商店。

・米屋大阪屋、初代は明治になってから流山より移転、開業した。

・郵便局扇屋金物店の敷地内(隣接)に明治の初めに開業、渡辺家当主が初代局長。


「雪の遠足」

・警察分署現防犯ステーション

・S大工の家佐藤鷹蔵宅(大黒屋)


「十一月三日午後の事」

・庭から裏の山へ出た現書斎の裏側に階段があり、登ると雁明の住宅地をへて子の神道へ出られる小道(赤道という公道)がある。右の階段を登って行くと小道がある

・成田線の踏み切り現「浜街道踏切」、水戸道中が明治5年〜同18年まで「陸前浜街道」と呼ばれた名残で命名か。

・東源寺という榧の大木で名高い寺現東源寺、1540年創建の古刹、まがやは樹齢200年余で県の天然記念樹。
我孫子市柴崎の東源寺


「流行感冒」

・町の製糸工場では四人死んだと山一林組我孫子支店、現イトーヨーカドー。この時のかぜは、1918年(T7)から翌年にかけて世界的に大流行した「スペインかぜ」で、世界で死者5,000万〜1億人以上、日本では人口5,500万人のうち感染者2,500万人・死者40万人であった。


直哉の直筆署名のナゾ

大正の中期以降、原稿・書の署名に「哉」が「 」と右のタスキが抜けています。私が長年不思議に思っていたところ、先日星野征朗会員からこの疑問を説く文書をいただいた。

昭和486月発行の『志賀直哉全集』第五巻月報5(岩波)に阿川弘之氏が、「哉」の書体について、を書いている。

理由を聞くと「何だかうるさい感じがするんでネ」と言ってをられました。(中略)(志賀先生は)シナの書の拓本を見るのは好きでしたから、実際は古い書体のことも知ってをられたのではないかと思ひます。

早速、手元の『五體字類』(古人の色々な書体を集めた辞典)を確認、隷書や楷書にタスキ抜きがありました。緑二丁目の直哉邸跡地を見学の際には、園名板の直筆の味わいとこだわりを楽しんでみたらいかがでしょうか。



 

歴史探訪部会 6月の活動

長谷川 秀也

歴史探訪「古利根沼・中峠城址・小堀から渡し船で取手へ」

・日時:616日(金)

・集合:900 JR成田線湖北駅改札口

・解散:1650 キリンビール取手工場

・参加者:21

* 出発時は眩しい日差しが射し、日向は汗ばむ暑さでしたが、日陰は風が吹き抜け涼しく、中峠城址では気持ちの良い森林浴が出来ました。渡し船はディ−ゼルエンジン独特の音と臭いを出しながら約   20分で取手側に着きました。キリンビ−ル取手工場で出来立てのビ−ルを試飲。帰途烈しい夕立に遭いました(歴史探訪では初めての事)。

行程 910JR湖北駅出発〜庚申堂〜9:20天照神社〜古利根〜水神社〜9:45波切不動〜中峠城址〜追分道標〜10:45足尾山神社〜11:00小堀地区(小堀河岸・常圓寺・同境内・高瀬舟模型等見学)〜A班(10名)小堀の渡しで取手市へ〜昼食。

B班(10名)小堀集会所で昼食後渡しで取手市へ〜A・B班合流後キリンビール取手工場見学、16:50解散。

* 探訪参加記は次号に掲載予定です。

7月の活動―座学>

・演題「利根川水運について−江戸期利根川中流域の動向−」

・日時  712日(水)13301530

場所                       アビスタ 第3学習室

講師                       山崎章蔵会員

・参加費                      200

*参加自由です。講演後質疑応答の時間を用意しました。6月探訪(小堀地区)の復習も兼ねます。(下記案内参照下さい)


7月歴史探訪部会・座学のご案内

利根川水運について―江戸期・利根川中流域の動向―

日 時: 7月12日(水)13:3015;30

会 場: アビスタ・第3学習室

参加費; 200円(資料代) 予約不要 参加自由

講 師: 山崎章藏(会員)

