平成29年2月24日発行 我孫子市史研究センター会報 第180号 通算487号
編集:編集委員会
―『新四国相馬霊場八十八ヶ所を訪ねる』出版記念―
第10回 歴史探訪部会主催 相馬霊場札所参り
1.日 時:3月8日(水)(雨天延期)☆延期の場合は前日19:00までに連絡をします。
関東鉄道常総線 取手9:30発 → 寺原駅下車(料金150円)
(JR常磐線「我孫子発09:12、天王台発09:15」取手行きが便利)
2.集合場所:関東鉄道常総線ホーム
(JR取手駅ホームの藤代寄りの階段を上がる)
3.参加費:200円(保険代、資料代など)
4.案 内:合同部会 近江礼子さん
5.申し込み・問合せ先:メール 長谷川秀也 sakts@jcom.home.ne.jp
(メール申し込みの場合は受信確認のメールを返信します。)
TEL&FAX 荒井茂男 04-7182-2838
申し込みは 3月1日(水) までにお願いします。
行程:
関東鉄道常総線「寺田駅」 →
@69番 寺田 観音堂(旧法海寺) → A70番 寺田 永福寺(廃寺) → B71番 寺田 東漸寺 →
C30番 井野台 一乗寺 → D53番 井野台 弥陀堂 → E83番 白山 諏訪宮
【昼食】「ゆうあい」プラザ(昼食持参、近くにコンビニあり)
F白山 光音堂(金刀比羅神社) → G82番 白山 弘経寺
歩行距離=約4.5q、
『新四国相馬霊場八十八ヶ所を訪ねる』 p.198〜p.217
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市史研・歴史講演会 「我孫子中世史へのアプローチ―相馬氏をめぐる歴史・伝承の世界―」を聴いて 飯白 和子 |
市史研恒例の平成28年度歴史講演会が「我孫子中世史へのアプローチ―相馬氏をめぐる歴史・伝承の世界―」と題し、去る1月21日(土)に岡田精一先生(東北福祉大大学院教育研究科教授)を講師に迎え、我孫子市民プラザで開催された。
前日の予期せぬ降雪で、当日の天候が心配されたが、140名弱の来場者で盛況であった。会場内には、南新木の羽黒前遺跡から出土した陶器類や壕(堀)などの写真、「羽黒前城館」図などのパネルや、「将門伝説」f関連のパネルも展示され好評であった。
講師の岡田清一先生は、我孫子市史の『古代・中世資料篇』および、平成17年3月に刊行された通史篇、『原始・古代・中世篇』の監修および中世篇を執筆されていることもあり、今回、どのようなお話をして下さるのか、大変楽しみであった。休憩を挟んで前半は文書史料を中心に「相馬氏をめぐる歴史」として、後半は「伝承の世界」として地域に伝わる「将門伝承」が、どのように形成され、伝えられていったか、相馬氏の将門子孫伝承が幸若舞の『信田』の影響を受けていること、こうした伝承が文献史料に取り込まれていく過程など、豊富な史料を使い説明された。講演内容は、幅広く多岐にわたるので、以下は私が関心を持ったことについて概略を記してみたい。
◇相馬氏をめぐる歴史
相馬氏は鎌倉時代末期、現在の福島県南相馬に移住し、南北長期には北朝方となる奥州相馬氏と、下総に残り、のちに南朝方についた総州相馬氏の二流に分かれた。現在残っている相馬氏関係文書(「相馬文書」)は南相馬に移住し、のちに相馬中村藩となる相馬氏と相馬岡田家文書と大悲山氏関係の三つだけで、相馬氏の歴史が語られていているが、もう一度、「相馬文書」を批判的に読み直す必要があろうという。
具体例として、一般にこれまで「胤村譲状案」と言われている文書は胤村が作った譲り状ではなく、胤村の子供の師胤か、その母が鎌倉幕府に要請した文書で「相馬師胤申状(カ)」ではないかという。
また、「応永二」という別筆の「押紙」のある「下総国南相馬田数注進状案」という文書は、応永二年では無く鎌倉時代末期の14世紀の史料であろうという。相馬中村藩は、江戸時代の延享元年(1744)、藩主尊胤の代に家伝の古文書一九通を二巻に仕立て、一通々々に由緒を書き、布地、色紙を短冊のごとく切り、書いて、張って、八代将軍吉宗に上覧できるようにしたという。そのとき、下総国分の所領のみを残し不都合な内容と思われる南相馬分は破棄し、応永二年ころまで下総国に所領を持っていたという証にするために改竄したのではないかという。現在までに伝わっている文書というのは、系図も含め大方こうしたものであるという。およそ、通史篇などには書かれない内容の話もあった。
また、「相馬師胤申状(カ)」の史料から、先妻の子と後妻の子の間で所領(遺産)争いがあったことや、しかも、二代続いて同様なことが起きていたこと。「下総国南相馬田数注進状案」から、執権北条時頼の有力家臣、長崎思元との訴訟で、所領の三分の一が奪われてしまった可能性のある事などを解き説明された。またこの史料には、奥州相馬氏が支配していた下総の村々は手賀沼の南、旧沼南町で我孫子の村々の地名は出てこないこと。むしろ、現在の我孫子市域にある村々および稲(取手市)・布川・押戸(利根町)などを支配していたのは島津氏(薩摩国島津荘の在地領主)で、相馬胤綱(相馬氏の祖師常の孫)の三女(尼妙智)が島津久経に嫁ぎ、その姻戚関係で島津氏に伝領されていったこと。当時、この我孫子一帯、稲、布川は黒崎郷と呼ばれていて、この黒崎にある村をめぐって、元亨元年(1321)ごろ相馬親常と島津忠宗(久経の子供)の間で裁判が起きていたことなどを文書、系図、地図を使い説明された。
羽黒前遺跡と相馬氏の本拠
羽黒前遺跡の中世の城館跡(「方形居館跡」)を、相馬氏の本拠だったのではないかと推定されている。近くの日秀に、古代の相馬郡衙跡といわれる「日秀西遺跡」があること、郡役所が置かれるというのは、だいたい交通の便の良い所。手賀沼を介して物資が直ぐに運べるような所だったのではないか。そうした所に、相馬氏も居館を置いたのではないかという。最初に中心部の「方形居館跡」が造られ、その後、外の堀が増設されたと考えると、周辺からの出土遺物(常滑焼の壺など)は14世紀前半(鎌倉時代末期)であるから、それから、どのくらい遡れるかが難しい問題だという。堀は戦を想定したものであろうから、南北朝期に南朝と北朝が対立して戦争をする。そうした中で造られた可能性もあろうという。先生は、建物跡がある主郭部分が最初に造られたと想定し、周辺より時代が古いのではと考えられていった。
◇伝承の世界―文献史料から見る
将門と相馬郡の関係 『将門記』には、将門は「豊田郷に住す」(猿島郡)とあり、「王城は下総国の亭南に建つべし」「相馬郡大井の津をもってなづけて京の大津となさん」と記述されている。それが、「下総国相馬郡に都を立てた」という文言になるのは、12世紀前半に出来たと言われる『保元物語』が最初で、以後『延慶本平家物語』、『源平闘諍録』、『神皇正統記』、『太平記』には、「相馬郡に京をたて」、「相馬郡に住し」、「相馬郡に居所をしめ」などのフレーズが使われていることから、将門と相馬郡の関係は12世紀以降であろうという。また、『将門記』に相馬郡と出て来るのは、単に大井を京都の大津になぞられたというそこの個所だけであるという。
千葉氏と将門子孫伝説 千葉氏が将門の子孫だという伝承は、13世紀末から14世紀に成立したと言われる『源平闘諍録』に、千葉氏の先祖である良文(将門の伯父)が、甥の将門の養子になったと書いてある。ここで、将門と千葉氏、千葉一族との関係が出来た。これが一番古い史料だという。
相馬氏と将門子孫伝承 相馬氏の将門子孫伝承については、文献史料として「相馬則胤覚書」(元和8年=1622年)と「相馬当家系図」(寛永17年ごろ成立か)の二つがあるという。「相馬則胤覚書」には、承平年中、将門の兄弟子孫は皆殺されたけど、「若輩は配流なり、将門の孫文国の時、免ぜらる、配所より帰り常州に移住す、その後、一族を憑み、総州相馬に帰り、子孫三四代にて断つ、相馬小次郎師国に男子無し、千葉介常胤の二男師経を養子として名を譲る」と書いてあるという。
「相馬当家系図」は、寛永17年に江戸幕府が大名、旗本に系図の提出を命じて、その時の写しかも知れないという。その系図では、将門の父、良将を祖とし「良将―将門―将国―文国―(5代略)―重国―胤国―師国―師常―」とあり、文国に「信田小太郎」と書き込みがあり、「千手妃」という姉がいった。以後、代々信田に住し、重国の代に「長治元年常州信田より下総相馬郡へ引移、苗字相馬次郎左衛門尉ト相改、是より代々相馬ト云」と書かれている。
