平成28年11月26日発行 我孫子市史研究センター会報 第177号 通算484号
編集:編集委員会
歴史探訪部会
「水戸道中 藤代宿〜若柴宿」を訪ねる
5月の水戸道中 松戸宿に続き、今回は江戸時代の面影が色濃く残る藤代宿から若柴宿を歩きます。江戸時代の旅人になったつもりで歩いてみましょう。
日時 平成28年12月 9日(金) 雨天延期
集合場所 藤代駅改札口(1ヵ所のみ)
集合時間 9時30分
常磐線下り 我孫子9:07→藤代9:19が便利です。
成田線沿線の方は、我孫子に9:03に着く電車があります
参加費 200円(保険料・資料代)
<行程>
午前の部
藤代駅→相馬神社→藤代宿本陣跡→銚子屋(正岡子規が宿泊、句碑あり)→愛宕神社→宮和田宿本陣跡周辺→熊野神社→往還橋
12:00〜12:50 昼食 (佐貫駅周辺で各自自由)
13:00佐貫駅集合
午後の部
馴柴小学校三叉路(初期水戸道中との合流点、道標)→八坂神社→若柴宿→金竜寺→星宮神社→成井の一里塚
若柴公園でバスに乗り(20分毎、250円、スイカ可能)、佐貫駅下車。
歩行距離約6.5キロメートル。
案内 近江礼子会員
若柴宿の星宮神社
参加申し込み Eメール 茂木勝己 k-mogi@tbd.t-com.ne.jp
TEL・FAX 荒井茂男 04-7182-2838
申込期限 12月2日(金)
|
< 古文書・新初心者講座 >開催 東 日出夫 |
今年も市教委の後援を得て10月5日(水)から4週連続「入門コース」として、平易で親しみやすい講座として開催しました。会場は手賀沼の素晴らしいロケーションが見下ろせる名戸ヶ谷病院の7階大会議室で、ゆったりと美しく、最新の設備が整った環境で行われました。ただ、受講者は眺望を楽しむゆとりはなかったかもしれません。古内講師はゆっくりと進めておられたようでしたが、アンケートでは「楽しかった」「凄く勉強になった」「もっと古文書を続けたい」との好印象を沢山いただきました反面、「速すぎる」の声が多くありました。慣れが解決することと思いますが・・・。
以下に受講された3人の方の感想を掲載します。
|
< 感想文 > 「古文書講座に参加して」 |
1) 明治45年生まれの母はくずしで手紙を書く人でした。私の実家は、江戸天保年間に建ったものらしく、古い書付などがあふれていました。若い頃は余り関心もなかったのですが、母が老いて独り、家の始末を気にするようになり、文書類を読んでは捨てる作業を 始め、古物商が欲しがって古い物が少しずつ消えるのを見るうちに、何とか・・・という思いは芽生えつつありました。
昨夏、ずっと空き家にしていた処にアライグマが入り込み、板戸も家具もガリガリ!書入りの襖はズタズタ! 慌てて仏壇に僅かに残っていた古文書類を抱えて来ました。解読して行き先を決めねば・・・と重い腰をあげ、当会の門を叩きました。が、会報を読む限り、歴史や文学に詳しい方々ばかりの集まりのように見えて、のほほんと主婦をしていた私には眩しすぎる思いです。今回初級講座に参加させて頂き、ただただ文字を追う2時間は山登りや書道で少しずつ極めていく達成感、爽快感に似てとてもおもしろく、魅入られました。
青山台 山口 保子
2)「昔の人はどんな暮らしをして、何を思って生きていたのかな?」そんなことに興味のある子供でした。ですから道端の道祖神や石碑を見つけると、いつの時代の物か、何と書いてあるのか気になったものです。
今回、古文書講座を受けさせていただき毎回の授業がとても興味深く楽しかったです。一瞥ではただの筆の流れの羅列にしか見えない紙。しかし、内容までわかりません。それが先生と一緒に読み解いていくと文章となり、意味が通り俄然輝く資料になるのは不思議です。その時代の人々の生活や思いを想像する楽しさがあります。先生の授業の進め方は速く、ついていくのが大変です。あっという間に2時間が過ぎてしまいます。しかし生徒になり、好きなことを学べる嬉しさは本当に充実した時間です。
並木 脇 明子
3)古文書に触れてからの年月は長いのですが、分からないことばかりで、いつも初心者でした。
そこで改めて講座に参加しますと、従来お聞きしていた諸々が、素直に納得するところが多く、収穫でした。漢字の部首、変態仮名、異体字・略字の一覧を見直す事、同じ文字を探すこと、慣用表現に馴れること、何れも解読の基礎であることも、納得できました。テキストの離縁状は難解でしたが、ここは、年号、人名である筈と見当を付けると、一気に身近に感じられ、親しみを持てました。講座を受講する日にしか古文書に触れない不真面目な初心者でしたが、今回は往復の電車内でテキスト全体を復習できました。最大の収穫は古文書への恐れが薄らいだこと、慣用表現から文字の見当をつけることが助けになると実感できたこと、更に最後までやりおおせた事から、喜びを感じられたことです。講師の初心者への語りかける言葉も講座を身近に感じる手助けになりました。