                         

内 容: 河川船運の拠点となる停船地や、その集落を「河岸」といいます。河岸という言葉は、近世初期に新しく生まれたものですが、中世の「津」と同じ性格をもっていました。

利根川東流(遷)事業は、幕府領や諸藩の年貢米の江戸への廻送、大都市・江戸への消費物資輸送のための河岸場を発展させ、利根川中流域には、小堀・境・関宿河岸(含船関所)などが、江戸川では、加・松戸河岸などが展開します。

小堀河岸を中心において、利根川中流域の河岸役割や機能、艀下船と御穀宿、浅瀬の出現、藩財政の逼迫と水戸藩などの輸送費節減、問屋・関所の少ない道を求めた新道・新河岸の出現、河岸の衰退などについて考えていきます。



歴史部会5月の活動

逆井 萬吉

 

22回研究講座   出席者15

日時 平成29528日(日)1330分〜1630

会場  我孫子北近隣センターつくし野館

発表者 荒井 茂夫会員

テーマ 「志賀作品に登場の我孫子を探る」

配布資料   A4判 1

本文      A3判 3

昭和2年我孫子区地図  1

発表の要旨

 ・志賀直哉作品中、「和解」「雪の日」「雪の遠足」

「十一月三日午後の亊」から、文中に登場する我孫子の地名・家・人物等について、昭和2年の地図より検証し解説(p12に発表者の報告掲載)。

なお、発表に際して、市に借用を申し込んでおいたプロジェクターが、一部の部品が欠落していて使用できなかった。急遽、レジメを中心にして発表した。

◎ 7月研究講座の予定

723日(日)1330分〜1630

○会場 我孫子北近隣つくし野123号館

○発表者 越岡 禮子会員

○テーマ 「明治天皇我孫子宿御宿泊」

 副題 明治17年女化原演習天覧行幸記



合同部会6月の活動

中澤 雅夫

6/17(土) 出席者9

「天照神社」の調査(3/18)報告案を検討した。10:0011:45、於、市民活動St.大会議室。

午後開催の「平将門フォーラム」(於、市民プラザ・ホール、12:00開場)があるので部会を早めに終えた。

1.「天照神社」調査報告案の検討

配付資料:天照神社報告書案(担当:田中由紀さん)。

標記報告書案については、メールを使っている部会員には6/10(土)に送信した積もりであったが、どなたも受け取っていないとのことだった。後、送信履歴を調べてみたら、送るには送ったが、送信先アドレスが違っていて、しかも容量過大のためとして配信されていなかった。

そのため、会議に先立ち、部会の方達に原案をコピー・セット・配付して頂いた。

皆さんからご指摘頂いた点は以下の通り:

@表題の伊勢山天照神社は、市史通史や市史研究での表記通り、天照神社とする。

A祭神は主祭神だけでなく、合祀した祭神も記載する。

B石碑の名称は刻銘通りとする。

C「8祭礼」と「9年間行事」は一部重複するので、一本化する。

D「101日 例大祭」は天照神社としての最大の行事なので、浅間神社・八坂神社のお祭り同様、別項で説明する。

E浅間神社の祭礼は布佐の浅間神社と対になっていることを付記する。

F「参考文献」に刊行者、刊行年を記入する。

以上の外、神事の説明・ルビ、用語、字句等について指摘があり、それらを訂正することとなった。

また、「合祀」についての同神社の教えについても一言触れた方がいいのではないか、との意見もあったが、当方の理解力不足でちょっと難しいとのこととなった。

2.今後の予定

7月は7/15(土)10:00〜、6月と同じく市民活動St.大会議室にて、「天照神社」調査報告書修正案と「龍泉寺」調査(5/20)報告書案、並びに今後の調査方針を検討する予定。