将門の孫の文国が移り住んだ所は、信田であるが、実は、幸若舞に『信田』というのがあり、「将門の子孫の相馬」という書き出しで始まるという。作品の中身は、「山椒大夫」の話がもとで、日本海側の「山椒大夫」の話が製塩・塩商人によって多賀城まで運ばれ、信太郡あたりにあった将門子孫伝承がドッキングして幸若舞の信太小太郎ができたのではないかという。『管見記』(1442年)に幸若太夫の記載があるので、15世紀にはできていたのではないという。それを、相馬氏がいつ取り込んだかは分からないという。江戸時代の系図というのは、こうした色々な伝承を取り入れて出来ていると言う事は、確かだろうという。また、「相馬則胤覚書」を書いたのは、「相馬蔵人佐則胤法名栢室道固 七十歳書写」で、江戸時代の初期、相馬則胤という人が新木村に住んでいたという驚きの話もあった。
その他、相馬郡を学際的視点から見るとして、物流や水運から房総沖や鹿島灘を評価し直す必要のある事、「常陸川」の名称の検討、相馬氏が建立した伊豆山神社の般若院についてなどの話もあった。
![]() 講演会場 |
![]() 講師を囲んで懇談会 |
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歴史部会1月の活動報告 第18回研究講座「近世初期の「領」名称と由来 山崎 章藏 |
発表の要旨
井上家文書研究会で解読中の文書、三河屋新田「宗門人別書上帳」(宝暦13年(1763)他)に、「下総国文間領布川村徳満寺」(現利根町)という記述がみられる。布川領や小金領の名称は、近隣の地方文書に見出されるが、「文間領」の呼称は初見である。以下に、我孫子市周辺の「領」名称の成立と由来などを考察し、当日発表した内容を記述したい。
T.「文間領」という呼称
相馬御厨四至の範囲には、?手賀 ?藤心 ?黒崎 ?文間の4郷がみられる。
★ 布川(現利根町)は、利根町の来見寺に伝わる天正13年(1585)鰐口銘に「関東道下総国相馬庄文間郷府川村・」とあり、布川は文間郷に属したと推定されている。(『我孫子市史資料・古代中世篇』)
★ 文間郷を確認できるもっとも古い資料には、「弘安10年(1287)に相馬胤綱の3女子(妙智尼)は、母の遺領『文間郷内押手村』を相続する」とある。
「文間」については、「文間氏と称する場合、一般的には師常流文間氏をさす。文間五郎胤家が文間氏の祖である。相馬義胤の子胤継の孫胤村の5男胤家が文間に住して、文間と号したことに始まる。」
(『利根町史(通史第2巻)』)
★ 文間の庄について、「立木村に文間明神あるより庄の名となり、全てこの辺の地を併せて文間八千石といふ」とあり。(『利根川図志』巻2)
★ 布川領(府川)については、赤松宗旦は『布川案内記』(来見寺文書)で「この頃(永禄年間〜天正18年)は、高7千石なりしとかや、(文間の庄)今の押付・横須賀の村々、その頃ハすべて府川領ニシテ、紀伊守(豊島氏)の領地なり、川向印西の方にも領分ありと見えて」と記述している。
★「文間」名称の村は、明治期に編成・成立している。『旧高旧領取調帳・関東編』では「小文間村(現取手市)」のみが確認できる。
明治22年(1889)の町村合併で、「布川町」・「文間村」・「東文間村」・「文村」が成立。昭和30年(1955)布川町・文間村・東文間村・文村が合併して「利根町」が誕生。なお、明治22年に「北文間村」が成立。その後、龍ヶ崎市へ合併・編入した。
★ 天正18年(1590)豊島氏は後北条氏とともに滅び。松平信一が「布川城を守りて、常陸の佐竹義宣に備ふるべし」との政策により、布川へ5千石で入封、布川藩成立。慶長6年(1602)松平信一は土浦藩へ転付。布川藩は廃藩。豊島氏あるいは松平氏の所領は、佐倉藩へ継承されている。
★(小括) 「文間郷(領)」と「布川(領)」の呼称は、同義に使用されてきていたと思われる。行政単位ではなかったので、一般の地域住民に理解されているならば地域の総称として、その地域に関連している「他の名称」を使用することもあり。慣習的に使用されたと考えられる。
U. 「小金領」と御鷹場の「領」
「小金領」の呼称には、戦国時代の小金城・高城氏の支配領域と徳川幕府の御鷹場に由来するものとが考えられる。
★ 高城氏は、千葉氏の庶流といわれる。永享9年(1437) 高城氏は、『本土寺過去帳』に登場する。
小金城・高城氏の支配領域は、「高城古下野守胤忠知行高付帳」(慶長年間(1648〜52)の記録)に、現在の我孫子・柏・松戸・流山・市川・船橋の各市一帯、埼玉・三郷市・東京亀戸・立石・堀切などを含めて、村数210ヵ村余が記録されている。
★ 本土寺は文永6年(1269)に開創。本土寺の所在は「下総国風早庄勝鹿郡平賀郷」とある。元和3年(1621)の徳川秀忠の朱印状には「寺領下総国葛飾郡金郷(コガネゴウ)平賀」、享保3年(1718)吉宗の朱印状にも「小金領」の記述は認められない。
★ 文政3年(1820)「平賀本土寺史要」に本土寺の所在が「下総国葛飾郡小金領平賀長谷山本土寺儀者・・」と記される。文政13年3月(1830))の「日了師代諸末寺調方」に同寺の末寺が、「東葛西領一之江新田・城立寺」、「西葛西領鹿骨村・本城寺」(現江戸川区)など、それぞれの所在が「領」名称で記してある。(『松戸市史・史料編(四)』)
これら末寺の「領」名は、将軍家「江戸廻り六筋御鷹場」の葛西筋に由来したものと考えられる。
★ 水戸徳川家は、寛永10年(1633)に初代頼房が小金地区に鷹場を拝領。「下総小金にて、公(頼房)に遊猟の地を賜ふ、村数200、高45,000、仏寺207ある地なり(『水戸紀年』)」とある。その後、村数に変動はあったが、我孫子・松戸・柏・野田・流山・印西の各市、埼玉県三郷・吉川の各市および松伏町の8市1町にまたがる広範な地域であった。
(参照・『我孫子市史資料・近世編V・477頁』)
★(小括)「小金領」の呼称は、本土寺文書、御鷹場文書、我孫子周辺の地方文書に多くみられる。享保10年(1725)「小金領」内に地域的枠組として鷹場組合村が編成された。小金城・高城氏の支配領域と水戸藩の拝領御鷹場とには、地域的な重複が多くみられ。慣習的に使用される「小金領」名称は、高城氏の支配に由来するのか、水戸藩御鷹場のものかを区別するのが難しい。
V. 新田開発に由来する「領」
小貝川流域では寛永2年から同11年(1625〜34)の間、伊奈忠治による鬼怒川と小貝川の分離の治水事業にともなう大規模な新田開発がおこなわれた。新田地帯では、村の分立・新設がくり返され、正保〜元禄期(1644〜1703)頃には、村々が自立化していく。村の基盤である水利体系の維持を軸に、堰や用悪水路などの普請や管理の機能を備えていった。
★ 村々の間では、自立化の過程の中で連携や連合がすすみ、機能・利害の両面で目的を共有する「組合的」な組織体ができてくる。組織体としての秩序も次第に確立していき、地域の一つの枠組となっていた。それらの枠組を中心に「谷原領三万石」、「相馬領二万石」などの「領」名称ができてくる。
これら「領」域は、その後の小貝川の川除普請のための組合(治水組合)として編成され。それが「領」という一つの地域的な連合組織として認識されるのは、17世紀後半である。それ以降、組合村の性格を鮮明にしつつ、「領」と「組合」の呼称が併存していたものと考えられる。
★「谷原領(70ヵ村)」が、元禄16年(1703)の文書に「埜原領三万石」の呼称で初見される。
「相馬領(32ヵ村)」の名称の史料が少ない。その呼称の由来は、戦国期の相馬氏、幕藩制での守谷藩、新田開発など、何れかに関連するものと考える。
★さらに、牛久沼周辺の「萱場領」は、谷原領内の牛久沼南岸の9カ村で、山田沼堰(福岡堰)用水系の受益村であった。呼称は元禄14年(1701)牛久沼干拓の口上書にも見ることができる。
「河辺領」は、牛久沼を用水源とした現竜ヶ崎市や河内村などの7カ村である。元禄14年の悪水出入りに関する訴状に初見され、その後2ヵ村が加わり「牛久沼用水組合」と称している。
★(小括)この地域で「領」が形成された共通の前提を挙げれば、?寛永2年から11年(1625〜34)にかけ、小貝川・鬼怒川流域の治水工事と新田開発があり。?そのまとまりは、用水・悪水といった水利体系を維持する集団として現れてくる。それは一方で用水利用のための受益村、また悪水という共通する課題を克服するための連合組織であり、他方では堤普請をはじめとする役負担の単位ともなっていた。?このような特徴をもつ地域的なまとまりが一様に「領」という名称で呼ばれた。?それぞれが一つのまとまりとして、それぞれの利害を主張しはじめる。名称的にも「領」という呼称が一般化するのは元禄期(1688〜1703)であった。 (参照:馬場弘臣氏論文「牛久沼をめぐる地域構造史論」)