松戸 近松 義昭
![]() 古文書新初心者講座 |
|
史跡見学会に参加して 佐々木 豊 |
10月20日 久しぶりに市史研恒例の史跡見学会に参加した。今回は茨城県つくば市を中心とするものであったが、近在の史跡にも拘わらず私にとっては知らないものがほとんであった。バスで早朝出発し車内で”つくば(筑波)”の名の由来や担当者の説明を聞きながら寺畑から豊田城まで昨年の鬼怒川決壊の現場、それに連なる小貝川を車窓見学した。
更に豊田城から上郷陣屋跡、酒丸、遠東、弥平太へとスムーズに進んだ。この辺一帯は江戸後期農村の人口減や飢饉などで農村が荒廃したので八丈島その他から農業作業人を移住させる等復興のための施策がいろいろと実施されたという。本日の担当者である会員の山崎氏がそのことをまとめた小論を興味深く読ませてもらった。
(1)豊田城
現豊田城は豪雨のため城内は閉鎖されており見学はかなわなかった。地域振興のためもあったと思うが1992年に築造されたという。他地に「豊田城趾跡」の石碑があり実際にあった場所とは違うようである。正面にあった銅像を遠くから見て思わず芭蕉が来た場所かと思ったが長塚節の銅像であった。地元名士ということで建立されたのであろう。
豊田城
(2)小田城跡
小田城跡は鎌倉、戦国時代にこの地に勢力を誇示した小田氏の居城跡である。発掘調査をもとに城の全体像を体感できるように復元整備したという。復元にあたって特に中世から戦国時代にかけて城郭とその立地についてそれぞれ築城工夫の跡を明示し歴史的意義を提供している。整備されたのは比較的新しく現在はビデオによる説明もあり便利だが人々により共感を得るように歴史的景観としてこれからも日々整備されていくことだろう。
(3)平沢官衙遺跡
この遺跡が発見されたのは1970年代という。奈良・平安時代の役所の遺跡である。 地名が平沢なので平沢官衙と決めたようだが説明者によるとネーミングについては”つくば”にするか議論があったらしい。この官衙遺跡は筑波郡の正倉とされているがその形式は大部分が高床式倉庫と推定されている。当時のものを想定して「筑波の正倉院」として三棟が復元されている。
小田城跡をはじめこの地一帯は史跡群と共に近辺の山地などランドスケープとして好条件を有していると思う。
平沢官衙の説明を聞く
(4)地図と測量の科学館
この科学館は地図や測量に関する歴史やその仕組み、新技術など総合的に展示している。 常設展示の古地図コーナーでは伊能図など正確を期すためいかに苦心して測量したかの説明があった。現代では比較にならないほど科学技術の進歩は著しいが、山地への標石の埋め込みなどその原点は人力・判断力を基本姿勢にしているとの印象を受けた。
GPS(全地球測位システム)により地理情報は正確度が想像以上に高くなり修正も即可能となったようだ。以前中国を訪問したときバスの運転手が日本のカーナビを羨ましがりそれを目標に今国内では実験中というようなことを話していた。広狭大小など複雑な道路事情があるが今では相当普及していると思う。
以上好天にも恵まれたが1日の見学では史跡等の一端に触れたにすぎない。近在でもあり再訪の機会があればと思う。
|
史跡見学会に参加して 大藤 充子 |
小田城址見学の案内を見た時、ぜひ行きたいという思いにかられました。なぜならば、小田は私が生まれ育った故郷だからです。私が子供の頃の小田城跡は、小高い丘に3〜4人で手を回せる程の大ケヤキと、幾つかの灯篭があるだけで、周りは田畑が広がるのみ。特に観光地という訳ではありませんでした。その小田城が復元整備されたという事で、どのように変わったのか、行く前からわくわくしていました。
10月20日、お天気にも恵まれ、我孫子を8時にバスは出発しました。(37名の参加)
今回は、「つくば市の古代から現代までを訪ねる」という旅。まず始めに、豊田城に寄りました。昨年9月の鬼怒川の決壊で水害に合い、まだ見学は出来ない為、休憩のみ。
次は、いよいよ小田城跡へ! 資料館は、一体どこに建ったのだろうか、と期待でバスを降りました。すると、そこはなんと、通学で毎日使っていた、今は廃線となってしまった小田駅の跡地でした。しかし、名所の大桜は無くなり、駅前で栄えた商店は空き地になり、常総つくば線は「リンリンロード」と呼ばれるサイクリングロードに変わっていました。時代の流れを感じ、寂しい気がしました。が、ホームの石垣を見た時、当時のままの姿にホッとしたような安堵した気持ちになりました。