古文書日曜部会6月の活動報告

中川 健一

今月も引き続き『落穂集』巻之三の一節「皆川老甫斎之事」を解読した。

皆川老甫(斎は号などにつけるものにつき以下テキスト通り斎を省略)は仏門に入ってからの名前で、それ以前は皆川広照(山城守 1548~1627年)と称し、下野・栃木市外れの皆川に山城・皆川城を築き、後北条氏の家臣であった。秀吉の小田原攻めに際しては北条方へ出陣したが、家康のもとに降伏し本領を安堵され家康の六男忠輝(上総介)の養育係となった。忠輝の教育方針を巡って意見が合わないことがあり、改易され出家し老甫と号した人物。子の皆川隆庸が大坂夏の陣で井伊掃部頭(直孝)の下で活躍し父親の改易処分を解くことに成功した。

この皆川城跡は平成25年度10月のバス見学会「小江戸・栃木」の時訪問しており、筆者は山城の麓にある皆川家の菩提寺金剛寺を駆け足で見てきた。この皆川広照他一代も欠けることなく、歴代の墓が大規模ではないが整然と並んだ様はなかなか見ごたえがあった。

さて、皆川老甫斎の節の本文は、『覚書(備忘録やメモなど)を脇差の下緒(さげお)に結びつけることを「老甫懸り」と言う理由は?』で始まりその答えの大意は以下の通り。

1.        皆川広照が忠輝の付け人となったが強く意見することがあり死罪を申し付けられた。しかし大徳院(秀忠)の意向で、改易で済むこととなり京都智積院で出家し老甫と名乗った。また息子隆庸は武州八王子城主へ転封させられた。時に大坂冬の陣が起こり忠輝が出陣したので、そこへ老甫は出向き奉公を申し出たが謝絶された。代わりに息子隆庸を井伊掃部頭の陣へ送り出した。

2.        忠輝は家康のご意向にも叶わず、家康が駿府で病床に就いたときのご機嫌伺でも会えず、臨終のときも遺言でお目見えできなかった。一方大坂の役で功績のあった皆川隆庸は、井伊掃部頭の報告が認められ父が名乗っていた山城守を名乗ることとなり老甫は別途隠居扶持を貰うこととなった。

3.        老甫は毎日暮時登城し西の丸の竹千代(家光)の話し相手をするよう土井利勝(大炊守)に言われた。老甫は年も取り物覚えも悪くなったのでその晩話すべき事々を心覚えに書付、それを脇差の下緒に結びつけ御前に出るときは一通り見てから出るようにした。これを見習った西の丸ばかりでなく本丸の役人達も覚書を脇差の下緒に結びつけるようになり、これを世上で「老甫懸り」というようになったのである。

ところで、1971年生まれで15年には直木賞候補になったこともある門井慶喜(15代将軍と同名!)には『家康、江戸を建てる』なる一冊がある。短編全5話からなっていて江戸の開発を知るのにまことに面白く参考となる小説と考えるのでご紹介いたします。内容は以下の通りです。

第一話 流れを変える 利根川東遷の話

第二話 金貨を延べる 大判小判鋳造の話

第三話 飲み水を引く 神田上水の話

第四話 石垣を積む 石垣用伊豆石切り出しの話

第五話 天守を起こす  天守閣建築の話

以上


古文書火曜部会6月の活動報告

1 萩原 正美

日時 平成29620日(火)13301600

会場 市民プラザ第1会議室

出席者 35

火曜部会では今月から金井家文書「萬日記」の解読に入りました。この文書は故金井準会員から提供されたものです。

金井家は江戸時代に新潟の見附町組大庄屋を勤め、明治新政府の下でも区長を務めた近隣屈指の名家です。

「萬日記」は故金井準氏の御先祖が北越戦争の際に、村松藩の命令で米沢藩軍事周旋方として従軍した「従軍記」です。

大政奉還以後も、慶応4年、新政府軍と奥羽越列藩同盟が長岡藩周辺地域で激しく戦った戦争を北越戦争と呼んでいます。司馬遼太郎著「峠」によって、長岡藩家老の河井継之助の活躍は広く知られています。