W. 戦国時代に形成される「領」
1.小田原北条氏(後北条)の支配地・武蔵国の「領」
近世前期の武蔵国には、82ヶ所の「領」が支配領域・郡域を越えて面的に展開している。
★ 埼玉県足立郡・埼玉郡内では、戦国期に国衆などが台頭し、各地域で一円支配体制が進行する。そこでは個別的ながらも、それぞれの支配地域の経営が活発化していた。これら国衆などが後北条氏に服属すると、その権威を背景に一層経営を積極化し、領地の一円化支配を通じて、「領」名をもって地域を表示する慣習が生まれていた。
★ 徳川幕府は、これら「領」を地方支配の上で踏襲・活用しながら、共通の基盤にあった村々へ新しい領名をつけ掌握していた。「領」自体は、もともと村の生活・生産の場での地域の自主的・自律的秩序であったものが、支配者側の意図で支配体制の中へ組み入れられることになった。
そして「領」は、大名や旗本への新領地・知行地として細分化し分与され。その過程で支配と統治の面からは有名無実なものになっている。
★ しかし「領」内では、旧来から行われてきた用排水の管理など、諸々の慣習が継承され。とくに農業経営面では、支配面での分割があっても常に共通の利害関係が存在するので、地域共同体としての慣習は継承されていた。
★ これらの「領」の内部秩序は、戦国期の国衆などの人格的結合関係に基づき、支配が及ぶ郷村的秩序を軸に「惣代名主→ 組合村的秩序」へと移行する。つまり、「領」が堤川除や井堰・用悪水路などの普請役の賦課単位となり。治水普請や利水のための「組合」として、村々の地域結合の一つの単位となり、その後も機能することになる。
★ 享保期(1716〜1735)には、江戸5里4方が将軍家鷹場として「領」が面的に再編される。その上に、村々には、将軍御成の夫役負担、江戸城御用物の上納などの役負担が課せられ、城付地という性格が付与されている。
★ なお、武蔵国の82ヶ所の「領」は、近世初期以降に新しく設定された場合を除けば、地域的領主の氏姓(舎人領)や城館・支城(忍・岩槻領)の名称、および代官陣屋(赤山・安行領)所在地の名称などが踏襲されていることが多い。しかし、「領」の範囲や由来が中世からの継承のものか、近世に新しくできたものか、正しくは掌握できない。
2.下総・常陸国にみる「領」
後北条氏の領国周縁部の非領国地帯である下総・常陸国においても、「領」は成立していた。
★ 常陸国中南部の江戸崎・土浦・岡見領には、それぞれに国衆が存在し支配領域をもっていた。その内部には、本城および支城を中心に複合的に幾つかの「領」が存在し、それぞれの城郭を拠点に支配領域を形成していた。
★ 例えば、岡見領には、牛久・足高・矢田部の3つの城と、岡見・若柴・小張・板橋・小野崎などの支城があった。つまり、地域支配・統合の拠点となる城郭が幾つかあり、その城郭を中心に複数の地域的まとまりが形成されていた。
この地域的まとまりが「領」と呼ばれ、各地域社会に自生的に形成され、そこでは生活・経済・文化圏の存在が前提なっていた。
★ 永禄期(1558~70)〜天正期(1573〜93)頃、後北条氏は、「領」を基本とする支配を本格的に展開する。
常陸南部・下総中南部・上総北半への後北条氏の本格的な進出は、この時期からである。
★ そこには、常陸南部へ急速に進出してくる佐竹(常陸太田)・多賀谷(下妻)氏勢の存在があった。
永禄7年(1564)小田氏が佐竹に敗北。天正8年頃、佐竹勢に備えて、土岐(竜ヶ崎)・菅谷(土浦)・岡見(牛久)氏は後北条氏に服属している。
天正14年(1586)の佐竹・多賀谷氏と土岐・菅谷・岡見氏との合戦には、小金・高城氏と布川・豊島氏などが後北条氏の属将として出兵している。
★ この地域の本城・支城は、幕藩体制の下で多くが廃城となり。それらの支配領域には、幕府領、諸藩の飛地領、旗本領などの小給所が設けられて「領域」自体も細分化される。
★(小括) 戦国期の上野・武蔵を中心に、常陸南部・下総中南部・上総北半などをふくむ関東地方は、「領」という地域社会の範囲が存在していた。それらは、戦国大名・国衆の領域支配の単位として成立したもので、後北条氏の領国支配のなかに再編・統合されていったものといわれる。
「領」は、室町時代後半から戦国時代の地域社会の変化に対応して、周辺の国衆が地域的に結集して成立した地域的領主の単位でもあった。戦国大名・国衆は、それ以前の「郷」や「荘」などを統合した広域的な支配領域、くわえて家臣団(家中)を有し、その領域内において裁判権や徴税権などを行使する排他的・一円的な公権として存在していた。
X.むすびにかえて
身近なところで見聞きする「領」呼称の検討を行った。その過程中に次のことが確認できた。
第1には、その呼称の由来には、?従来から慣習的に使用される「文間領」、?戦国期の地域的領主の城下「小金領」、?後北条氏支配地に存在する武蔵国82ヶ所の「領」、?江戸時代の新田開発から生まれてきた「谷原領」・「河辺領」、?御鷹場制度にみられる「小金領」、?その他、「相馬領」などでは複数の由来を認めることができること。

第2に、戦国期には、とくに関東の後北条氏の支配地で「〇〇領」という表現がみられる。その表現自体は、その以前から単に「〇〇の所領」という意味で使われていたが、この戦国時代に特徴的に出現してくる「領」には、単なる領地一般とは異なる、特定の意味づけが考えられる。
★ 一般的に戦国時代は、15世紀後半から16世紀末(1455〜1590)の間とされ。戦国大名、地域的領主(国衆・国人・地域領主)という権力が一定の領域を支配し、その支配領域を領国と呼んでいる。
戦国大名は、国単位の規模の領国を領有していたが、国衆層は数郷〜数郡程度である。天文期(1532〜55)以降、郡レベルの領域を領有する国衆層が、居城(支城)を中心に共通の生活文化圏に属する村・郷を統合し、新たな地域権力として台頭する。
★ 戦国後半期になって、戦国大名と呼ばれる後北条・武田・上杉・毛利・大友氏等が本格的に勢力を伸ばしてくる。それに伴って数郷〜数郡度を領有する国衆層の一部は、戦国大名の分国として統合されていった。
★ 分国となった国衆は、戦国大名に従属する立場ではあった。しかし、国衆の領国内の支配には戦国大名は関与することがなく、国衆の独自の判断で行われていたとされる。
★ そして、後北条氏などは「領」という地域的まとまりを中心に、集権的な分国を形成し分国支配を展開している。
永禄期(1559)以降にみられる「〇〇領」という表記は、地域支配の拠点となる城廻りの「郡」か、それ未満の地域的なまとまりで、旧来の郡・郷の枠を越えて成立した新たな領域単位であり。
★ その多くは、地域権力の支配領域に相当し、後北条分国周縁には、複数の「領」を包摂した複合的な「領」もあった。また「領」は豊臣以降も継承され、さらに幕藩制期に再編されて郡と異なる地域単位として定着し、地域社会に影響を与え続けた。
★ つまり、後北条氏が「領」を地域支配の基本に据えたのは、それが郷・村の支配に通じたからであり。その意味からは、「領」は幕藩制の「藩」の原型(祖型)と考えていくことも可能である。
なお、市村高男氏は、『岩波講座・日本歴史第9巻』の中で「後北条分国の領域の城を、その支配者を支城主などと呼び、戦国大名独自の支配方式として位置付けていたため、幕藩制における藩との比較の視点を欠落させていた」と記している。
第3に、戦国大名の支配には、日本列島の各地で多様な事例がみられ、普遍的な戦国大名の支配を描き理解することが難しい。
★ 例えば、今回の発表では立ち入らなかったが、東国の後北条氏・武田氏と西国の毛利氏の分国の統治には、前者が集権的な分国を形成したのに対し、後者は分権的な地域権力を輩出するなどの相違がみられる。
★ 戦国時代の支配統治方式は多種多様であって、後北条の「領」による分国支配は、戦国大名の支配統治方式の一例に過ぎないとも考えられる。代表的な事例を中心に普遍化するか、共通性に着目して一般化するかの課題が残された。さらに「藩」の原型と考えられる「領」、戦国大名の領国支配体制と徳川幕藩制との連関性などを検討してみたい。
(主な参考にした文献・論文)
:(『岩波講座・日本歴史第9巻』市村高男氏)
:(『戦国大名論』・村井良介著)
:(『百姓から見た戦国大名』・黒田基樹著)
:(『関東近世史研究・15号・澤登寛聡論文』)