軍事周旋方の任務については、命令の具体的内容が記述されていませんが、軍事行動をとる際に戦地になる地域の住民に対して敵対行動に走らず、協力的態度をとるように働きかける任務と推定します。読み進むうちに文面から具体的な任務を理解していきたいと思います。

●慶応4年七月廿二日、村々説得のために(い)(や)日子(ひこ)(弥彦)を出立し、岩室から三根山へ行き、三根山藩の24ケ村を説得して、各村々に伊夜日子大明神の御札を渡した。伊勢守様(身分はわからない)から旅宿に見舞いの昼食を下された。午後4時頃に(み)(ね)(やま)を出発し、(とう)(しま)で人足継をし、赤塚村に宿泊した。

●七月廿三日、赤塚村を早朝出発して内野村にて45ケ村の説得をした。午後5時頃新潟に到着し光林寺に止宿した。この寺は御家老が総督として宿陣にした寺である。

●七月廿四日、新潟郊外の日和山から見ると、アメリカの蒸気船が一艘停泊し、船員が新潟市中を歩き回っている。

●七月廿五日、朝8時頃湊に官軍の軍船6艘が入港しているとの知らせがあり、その後松ケ崎港へ向かっているとのことなので、早船で向かったが官軍はすでに松ケ崎に上陸してしまった。止むを得ずに沼垂(ぬったり)から対馬屋村を経て新潟に帰館した。この官軍上陸の際に奥羽越列藩同盟側の庄内藩家老が討死してしまった。1,000人の官軍兵士の上陸によって戦況は著しく奥羽越列藩同盟側が極めて不利になった。

●七月廿六日、官軍が松ケ崎に上陸したので、備えの為に庄内藩半小隊、新発田藩弐小隊が出陣し、米沢藩半小隊も出陣して三藩が軍議をした。物見を出すと新発田藩が官軍に寝返ったことが判明したので、陣固めをしていると三方から激しく攻撃され、炮弾が雨あられのごとく降り注ぐため、残念ながら沼垂まで引き上げた。まさに九死一生であった。

この戦いで討死一人、手負い一名、行方不明四名がでてしまった。沼垂陣地を引き払い、船にて新潟に引き返した。

夜半12時頃に新潟に到着し、軍議の結果(へい)(しま)で防戦しようとのことに決定したので、自分たち5名は引き上げるように命じられ、平島から内野を経て浦村にて泊まる。

●七月廿七日、浦村から(つり)(よせ)、五反田の渡しを渡って加茂新田まで来ると、米沢藩が川端に小屋掛けして、新発田藩の武器・兵士100人を乗せた船6艘に出会った。

さて、本日の解読はここ迄です。今後の展開はどうなるのでしょうか? 興味津々ですね。

火曜部会員の山本さん、田中さん、後藤さんから地図や年表などを提供していただきましたので、とても理解しやすかったことをお礼申し上げます。特に後藤さんは長岡生まれの新潟育ちなので地名に精通しています。今後の解読の大きな戦力と期待しています。

故金井準氏は、この資料を皆が読み易くするために、丁寧に準備を重ねられました。そのお心遣いに感謝申し上げるとともに、御冥福をお祈りいたします。

以上


(会員寄稿)

北信濃・栄村「こらっせ」訪問記

関口 一郎

北信濃とは  本年の514日(日)に長野県下水内(しもみのち)郡栄村の「こらっせ」と名付けられた「栄村歴史文化館」を見学してきた。下水内郡栄村といってもピンとこない人は多い。長野県と新潟県の県境に位置し、JR飯山線の森宮野原駅が下車駅。森地区が信濃側、宮野原地区が越後側で、まさに国境である。この地域は「奥信越」地方ともいわれる。