:(『関東近世史研究・16号・岩田浩太郎論文』)
:(『後北条氏の武蔵支配と地域領主』・井上恵一著)
:(「牛久沼をめぐる地域構造史論」・馬場弘臣論文)
:(『見沼土地改良区史』S63・『浦和市史』) 他
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歴史部会1月の活動報告 飯白 和子 |
第18回研究講座 出席者19名
日時 ; 平成29年1月22日
午後1時30分〜4時30分
会場 ; 我孫子北近隣センター並木本館会議室3
発表者; 山崎 章蔵会員
テーマ; 近世初期の「領」名称と由来―我孫子周辺を中心として―
配布資料; 本文 A4 10枚
1 戦国時代に形成された「領」
1)領主支配の単位としての「領」
(2)小金領と御鷹場制度にみる「領」名称
2 近世になって成立した「領」
(1)後北条氏の領域支配を踏襲して形成れる「領」
(2)近世前期の治水政策と新田開発で形成された「領」
3 「文間領」の意味合い
3月の歴史部会予定
日時;3月26日(日)午後1時30分〜4時30分
会場;我孫子北近隣センター並木本館 会議室3
発表者;竹森 真直会員
テーマ;近世柴崎村における「番人」に関する一考察(仮称)
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我孫子の社寺を訪ねる 22 ―下ヶ戸地区(1)― 西音寺 合同部会 藤井 吉彌 関口 一郎 |
西音寺は、JR天王台駅南口から東へ1km強の、旧下ヶ戸村の佇まいが残る閑静な地域の台地に位置する。旧字名は「西原」であるが、東側の「天神下」と接している。天神は旧天神社のあったところだが、現在は八幡神社が「宮前」から移されて天神下に鎮座している。
なお、西音寺(及び八幡神社)は旧下ヶ戸村の住民90戸の檀徒(氏子)で共同管理しているところから、市の自治会等とは別に「区長」「評議員」などの役員構成で運営にあたっているので、この項で表記する区長・役員等は、西音寺(及び八幡神社)に関係した呼称であることをお断りしておく。
また、文中の「引用史料」は、読み易いように1字ないしは2字空きにしたところがある。
1.沿革
山号 永光山
宗派 真言宗豊山派 もと龍泉寺の末寺
本尊 薬師如来
地番 我孫子市下ヶ戸284番地(字西原)
草創は明らかでない。伝承では、江戸時代初期に修行僧がこの地に堂庵を営んだのが当寺の起こりとされている。しかし、今回の調査でいくつかのことが判明した。それらを含めて西音寺の沿革を記述する。
![]() 西音寺本堂 |
![]() 西音寺旧本堂 |
本堂の背面(裏側)には旧住職の墓石と推定される3基の墓が建っている。左端の墓碑には
「正保三 丙戌 暦 (梵字)権大僧都法印秀覚
六月拾五日 敬白」 とある。
正保3年(1646)は江戸前期で、家光治世の時代である。中央の墓碑は「(梵字)権大僧都法印祐保」とあり、右端は「(梵字)法印観恵」とある。この2基の墓碑の建立年は読み取れないが、それぞれ板碑型・無縫塔(卵塔)の古い形式の墓石である。
本堂の内部には、2基の位牌が残されている。一つは、正面に「道観禅定門霊位」、背面に「元禄拾一年(1698) 寅 八月二日」とある。
他の1基は、正面に「(梵字)法印権大僧都宥全 不生位」、 背面に「従当寺開山第九世現住八年而 享保二(1717)丁酉九月二十八日 寂滅」とある。
この位牌の「当寺開山第九世」とあることから考えると、一世を何年とみるかによるが、短く10年としても、江戸初期の寛永年間(1624〜1644)には寺院はあったと考えられる。
また、墓石や位牌にある「権大僧都」という位は、真言宗では16階級の8番目(現代の大学卒の資格に相当)に当たるようであるから、それ相応の資格を持った住職が在籍していたことが推定される。
![]() 旧住職の墓 |
![]() 享保二年法印権大僧都宥全 の位牌(左)正面(右)背面 |
本堂の参道から道を隔てた向かい側に住民の共同墓地がある。そこで認められる最も古い石塔は、寛永12年(1635)の板碑型石碑の大日如来・十九夜塔であり、次に正保2年(1645)と明暦4年(1658)の二つの年号の入ったる宝篋印塔もみられる。
ほかに確認された古い石造物や墓石では、万治元年(1658・万治は7月から)、享保2年(1717)、享保18年(1733)、安永4年(1775)、寛政10年(1798)などがあり、他にも年号の読み取れない古い墓石は数多くみられる。
以上の住職の墓碑や位牌、住民の墓地などから、江戸時代の初期、17世紀の前期には西音寺が存在していたことが確認できる。
ところが、同じ墓地の正徳2年(1712)の「延命地蔵」の石碑には「開眼導師 正泉寺 現住 青眼叟」とあり、正泉寺の住職が開眼供養を行っている。またすぐ近くの八幡神社にある下ヶ戸村講中で造立した元文5年(1740)の道標庚申塔にも「正泉第十六代太廊開光傑□」開眼の記録がみられる。開眼供養のこうした石碑は、この後もしばしば登場してくる。
![]() 共同墓地内の宝篋印塔(左)、延命地蔵(右) |
開山第九世権大僧都宥全住職は、8年間の在住のあと享保2年(1717)の「寂滅」となるので、宝永9年(1709)頃から正徳年間(1711〜1716)を通して常在であったはずである。しかし健康のせいか何らかの事情で、隣村にある都部村の正泉寺(現・湖北台)の助力を必要としたのであろうか。
正泉寺は、江戸前期には高僧徳翁良高の活躍(天和2年・1682〜元禄2年・1689)などで当時隆盛を誇っていたことは知られている。そうしたことから、宥全住職は正泉寺に西音寺檀徒の石碑の開眼供養などを依頼したのであろうか。(現在も、西音寺檀徒の葬儀は正泉寺で行われている。)
宥全住職以降、西音寺には住職の墓石や位牌はない。確たる資料はないが、すでに18世紀の前半には西音寺には住職の常住はなく、本寺である中峠の龍泉寺の兼務のもとで、寺院の維持管理を下ヶ戸村で行っていたのではなかろうか。
宝暦4年(1754)には、「阿弥陀三尊来迎図三幅」や「六道図十一幅」がつくられているので、それらが堂内を飾り、大施餓鬼法会(ほうえ)が大々的に催されたと想像されるが、住職の存在は明らかでない。住職は兼務の状態がつづいていたのであろうか。
また、安永4年(1775)銘の板額に、「西音寺廿五世 尊教観道」の名前が記録されていて弘法大師の霊場としての整備に努めたことが指摘されている。ただ、九世宥全住職が享保2年(1717)に逝去のあと、60年弱で西音寺廿五世という16世代交代をどう解釈したらよいであろうか。墓石・位牌はないので、やはり住職は兼務であったのであろう。
安政4年(1857)に仏像などの須弥壇周りの修理が進められているが、住職の記録はない。
近代に入っての公式記録である明治12年(1879)
政府通達の『寺院明細帳』では、寺籍は「龍泉寺末」となっていて、檀徒の数は「六拾五人」、「龍泉寺住職兼務」と記載されている。そして昭和14年(1939)、「長谷寺末」に変更されている。
『寺院明細帳』の記載は、以下の通りである。
千葉県管下下総国南相馬郡下ヶ戸村字西原
真言宗新義派 西音寺 本寺龍泉寺 末
(昭和14年に「長谷寺 末」に変更)
一、 本尊 薬師如来
一、 由緒 不詳
一、 本堂間数 間口六間 奥行四間半
一、 境内坪数 四百五十二坪 民有地第一種
一、 境内佛堂 壱宇
大師堂
本尊 空海阿闍梨
由緒 光音行者 安永五 甲申(丙申の誤記カ)年創立ニ係ル(後出の「板額」(11頁)に「安永四乙未年」とあり、安永五年は誤り)
建物 間口四尺 奥行四尺
一、 住職 龍泉寺住職兼務
一、 檀徒人員 六拾五人
一、 管轄庁距離 拾壱里五町
大師堂は安永5年(1776)に建てられている。
また、境内外所有地として、「畑・田・林・溜池」がおよそ3,000坪あった。
![]() 昭和51年完成した本堂再建記念碑 |
むかし、利根川の氾濫によってつくられた遊水池(鍛冶池)の一部を、灌漑用水池として下ヶ戸区民68名の総意で大正7年(1918)、県より払い下げを受けて使用していた。その土地を、日本電気株式会社(以下NEC)から我孫子事業場の工場建設用地の一部として譲渡依頼があり、区民協議の結果、譲渡を決定した。このNECへの譲渡金を基に、老朽化が進んだ本堂を建替えることを区民協議で決定し、堅固な新本堂が昭和51年に竣工した(我孫子市史研究センター<以下市史研>会報第43号に碑文の解説参照)。
内部造作は和風木造で、堂内は、外陣部分を広く造り、奥中央を板敷の仏間(内陣)とし、左右を脇間としている。内陣の格(ごう)天井絵には、金・白・黒色彩色の龍の絵が描かれている。
西音寺入口から本堂に至る参道の右側に3棟のお堂がある。
大師堂 昭和14年再建。方4尺×5尺。向拝付き切妻造、正面唐破風、瓦葺。向拝上部には唐獅子牡丹の彫刻があり、お堂内部に石造の弘法大師を祀る。
大師堂は、四国霊場八十八ヶ所 第74番 讃岐 医王山甲山寺の写しとして、安永4年(1775)に建立された。甲山寺の本尊は薬師如来である。
光音堂 昭和14年建立。方3尺 光音禅師の石造坐像を祀る。
旧大師堂 方3尺 石造の弘法大師坐像が祀られている。昭和50年頃、地元の大工により再建。近年までこのお堂に何が祀られているか不明であったが、平成24年の市史研の調査で大師堂であることが判明した(市史研会報第122号参照)。
![]() 左から大師堂・光音堂・旧大師堂 |
3.本尊等仏像・位牌について
本尊の薬師如来立像は内陣須弥壇の中央の厨子に安置されている。蓮華座および光背とも備わり、全高74.5p、像高34.5pで端正な姿の作。昭和61年に金色の補彩も行われた。
![]() 本尊薬師如来立像を中心に左右の脇に阿弥陀如来立像 |
また、本尊厨子の左右に同じく厨子に納めた二尊像が安置されている。両尊像とも来迎印の阿弥陀如来立像であるが、向かって右の尊像は、明治30年(1897)当時、近在の阿弥陀堂から移されて来たもので、像は相当痛んでいたものを大切に保存し、昭和57年(1982)に三尊とも補修をしている。いずれも玉眼、金彩の像である。
須弥壇の左端には二つとも厨子入りの地蔵菩薩半跏像と小さな地蔵菩薩立像が安置され金彩である。
![]() 左から・地蔵菩薩半跏像、・地蔵菩薩立像、・不動明王立像と二童子像 |
右端には厨子入りの不動明王立像と二童子像(不動三尊像)が安置されているが、この三尊像の框座(かまちざ)の羽目板(40p×12.5p)には、
「奉彩色本尊薬師如来?不動尊臺新敷 二童共新敷 同様之破損両大師是も新物 同様之破損椅子新敷 皮鞋(かわぐつ)・浄瓶新敷ニ仕 代金四両弐分 安政四年(1857)巳二月 大佛師 高田村増田重房」の墨書がある。
また、須弥壇の両脇に安置されている弘法・興教両大師像のうち、右の興教大師の上げ畳の裏にも
「彩色万人講 不動明王 弘法大師 薬師如来 興教大師 地蔵菩薩 安政四丁未年月日」と記されている。この両方の記録から、須弥壇の仏像の補修だけでなく、台座、花瓶等を新しくしたことが判る。
新調された二つの大師像は、玉眼彩色の木造で、像高は弘法大師が38cm、興教大師が32.5cmである。
![]() 弘法大師坐像 興教大師坐像 |
位牌 二つの位牌が現存していて、須弥壇中央に並べられている。
@ 元禄11年(1698) 木造 雲首形 漆塗
文字印刻 30p
正面・背面の印刻は「沿革」の項参照。
A 享保2年(1717) 木造 櫛形 漆塗 文字印刻
全高45.5p 位牌部高さ34.5p×幅8.6p
台部高さ11p×幅14.5p
正面・背面の印刻は「沿革」の項参照。
4.掛軸・その他の什物
掛軸 宝暦4年(1754)に「阿弥陀三尊来迎図三幅」、及び「六道図十一幅」とそれらに関係する箱書等がつくられた記録がある(『我孫子市史資料金石文篇U』)。
阿弥陀三尊来迎図
宝暦四年
紙本 著色 三幅対 161×59cm
(飛雲に乗る観世音菩薩)
(説法印の阿弥陀如来 像形部金泥)
(飛雲に乗る勢至菩薩)
(各軸の貼紙 墨書)
阿弥陀如来 右 宝暦四年揮毫
昭和十二年表装替
阿弥陀如来 左 宝暦四年揮毫
昭和十二年表装替
(箱書 その一 墨書)
彌陀如来掛物
三幅下ヶ戸村什物
宝暦四年子二月求之
安永三年午六月再敷
文政四年巳十二月再敷
明治二十七年甲午十二月再敷
仝村 渡邉治左ヱ門
区長庄助代
法願 洞毛兵右衛門
渡邉治左衛門 隠居
世話人 渡邉七右衛門
青木金兵衛
(箱書 その二 墨書)
昭和四年拾弐月
掛物拾幅修繕
此代金拾弐円也
米相場一駄金二十一円
寺セハ人 渡辺治郎右エ門
仝 新右エ門
区長 洞毛兵右エ門
倉持太郎兵衛
法願 渡辺平左エ門
仝 吉 助
(箱書 その三 墨書)
下ヶ戸区什物
彌陀如来之図
三幅
宝暦四年子二月求
安永三年午六月修理
文政四年巳十二月修理
明治二十七年十二月修理
昭和十二年五月表装替
経師大森町亀成新井英治
明治二十七年
法願 兵右衛門
治左エ門
七右エ門
金 兵 衛
昭和十二年
法願 旧名作次郎吉助
仝 五兵衛由松
仝 太兵衛倉吉
仝 嘉兵衛忠蔵
仝 仙 松
六道図
宝暦四年(1754)
紙本 著色 十一幅対 各144×52p
(箱書 墨書)
寺御院拾壱幅 下ヶ戸村西音寺什物
明治弐拾七年甲午十二月再敷
昭和四年拾弐月修繕
拾幅(ママ)此代金拾弐円也
法願 倉持太郎兵エ
小池与左エ門
渡辺平左エ門
仝 吉 助
今回の調査では、前掲の「阿弥陀三尊来迎図三幅」は未見である。
「六道図十一幅」は「十王図と地蔵冥界出現図十一幅」ともいわれるが、箱書は下記の通り。
「永光山西音寺第四十世 大海代
昭和六十一年十一月二十日 六道図十一幅復修(ママ)
京都市田中伊雅仏具店 西音寺什物」
(大海は、東京台東区谷中観智院の高橋大海住職。)
これ等の軸はきれいに修理が施されている優品であり、毎年8月の「大施餓鬼法会(ほうえ)」には全部の掛軸が本堂に掲げられる。(後述)
この「六道図十一幅」は宝暦4年から修理を繰り返しながら260年以上も伝わっているという。とすれば文化財としての評価も高いと思われる。
弘法大師像図 一幅
弘法大師御教訓と御遺訓 二幅 大施餓鬼法会で使用される。
板額 安永4年(1775)縦33p 横42.5p
「本尊並びに堂場宮殿造立 為二世悉地(しつじ)成就之一心 建立月?護摩供 村内安全五殻成就祈者也 西音寺廿五世 安永四年 乙未年月日 尊教観道」と銘記され、弘法大師の霊場としての整備に努めたことがうかがわれる。しかし「西音寺廿五世 尊教観道」についての事蹟・位牌・墓石等については何も残されていないので、これ以上のことは不明である。
![]() 板 額 |
半鐘 本堂の階段縁に掛かる。文久2年(1862)の鋳替。駒の爪に「佐野天明町御鋳物師正田又右エ門藤原正次鋳也」と刻まれ、世話人や庚申講中等の多数の寄進者の連名がある。
鉦鼓 雅楽器の一つ。真鋳。年紀等不明。かつて「光明真言永代講中」と記す笏(しゃく)形木牌が寛政6年(1794)につくられ、講が盛んであったといわれているが、そのとき使われた楽器であろうか。
石造物 市史研合同部会および今回の調査では、共同墓地を含め約40基の石造物を調査の対象としたが、主要なものは「沿革」の項で触れた。
本堂の東側、八幡神社参道北面に18基の石造物がある。庚申塔は5基で、造立時期は天保4年〜明治7年。この内の1基は、平成15年(2003)頃八幡神社にあった断片をつなぎ合わせて修復したという。区民の深い郷土愛のあらわれである。
半鐘 本堂の階段縁に掛かる。文久2年(1862)の鋳替。駒の爪に「佐野天明町御鋳物師正田又右エ門藤原正次鋳也」と刻まれ、世話人や庚申講中等の多数の寄進者の連名がある。
鉦鼓 雅楽器の一つ。真鋳。年紀等不明。かつて「光明真言永代講中」と記す笏(しゃく)形木牌が寛政6年(1794)につくられ、講が盛んであったといわれているが、そのとき使われた楽器であろうか。
石造物 市史研合同部会および今回の調査では、共同墓地を含め約40基の石造物を調査の対象としたが、主要なものは「沿革」の項で触れた。
本堂の東側、八幡神社参道北面に18基の石造物がある。庚申塔は5基で、造立時期は天保4年〜明治7年。この内の1基は、平成15年(2003)頃八幡神社にあった断片をつなぎ合わせて修復したという。区民の深い郷土愛のあらわれである。
![]() 半鐘 鉦鼓 本堂東側の石造物 |
5.行事
西音寺での最大の行事は、お盆の8月18日に本堂で行う「大施餓鬼法会」である。東京谷中の観智院・中峠の龍泉寺・柴崎の円福寺の3か寺から5名の僧侶が西音寺に来山されて盛大に行われる。
このとき、六道図十一幅と弘法大師関係掛軸二幅の十三幅のすべてが、本堂の壁面に掛けられる。
さらに内陣を背にする位置の、本堂正面入り口付近に、篠竹を方形にかたどり、中央に「三界萬霊」牌を置く斎壇(盆棚)がつくられる。そうした飾り付けのなかで、当該年の「新盆」の檀徒と区長はじめ評議員が参列する。