もう少しわかりやすく説明を加えると、江戸後期に鈴木牧之が歩いた『秋山記行』の地、「秘境・秋山郷」であり、いま風にいうと「苗場山麓ジオパーク」の舞台でもある。


「こらっせ」全景

なぜここを訪問したかは、記述のなかで追々分かってくるはずだが、要するに一度行ってみたかったこと、うまくチャンスが訪れたことにある。前日の13日に越後側の十日町市に所用があり、翌朝8時半に飯山線の上りに乗ると9時過ぎには森宮野原駅に着く。

ここが目的地の入り口で、ここからの行程が思案されたのだが、事前に、10年ほど前市史研の歴史講演会で講師としてお世話になった中央学院大の白水(しろうず)教授からのありがたいコメントがあった。栄村では「デマンド交通システム・かたくり号」という予約制の交通機関を設けており、住民や旅行者の便宜を図っている。平日は一定の路線をさだめて予約制で、マイクロバスを使って戸口から戸口に送ってくれる。一律300円。土日・祝日は、タクシーの「かたくり号」が出動し、予約しておくと、メーター3,300円までは300円均一。定額を超えた場合は、300円と超過分を支払う(差額分は行政が負担。)、とのサービス制度を教えていただいた。

予約通り駅頭には「かたくり号」が待機していた。駅からの道のりは、南北に流れる「千曲川」が県境で「信濃川」と呼称が変わる付近を通る。この県境付近には志久見川も流れていて、橋を渡るごとに長野県と新潟県が入れ替わり、河岸段丘も見え、興味津々の風景が続く。やがて栄村歴史文化館「こらっせ」に到着し、関澤館長に迎えられた。

「こらっせ」とは、「どうぞ、お出でください。」との土地の方言である。ここは村の小学校分校を改造して「栄村歴史文化館」として活用し、また村内10か所ほどある「公民館」の本部機能も果たしている。館長を含め4人体制で運営され、生涯学習担当職員は「苗場山麓ジオパーク」も担当している。

大震災に遭う  さて、栄村は人口約1,950人、世帯数も850ほど(20176月現在)の面積は大きいが人口の少ない村である。冬の豪雪期には陸の孤島といわれることも多い。実は2011年(平成23311日の東日本大震災の翌朝、前日に匹敵するマグニチュード6.7、最大震度6強の地震に見舞われ、大きな被害を蒙った。「長野県北部地震」と記録されているが、東日本大震災の被害があまりにも大きかったため、こちらへの注目度が低くなってしまった。

家屋の倒壊はもちろんであるが、旧家の土蔵も崩れた。以前から旧家の歴史資料や古文書調査に関わっていた前述の白水教授を中心とする専門家グループは、文化財の廃棄を防ぐために支援活動に何か月も取り組んだ。

保全有志の会  この文化財支援の期間、村民も共に活動した。そしてこれまでの外部からの専門家中心の作業から、村ぐるみの活動に移っていった。古文書をはじめ、民具などの文化財が空いている学校に運び込まれるなどの作業が続き、それは文化財を学ぶ学習活動に移っていった。やがて「文化財保全有志の会」が結成され、文献(古文書)班、民具班、考古(遺跡)班の3つのグループがつくられた。

こうした過程のなかで、持ち込んだ文化財を活かすための収蔵・展示施設に取り組むことになる。耐震補強工事に経費も掛かったようだが、行政も積極的にサポートしてくれたようで、むかしの学校も立派に活かされた。

これら一連の作業は、白水教授の堅実なリーダーシップのもとで進められたといってよいであろう。館内に入って最初に感じたのは、何から何まで手造りでありながら、やはり幅広の学校の階段がどっしりと昔日の威容を見せていたのが印象的であったことである。

1階は公民館活動・学習活動の部屋、「ネコつぐら」造りなどの作業室、こらっせ誕生までの軌跡の展示コーナー、土蔵にあった調度品などの収納室も中2階に造った。2階は考古・古文書・民具などの収納室があり、栄村の歴史が学べる考古・文献・民具類を室内いっぱいに展示。教室の再現やむかしの教具・教材の展示も試みている。

 
    学習室兼くつろぎのスペース     会員のつくった「ネコつぐら」(作業室)
 