5人の僧侶の読経が始まり、やがて大音響のなかで僧侶は礼拝の姿で立ち上がり、またひざまずく動作が繰り返される。三界萬霊の斎壇と、周囲に張り巡らされた六道「地獄絵」総覧のなかで、参列者は敬虔な面持ちで焼香をつづける。まさに堂内全体が大施餓鬼法会の荘重な気配に包み込まれる。
![]() |
左:大施餓鬼法会に掛けられた六道図 左下:立ち上って読経する僧侶 下:新盆家の斎檀(盆棚) |
![]() |
![]() |
他の行事としては、新年の初詣に西音寺・八幡神社を訪れる善男善女へのもてなし(甘酒の振舞いなど)で役員は忙しい。観智院から住職も西音寺に出向いて来られる。
6.寺院の運営
これまで述べてきたように西音寺は、江戸時代のいつの頃からか詳細には分からないが(江戸時代の前期から中期にかけてと推測したが)、住職が定住してない兼務の寺院となりとなり、村全体で寺を運営・管理するという方法をとってきた。明治初年の神仏分離による廃仏毀釈など、無住寺院にとっては厳しい経緯もあり、廃寺となった寺院も少なくないなかで、西音寺はそこを潜り抜けてきた長い歴史がある。
現在の組織構成は、旧下ヶ戸村の住民90戸のなかから20名の評議員(任期2年・再選可)を選挙で選び、さらに互選で区長・副区長・檀徒総代3名の5名が決められ、地区内の行事の中心となる。
宗教法人としての西音寺の代表役員は、東京谷中の観智院石本住職(西音寺第四十一世)が務めている。
かつて西音寺の本寺であった中峠の龍泉寺の山門は、谷中の観智院から移したという歴史があることから、西音寺との関係も出来たのであろう。
また、90戸の檀家の葬儀は、正泉寺(曹洞宗)で行い、戒名も受ける。法事も同様である。これまで見てきたように、正泉寺との関係はかなり以前から続いているようだ。
区長はじめ評議員などの役員は、八幡神社の氏子でもあり、寺院・墓地だけでなく、地域の祭りや諸行事の運営にもかかわり、村落共同体的な組織運営を行っている珍しい地区である。
平成23年(2011)の東日本大震災で、本堂の屋根瓦が大幅に被害を受けたときも、評議員が中心となって募金活動などを展開し、寺の修理を行っていることなどの自主的な運営も、そうした長い経験の表出である。
今回の調査に当たり
今回の調査は、平成28年(2016)5月21日(土)
に地元役員や古老の方々の参加をお願いして、これまでの西音寺の成り立ちや経緯について説明を受ける機会をいただきました。当日は地元の方々10名に集まっていただき、当会からは14名参加し、小池敏夫区長が中心になって会を進めていただきました。当会会員からの質問に、小グループになって説明していただくなど、役員の皆さんの熱意がひしひしと伝わってきた貴重なひと時でした。
同姓の家が多いせいでしょうか、多くの方が屋号で呼び合っていることなどに、下ヶ戸地区の強い共同体意識も感じました。
当年の8月18日の大施餓鬼法会には、当会からも参列して取材をさせていただきました。その後も当方の取材のため何度も何度もお伺いし、小池敏夫区長、小池喜文副区長はじめ役員の方々にはお忙しいなか、親切に対応していただきましたことを篤く御礼申し上げます。
今回の調査が、区民の皆さまにとっても少しでもお役に立つことになれば幸いであります。
参考文献
『我孫子市史 民俗・文化財篇』 平成2年
『我孫子市史研究 12』 昭和63年
『我孫子市史資料 金石文篇T・U・V』 昭和54年〜58年
『我孫子市史 近世篇』 平成17年
『新四国霊場八十八ヶ所を訪ねる』 平成25年
『我孫子市の地名と歴史−わが町の字誌(あざし)』 平成27年
『我孫子の庚申塔』 平成12年
『我孫子の石造物(所在地別リスト』 平成17年
『地獄と十王図』(神奈川県立金沢文庫) 平成3年
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六道図と十王図
仏教の六道は、阿修羅道・人道・天道の三善道と地獄道・餓鬼道・畜生道の三悪道からなっていて「地獄」もその一つです。生前の悪業によって死後過酷な苦しみを受ける世界です。仏教では、「ひと」は死ぬと自らの業によって行き先が決まり(因果応報)、六道に生死を繰り返す(輪廻転生)と考えられています。インド・中国から日本に入ってきたものです。 「地獄」はさらに「八地獄」・「八熱地獄」・「八寒地獄」があり、「阿鼻(無間)地獄」・「叫喚地獄」もそれらの一つです。 地獄絵は平安時代頃からつくられていますが、中世から近世になると十王図が地獄絵に入ってきます。 十王は、冥界にあって亡者の罪業を裁く10人の王のことです。それは秦(しん)広(こう)王・初江(しょこう)王・宋(そう)帝(てい)王・五(ご)官(かん)王・閻(えん)魔(ま)王・変成(へんせい)王・太(たい)山(さざん)王・平(びょう)等(どう)王・都(と)市(し)王・五(ご)道(どう)転(てん)輪(りん)王です。 これも中国から入ってきましたが、六道救済の地蔵信仰と結びついて、日本では「地蔵十王信仰」となりました。この信仰では、死者は初七日から三回忌の五道転輪王にいたるまで、順次各王の王府に引き出されて裁判を受けなければならないとされています。現世でこの供養をしないと死者は冥界をさまようことになります。 これを本地仏との関係で対応すると以下のようになります。 B 三七日忌 宋帝王 文殊菩薩 C四七日忌 五官王 普賢菩薩 D 五七日忌 閻魔王 地蔵菩薩 E六七日忌 変成王 弥勒菩薩 F 七七日忌 太山王 薬師如来 G百ヶ日忌 平等王 観音菩薩 (いわゆる四十九日) H一周忌 都市王 勢至菩薩 I 三回忌 五道転輪王 阿彌陀如来 二幅のなかに五王ずつ描いた地獄絵や十幅に地蔵像菩薩を加えて十一幅にした六道図が近世につくられてきます。ただし、江戸時代のものが現在十一幅も現存している例は少ないのではと思われます。 |
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六道図(十王と地蔵冥界出現図) 注:「六道図」掲載の順序は『我孫子市史資料 金石文篇V』による。 |
![]() 六道図 1 |
![]() 六道図 2 |
![]() 六道図 3 |
![]() 六道図 4 |
![]() 六道図 5 |
![]() 六道図 6 |
![]() 六道図 7 |
![]() 六道図 8 |
![]() 六道図 9 |
![]() 六道図 10 |
![]() 六道図11地蔵尊冥界出現図 |
![]() 弘法大師御教訓 弘法大師御遺訓 |
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合同部会2月の活動 中澤 雅夫 |
於 市民活動ステーション
西音寺の調査報告書案を検討し、今後の社寺調査日程等について検討を行った。
1.下ヶ戸西音寺の調査報告書案の検討
配付資料:@西音寺調査報告書案、A六道図と十王図(以上、担当の藤井・関口両部会員作成)
昨年12月の部会で検討する予定であったが、時間切れのため、今回に持ち越された。
西音寺は真言宗豊山派の寺院で、正保3年(1646)銘のある墓碑、元禄11年(1698)年銘のある位牌、「開山より9世、現住8年で享保2年(1717)に寂滅」、と記されている位牌などから、開山は江戸時代初期と想定される。
元中峠の龍泉寺末寺、代表者は東京都台東区谷中の観智院住職、永い間、常住の住職はおらず、村で管理をしてきたが、葬儀、戒名、法事は湖北台(旧都部)の正泉寺(曹洞宗)にして貰ってきた。
最大の行事は毎年8月18日に行う「大施餓鬼法会」で、龍泉寺、観智院の他、柴崎の円福寺の僧侶が来山して執り行う。その際、本堂内に六道図11幅と弘法大師関係掛け軸2幅が掛けられる。
大要以上の報告書案について、次の様な指摘があり、修正の上今月の会報に記載することとなった。
主な指摘:@開山時期を16世紀半ばまで遡るのは疑問、せいぜい江戸初期ではないか。A支配の本多家田中藩から宗門改めまで管理を命ぜられたとするのはおかしくないか。B八幡神社にあった断片をつなぎ合わせ、「最近」修復されたとあるが、かつての「石造物調査」調査年月と付き合わせると「最近」とは平成15年(2003年)頃である。C大施餓鬼法会が「壮観といってよい」とあるが、法要なので「壮観」の表現は相応しくないのではないか。D「昨年」や年号なしは、平成28年と明記した方がいい。
2.我孫子市古戸のオビシャ(御備社)
配付資料:表題と同じ、近江部会員作成
内容を説明して頂く予定にしていたが、時間が無くなり、資料配付のみに終わった。
3.今後の社寺調査の予定
配付資料:合同部会調査対象の社寺・担当者