       小学校時代の階段                  二階展示室

白水先生には事前の連絡でお世話になり、関澤義人館長、こらっせ管理人の広瀬幸利さん、長田ちなみさん、皆さんも親切で大へんお世話になったこと、篤く御礼を申し上げたい。広瀬さんには、市河氏の居館跡・北野天満宮にも連れて行ってもらい、感謝感激である。


       広瀬さんと長田さん

こらっせ近辺にはお店がなく昼食は3時過ぎになったが、道の駅のオヤマボクチとフノリ入りの蕎麦は抜群だった。また、かたくり号に何度かお世話になったが、この制度は車のない旅人には大助かりである。駅に近い「震災復興記念館」は時間が足りず見学できなかったが、私も子どもの当時田舎で経験した、豪雪地を象徴する最深積雪記録7m85cm1945年)の記念碑を、ゆっくり眺めた。帰路は、駅前から越後湯沢行のバスで帰ることができた。


日本最高積雪地点・標示記念碑
(実寸 7m85cm

会員寄稿)

「日光街道を歩く」1回(日本橋〜千住宿)

矢野 朝水

 旅行会社の、月1回、17回にわたり「日光街道を歩く」の広告を見て参加することとした。第1回は、2017419日、日本橋〜千住宿。以下は、その記録。

なお、行く先々で俳句を作ろうと考えた。実は、昨年、我孫子市の長寿大学に入学し、俳句クラブに入ったのである。俳句上達の秘訣は「多作多捨」(たくさん作ってたくさん捨てる)という。俳句と言えないような駄句を人様にお見せするのは、恥部を晒すみたいでお恥ずかしい次第だが、ご愛敬とご容赦願いたい。

2017419日 910日本橋出発。現在の日本橋は、明治44年の建築。「日本橋」の文字は第15代将軍徳川慶喜の筆。日本橋には「さらし場跡」、「日本橋由来記」、「魚河岸記念碑」(大正12年の関東大震災で日本橋から築地に移転)、「道路元標」と見所が多い。春とは言えないほどの暑さ。

 春暑し日本橋より江戸の旅


日本橋魚河岸記念碑

浅草橋に向かうが、途中「伝馬町牢屋敷跡」の「十思公園」に寄る。「伝馬町牢屋敷」は2,618坪。慶長年間(1596年〜1614年)から明治8年まで270年間存続した幕府最大の牢屋兼死刑執行場。在牢者は多いときは1,000人を越えたという。

「十思公園」には刑死した吉田松陰の歌碑「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」。

 春愁や松陰先生刑死跡

松蔭の刑死の跡や桜散る

横山町の繊維問屋街を抜け、JR浅草橋駅を越えると左手に「吉徳人形館」;古い人形などが展示されており興味深い。浅草橋のたもとには「郡代屋敷跡」(関東郡代の屋敷跡)、「浅草見附跡」(下町唯一の見附跡)。→「浅草天文台跡」。(浅草天文台跡で伊能忠敬を偲んで)

忠敬の学びし跡や桃の花

駒形橋交差点の右手には「駒形堂」(本尊;馬頭観世音)、「戒殺碑」。→日光街道は「雷門」に突き当たる。浅草寺は観光客が多い、目立つのは外国人観光客。

春暑し人人人の浅草寺

右折し「隅田公園」;弁当を食べる。隅田川越しにスカイツリーが聳える。公園には「子規句碑」(雪の日は隅田は青し都鳥)、『「花」の歌碑(作曲;滝廉太郎、作詞;武島羽衣)』。

歌碑の前で参加者で「花」を歌う。

 天を衝くスカイツリーや風薫る

春うらら隅田の往時偲びけり

隅田公園を出て「待乳山聖天」(本尊;歓喜天。商売繁盛・夫婦和合にご利益。境内には池波正太郎生誕地の碑、八重桜)。

  八重桜重く垂れゐる聖天院


待乳山聖天

江戸六地蔵の一つが鎮座する「東禅寺」に寄る。

  街道を見守る地蔵糸柳

泪橋の交差点を越え貨物線の上を渡ると左手奥に「小塚原刑場跡」(江戸時代、鈴ヶ森と並んで二大刑場の一つ。20余万人が処刑)、「延命寺」(刑死者を弔う「首切地蔵」)。