3月は天照神社、4月は休会(総会前運営委員会開催)、5月は龍泉寺、担当は田中由紀・飯白和子両部会員。
事前調査、説明して頂ける方との交渉、調査報告書案の作成等、担当者の負担は軽くない。
誰にも得手・不得手があり、他事との輻輳、加齢もあろうが、今後とも各人出来る範囲内で、つまり参加するだけでもいいという方針で、部会員各位と諸事相談しながら、進めていきたい。
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井上家文書研究会2月の活動報告 品田 制子 |
2月11日(土)
1月に配布した4点の内下記の2点を解読・解題。
@明和5年子8月「一札之事」1856
布佐村の年貢米勘定出入に関する文書である。布佐村の名主源左衛門を相手取り、惣代2人と組頭が9ケ年分の勘定違いを小林孫四郎役所に訴えたが、支配交替があり遠藤兵右衛門に引き継がれた。しかし、お盆の時期にあたり一旦帰村し、盆過ぎに罷出るつもりであったが、扱い人の布佐村名主又左衛門と相嶋新田佐次兵衛が期日までに清勘定を仕立て、済口證文を差し上げるため諸帳面を改めた処米方は間違いなく、永方は少々の過納があったので石高に応じて割り返すことになり納得した。今後、壱合壱銭たりとも、このようなことがないよう子々孫々まで申し伝えるとの一札。
A明和5年子10月「乍恐以書付御窺奉申上候」1841
布佐村名主又左衛門と相嶋新田名主佐治兵衛が申すには、先達て百姓70人が布佐村名主源左衛門に相懸り出入(何の訴訟か判明しない)となっていたが糾明し、内済とするため議定證文を調えたが、源左衛門が名主退役にあたり、総じて5百石と相定め、退役後は名主1人にすること、しかも済口證文には退役の文字を除いてとの要求があり、扱人が取り計らい済口證文を差し上げようとした矢先、107人の百姓が名主退役に賛成、26人が名主退役は日延べしてほしい。しかし、百人余の百姓は日延べとなっては難儀が生じることと、扱人も不念に相成りどうしたものか窺いたい旨、差出した代官役所宛文書。
B明和5年子10月「差上申済口證文之事」1861
中途で時間切れ、残り1点(1679)と共に次回。
今月配布した文書
明和5年子正月「去亥年村小入用遣改差上帳」920
明和5年子3月「宗門人別御改書上帳」812
明和5年子3月「差上申済口證文之事」1796
明和5年子4月「一札之事」1800
明和5年子4月「為取替證文之事」1889
明和5年子4月「差上申済口證文之事」1836
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前九年・後三年の役の講演に参加して 古賀 清昭 |
そもそも陸奥国の土着で有力豪族の安倍氏は奥六郡の徴税などを任されていた。安倍頼良の時、陸奥国の直轄地を侵すようになったため陸奥守藤原登任が征討に向かうが鬼切部で大敗。源頼義が陸奥守兼鎮守府将軍となり頼良はこれに服属し、音が同じなので名を頼時と改めたが、後に息子貞任のことで対立。出羽山北俘囚主清原真人、清原光頼に援軍を要請。貞任は厨川柵で負傷斬首、弟宗任は伊予国へ流され前九年の役は終わる。清原光頼の弟武則はエミシ初の鎮守府将軍となり出羽の本貫と安倍氏の遺領を併せた奥羽の支配者となった。
後三年の役
前九年の役が終結してから21年後の1083年(永保3年)後三年の役が起こる。
@出羽山北三郡は清原氏の同族・一門の連合体制であったが武則が突出したので不満が潜在。
A武則の嫡子武貞には3人の息子がいた。先妻の子で嫡男の真衡、後妻の連れ子の清衡、後妻との間に生まれた家衡。
B真衡としては、清衡は祖父が討ち取った敵将の子、家衡は安倍頼時の血を引く弟であり、清原宗家は自分が継ぐのが当然、弟は自分に仕えるのが当然と考えた。
1083年、真衡には嫡子がなく海道平氏から養子成衡を迎えていた。真衡は成衡に常陸国の多気権守宗基の孫娘を迎える事となった。
吉彦(きみこ)秀武も出羽から祝いにやってきて、臣下の儀礼で庭にひざまずき砂金を盛った盆を捧げた。真衡は気がつかなかったのか無視し続けた。秀武は砂金を庭に打ち捨てて出羽に引き上げてしまった。この行為は鎮守府将軍への反逆行為となる。秀武は真衡と不仲の清衡・家衡に真衡の館を襲うように持ちかけた。この年、源頼義の子義家が陸奥守として赴任してきた。義家は真衡の妻の願いで助成、国軍介入となる。真衡は進軍の途中で急死。義家は清衡と家衡に領地を二分し与えた。北三郡を受けた家衡は裁定に異を唱え、清衡の館を急襲し妻子などを皆殺しにした。
義家と清衡、吉武秀武は家衡の討伐に向かうも大雪のため敗走。そこで、義家の弟、新羅三郎源義光が加勢に来た。1087年(寛治元年)9月金沢柵を包囲、兵糧攻めにし、みな殺し、ここに後三年の役は終結。残った清衡は姓を藤原に戻し奥州藤原氏の祖となった。
朝廷は源氏を奥州から退け、伊予国司に任じた。頼朝が奥州藤原氏を滅ぼしやっと念願がかなったといえよう。
![]() 座学の様子 |
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歴史探訪部会2月の活動 長谷川 秀也 |
○2月の活動 座学
参加者;29名 内容詳細は上記参照
演題 ;前九年・後三年の役 ―律令体制下における歴史的転換点 ―
講師 ;中澤雅夫会員
日時 ;2月8日(水) 13:30〜15:00
場所 ;北近隣センタ−並木本館会議室−3
○3月の活動予定
探訪;相馬霊場の札所巡り―10 3月8日(水)詳細は1頁掲載
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古文書日曜部会1、2月の活動 清水 千賀子 |
日曜古文書部会の「落穂集」解読は、1月に「江戸町方普請之事」「小僧三ケ條之事」「鳶澤町之事」、2月に「博奕御制禁之事」「石町時乃鐘乃事」「穢多村之事」へと読み進んだ。
「江戸町方普請之事」では、家康関東入国後の江戸の町普請は、まず日本橋筋から道三河岸通りの竪堀(呉服橋付近から和田倉門付近へ、外堀と内堀を繋ぐ堀)の開削から始まり、段々とそれに連なる竪堀、横堀が掘り進められた。諸国から参集した町人たちは、願い出れば町屋が割渡されたので、堀端に山の如く積み上げられた揚土で自分の屋敷地を地固めし家を作り移り住んだとのこと。また、東方の茨(葭)原の一画に遊女町が認められ、そこで女歌舞伎の踊芝居を始めると殊の外繁昌し芝居の町となった。さらに猿若彦作という狂言師も茨(葭)原を切開き若衆歌舞伎を始めたいと願い出で、町をおこし、狂言芝居を始めたという。庶民の娯楽や芸能を通し未開の葭原が開発され、江戸の町場が広がっていく様子が覗えた。
「鳶澤町之事」では、入国当初、町方に盗賊が諸方から入り集まりとても物騒だった。家康は、盗人の張本たるすりの大将鳶澤という者を捕えさせ、命を助ける代わりに諸方の盗人が江戸へ入込まないようにせよと命じる。鳶澤は自分一人ではできないので、何処かに屋敷地をもらい、手下たちを呼び寄せ取り締まりにあたらせたいが、手下たちは盗人を止めると渡世の手段がなくなるので、自分を江戸の古着買いの元締めにして欲しいと申出る。願の通り遊女町(葭原)の近くに一町四方の屋敷地をもらい、その地を鳶澤町と名付け、手下の盗人たちを古着買いに仕立て、取り締まりにあたらせた。ほどなく盗賊が江戸へ入り込むこともなくなったとのこと。世は静謐となり盗人も古着買いも止み、いつのころか鳶澤町は富沢町の字に書き改まったという。
「博奕御制禁之事」では、家康は浜松・駿府の頃から、博奕は諸悪の根源というお考えであった。関東入国時、江戸、関八州とも僧俗男女の差別なく公然と博奕をうっていることが御耳に達し、町奉行たちに厳しい処罰を申しつけられ、盗人は牢舎だが、博奕をしたものは捕え次第成敗を仰せつけられた。御鷹野の折り博奕を打った者たち五人が獄門に晒されているのを御覧になり、掛かり役人を召され、獄門にかけ晒し置くのが諸人へ見懲りのためならば、何月何日何方にて此の如しと札に書き記し、其所ばかりに限らず、何処でも人立ちの多い場所へ晒して置くようにと命ぜられた。十人一座で召し捕えたならば、十ヶ所に首を晒しおくことになり、二、三年のうちに博奕の沙汰は止んだとのことだった。
為政者家康のこの二件の対応の違いに興味を持ちながら解読をすすめた。
また、会員の白神氏は、文中に度々でる「茨原」「葭原」の「茨」「葭」の字について、「茨」は「葭」のくずし字を写本の際に写し間違えたのではないかとの疑問から、@「茨」と「葭」の植物学的観点、A三つの写本の比較検討、B江戸(東京)の地勢と地名の観点、以上三点を通して説明し疑問を立証された。
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古文書解読火曜日部会2月の活動報告 2月21日 1班 山本 包介 |
今回からのテキスト『教訓女大学教艸』は、近世数多く出版された女大学の一つで、天保14年(1843)に出版された木版刷りの女子教訓書である。女大学の原型は享保元年(1716)の『女大学宝箱』で、テキストの女大学も宝箱の本文と同文である。
この版本の出板者は江戸の甘泉堂、本文は35丁*1、1ペ−ジ6行、1行約7文字、送り仮名付で読本兼習字用として作成されたもの。このため文字が大きく書かれている。付属記事として巻首*2に古今集四季の歌・七小町故事、男女一代守本尊・婚礼式法次第・暦略注明細が20丁、頭書*3に世嗣草の事・小児養育草・小児妙薬の法が載せられている。この他女今川が15丁ある。
女大学と名付けたのは、大学が男子の学問で重視された四書(大学・中庸・論語・孟子)の筆頭にあり、女子教育の必読本として位置付けるためといわれている。本文は一つ書きで19ヶ条あり、大別すると女子教育の重要性(3ヶ条)、妻としての心得(11ヶ条)、主婦としての心得(5ヶ条)からなっている。
その教えは「女子のあるべき姿は他人に従順であること」とし、封建社会の家族制度を存続・強化するための女子教訓書として使用されてきた。明治になり西洋の男女平等思想の導入とともに、女大学を批判した教訓書も出版されるようになった。中でも明治32年、福沢諭吉は『女大学評論・新女大学』で女大学を女性蔑視の教えとして厳しく批判した。しかし女大学の教えは第2次大戦終了まで受け継がれ、日本の家長制度を長らく下支えしてきたといえる。
女大学の撰者を貝原益軒*4とする説が流布されていたが、益軒以外の誰かが、益軒撰の『和俗童子訓』巻之五にある「教女子法」の主要な項目を抜き出し編集したものである。
<女大学の概要>
第1条
女子は他家に嫁ぎ舅・姑・夫に仕えることになるので、父母は男子より女子の教育を重視せよ。寵愛して我侭に育てると必ず夫や舅・姑に疎まれ最後には離縁されることになる。
第2条
女は容姿より心が優れていることが大事である。人より自分が優れているかのような態度をとってはならない。常に温和・従順・貞信で情け深く静かなことが良い。
第3条
女子は幼い時から男女の別を守らなくてはいけない。『礼記』にも「男女7才にして席を同じくせず」とある。結婚には父母の許しと媒酌が必要。命を失うとも義を守れ。
第4条
婦人にとって夫の家が自分の家である。結婚したからには決して婚家を出てはいけない。以下、婦人にとっての七つの離婚理由が続く。
<世嗣草の内容>
夫は天、女は地である。夫婦があって子が生まれる。人は万物の霊長であり、五倫の道(君臣の儀・父子の親・夫婦の別・兄弟の敬・朋友の信)は夫婦を前提に成り立っている。夫婦こそ人倫の元であり、世継ぎがいないのは不幸の第1である。
次に子が産めない要因、続いて懐妊した時の留意事項を細かくあげる。いずれも不行儀・不養生を戒め、身持ちをよくして静かに過ごすことが重要であることを述べている。これに反すると妊娠できないとか、生まれても体に痣がでる、容姿が悪くなる、悪人や短命の原因になる等々、現代では全く非科学的な内容も述べられている。
注)
*1 丁:和装本の紙数を数える語で表裏2ぺ−ジをまとめて1丁という。
*2 巻首:書物の巻頭
*3 頭書:本文の上欄に書き加えたもの
*4 貝原益軒:江戸前期(1630〜1714)の福岡藩士、儒学者・本草学者、著作に『大和本草』・『益軒十訓』など多数、『和俗童子訓』は益軒81才の時出版された教訓書
参考文献:石川松太郎『女大学』(平凡社1977)
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中里薬師堂 十二神将像修復の3体お目見え 合同部会 中澤雅夫 |
2月11日、恒例の中里薬師堂薬師三尊ご開帳式典が行われ、十二神将像のうち、このほど修復成った3体が装いを新たにお目見えした。
中里の薬師三尊像とそれを守る十二神将像は、十二神将像が定型化する江戸時代後期以降の作とみられ、作者は不明であるが、本尊、脇侍、十二神将像が全部揃って残され、安置されているのは大変珍しく、平成18年(2006)3月、我孫子市指定文化財(有形)に指定された。
![]() 先に修復された薬師三尊像の隣に安置された、修復成った十二神将像のうちの午、申、酉の3神像 |
【出開帳】 我孫子市の文化財展に合わせ、下記の通り 出開帳が行われ、25日(土)と26日(日)には午後1時頃から約30分間、我孫子市教育委員会文化・スポーツ課担当者による説明が行われる予定です。 記 開催期間:2月25日(土)〜28日(火) 場 所:我孫子市民プラザ(旧エスパ内) |
修復に当たった仏師は「古仏修復工房 仏像修復師」の飯泉太子宗氏で、昨平成28年12月14日(水)BS朝日放映の「アーシストCafe 緑のコトノハ」で紹介された(写真参照)。
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各部会活動・3月の予定
会員は下記6部会のどれにも参加できます。初めての参加の時には部会の担当者に連絡して下さい。
| 部会と集まり | 日 | 時 | 所 | 担当 |
| @古文書解読日曜部会(第2日曜) | 3月12日(日) | 13:00 | アビスタ 第4学習室 |
清水 千賀子 |
| テキスト 故高田明英会員所蔵 大道寺友山著「落穂集」 | ||||
| A古文書解読火曜部会(第3火曜) | 3月21日(火) | 13:00 | あびこ名戸ヶ谷病院 7F会議室 | 東 日出夫 |
| テキスト 東都書林「女大学教(をしへ)艸(ぐさ)」 | ||||
| B井上家文書研究部会(第2土曜) | 3月11日(土) | 13:30 | 我孫子北近隣センター 並木本館会議室2 |
品田 制子 |
| C歴史部会 (第4日曜) “近世柴崎村における「番人」に関する一考察” 竹森 真直会員 |
3月26日(日) | 13:30 | 我孫子北近隣センター 並木本館会議室3 |
谷田部 隆博 |
| D合同部会 (第3土曜)
社寺調査23 天照神社調査
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3月18日(土) | 10:00 | 現地(or湖北駅改札前09:30) | 中澤 雅夫 |
| E歴史探訪部会(p1参照) 第10回相馬霊場札所参り(200円) |
3月8日(水) (雨天順延) |
9:30 | 取手駅にて発車 関東鉄道乗車 |
荒井 茂男 |
| 3月度運営委(総会準備他) | 3月25日(土) | 9:40 | 市民活動St.大会議室 | 岡本 和男 |
| 第18回古文書解読講座(定員締切) | 2/1,10、17,3/3 水 金 金 金 |
9:30 | けやきプラザ7F 研修室 |
品田 制子 |
郷土資料館推進会の次回会合は3月6日(月)10:00より市民活動ST大会議室で行います。
事務局便り
<新入会員紹介> 2月
若月 愼爾さん 寿2丁目
再入会です、よろしく。
<本の寄贈を受けました>
@ 再び柳町孝直会員から、同氏が代表を務めている敬文舎が発刊した「日本歴史・私の最新講義シリーズ」トシテ最新刊の書籍をご寄贈下さいました。いつもありがとうございます。
・『江戸・明治の古地図から見た町と村』
金田 章裕著 2017.2.17発行
A 当会の友好団体である取手市郷土史研究会が新たに「とりで歴史愛好会」と改称され、会報をご寄贈下さいました。いつもありがとうございます。
・「取手歴史愛好会々報」第70号 平成28年(秋季)
代表 山崎章蔵 編集兼発行 平成28.11.25発行
<29年度定例総会の予定>
日程:4月22日(土)12時〜18時 @アビスタ第2学習室
報告会:13:30〜14:30(1Hr)
総会:14:45〜16:15(1.5Hr)
詳しくは、次号にてお知らせします。
事務局 〒270−1132 編集・発行 編集委員会
我孫子市湖北台5-15-17 岡本方 TEL. 04-7149-6404
電子メール:gasonsi@jcom.home.ne.jp
市史研ホームページ:http://abikosisiken.main.jp/