 暑き日や刑場跡の地蔵尊 


首切地蔵

その先に「千住回向院」(杉田玄白腑分けの碑、吉田松陰、橋本佐内の墓、白椿)。

時代の変化に目覚め、声を上げ行動を起こした者は非業の最後を遂げ、後からおずおずと付いていき、命を長らえた者が果実を享受する。当たり前のこと、例えば、開国を実現するため、いかに多くの血が流されたか、それが当たり前になると忘れられてしまう。事の大小を問わず、今日でも変わらない。

 先覚は非業の最後落椿

回向院から日光街道は「コツ通り」という恐ろしげな名前の通りとなる。一説によると小塚原一帯は掘ると人骨(コツ)が出るからとか。北上すると(「素戔(すさの)(お)神社」(芭蕉句碑)に突き当たる。

ここで日光街道は国道4号線に合流する。右折すると「千住大橋」(1594年徳川家康が江戸で最初に架けた橋)。橋のたもとの公園に「奥の細道矢立の碑」(芭蕉はここまで隅田川を舟できて上陸し、奥の細道の旅に出立した。「行春や鳥啼魚の目は涙」)。

 芭蕉翁の旅の千住や若葉風


奥の細道矢立の碑

1600 京成線千住大橋駅にて解散。

(次回へつづく)


各部会活動・7月の予定
会員は下記6部会のどれにも参加できます。初めての参加の時には部会の担当者に連絡して下さい。

部会と集まり 担当
@古文書解読日曜部会(第2日曜) 79(日) 1300 我孫子北近隣センター並木本館会議室3 清水 千賀子
テキスト  印西市五十嵐家文書
A古文書解読火曜部会(第3火曜) 718(火) 1300 戸ヶ谷あびこ病院7F大会議室 日出夫
テキスト 見附 金井家文書「萬日記」(北越戊辰戦争従軍記)
B井上家文書研究部会(第2土曜) 7月8日(土) 1330 我孫子北近隣センター
並木本館会議室2
品田 制子
C歴史部会 (第4日曜)
「明治天皇我孫子宿御宿泊」
          越岡 禮子会員
723(日) 1330 我孫子北近隣つくし野館123号室 谷田部 隆博
D合同部会 (第3土曜)
調査報告書案、今後の調査方針検討
715(土) 1000 市民活動St
大会議室
中澤 雅夫
E歴史探訪部会2水曜/2金曜)
座学「利根川水運について―江戸期・利根川中流域の動向―
712 1330 アビスタ第3学習室(予約不要) 荒井 茂男
7月度運営委年間計画他 722(土) 940 市民活動St.大会議室 岡本 和男

   郷土資料館推進会の次回会合は73日(月)1000より市民活動ST小会議室で行います。

事務局便り

「我孫子の歴史」講演会ご案内

当会が進めています「我孫子市に郷土資料館を!!」活動の一端として、市内各近隣センターで協働の講演・展示会を開催予定です。

1.近隣センター「ふさの風」

H29722日(土)10時〜

・会場:ふさの風 第1会議室

・講演会:「1世紀前に書かれた郷土史『湖北村誌』と菅井敬之助たち」

・講師:柴田 弘武 当会顧問

・展示:『湖北村誌』についてのパネル3枚、当日講演会場にて

2.天王台北近隣センター

H29916日(土)13時開場、13301530

・会場:天王台北近隣センターホール

・講演会

第一部 「無量院と青山村」

 講師 飯白 和子 当会会員

第二部 「時間との戦い―昨日ゴミに出してしまいました―」郷土資料館の設置をかんがえる

 講師 東 日出夫 当会会員

  いずれも予約不要、入場無料



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