資料館に入り、小田城の輪郭や地層などをビデオで鑑賞。発掘調査で出土した遺物を拝観し、小田城の歴史の説明を受けました。源頼朝に信頼の厚かった八田知家(位は7番目だったが信頼は1番)が小田城を築き、最初の常陸国の守護となり、常陸国南部に勢力を広めました。四代目の時知が小田氏を名乗るようになり、鎌倉幕府が亡びると七代目の治久は新幕府に参加し、南朝に味方しました。治久は暦応元年(1338)に北畠親房を小田城に迎え、関東における南朝の中心となって活躍。北畠親房は城中で『神皇正統記』を執筆。親房の位が高いので城主が城を明け渡したという話は新鮮です。私は、小田城祉北側の山上、前山というところに土塁跡や城郭が残っている話を聞いていたので、そこが明け渡した後の居住地、前山城なのだろうか?と思いました。その後、高師冬に包囲され、親房は関城に移ります。
戦国時代になると、佐竹氏・結城氏に攻められ、小田城の激しい争奪戦が続き、手這(てはい)坂の合戦(1569)で敗れて土浦に逃げました。佐竹氏から小田城氏に命ぜられた梶原政景が大規模に改修して小田城の輪郭となり、元亀3年(1572)頃には、小田氏が小田城を奪還したが、上杉方の太田・真壁・多賀谷氏らに攻められ、氏治は逃亡するもその後復帰。再び太田氏らの猛攻撃に合い、落城し十五代400年続いた名門小田氏は滅亡しました。(1590)子孫は全国に散っているそうです。NHKで放送されている「真田丸」のドラマのように攻撃・奪還の繰り返しの時代を想像します。慶長7年(1602)佐竹氏の秋田国替えにより廃城になりました。
小田城の土塁を越え城内へ
説明の後、復元整備された小田城跡に向かいました。城郭が現れ広大さに驚愕! 私の知っている小田城跡は前述の通り、小高い丘に大ケヤキ、そして灯篭のみ。それが、こんなに変わってしまったなんて。しかも、大ケヤキはたばこの火で燃えてしまったようです。でも、その一部が我孫子の個人宅のあずま屋のテーブルになっているのを知り、せめていつか資料館に展示されることを願っています。
資料によると廃城後の武士は農民になり、集落は農村になりました。小田城祉も土塁を崩し、堀を埋めて田畑にした事が伺えます。幼い頃、田畑のいたる所から土器の破片が出てきた疑問が解けました。小田氏の当時を思わせる「鍛治屋敷」等の地名があります。廃城になってから400年以上、何代も代替わりして、所々のいい伝えはありましたが、村人の記憶も薄れ小田城の輪郭を知る者も少くなっていったのだと思います。
筑波山を見ながら解説を聞く
その後、筑波ダイヤモンドホテルで楽しみの昼食。再び、バスに乗り、千年以上前の奈良・平安時代の筑波郡の役所跡、平沢(ひらさわ)官衙(かんが)遺跡へ。200年300年経った材木を柱に使い、建造されるまでをビデオで鑑賞。全員で写真を撮り、その頃の税である稲や麻布等を収めたと言われる三つの高床式倉庫の建造物と倉庫跡を見学しました。
最後は筑波学園都市にある国土地理院の地図と測量の科学館へ、最初は館外にある直径約22mの「日本列島球体模型」の上に立って地球の丸さを体感したり、大空を飛び回り、日本列島の航空写真(重さ200Kgの航空カメラが搭載されています)を撮っていた(1960〜1983年)初代測量用航空機「くにかぜ1号機」が役目を終えて展示されているのを見ました。目に飛び込んできたのが巨大パラボナアンテナ! 地球規模の観測が可能なのだそうです。館内に入ると、また、床一面に巨大な日本地図が現れました。3Dメガネをかけると地形が盛り上がってしばらく楽しめそうです。2階には地図と測量に関する展示がされています。地理地殻活動研究センター長の宇根さまからむずかしい地図・測量の技術等を分かり易く説明をしていただき、知識の幅が広がったような気がしました。早速、売店で地図を買い帰路につきました。今回の旅は古代・中世・現代と悠久の時を感じた有意義な一日でした。
|
史跡バス見学会に参加して<雑 感> 佐藤 隆 |
小田城は鎌倉期から戦国期まで小田氏の居城であり、同氏の祖、八田知家が源頼朝の信任が厚く、最初の常陸守護に任命されて当地に居館を構えた。時代は12世紀末と云われる。鎌倉幕府早々期、守護館に始まり、南北朝時代(1333〜1392)には、南朝方の拠点となったと云われる。何度となく落城しながらそのたびに復活した。まさに「常陸の不死鳥」の居城といわれる由縁なのかとも想われる。
幾重もの堀と土塁に囲まれた大規模な平城である。この城も、17世紀初めに廃城となったと言います。
このような想いを抱かせていただいた、今回の史跡バス見学会。参加させていただき誠に有り難うございました。スタッフの皆様に心から感謝を申し上げます。
この日は北海道では降雪とのこと、関東では夏日であった。いやいや日本は誠に広いなーって感じですね。
そうこうしているうち、ほぼ定刻どおり、我孫子に帰着です。
誠に有り難うございました。 ―感 謝―
|
史跡見学会 小田城趾について 金山 順雄 |
久しぶりに史跡見学会に参加しました。今回は主な見学地が3カ所あり、それぞれ興味のあるところでしたが、最初に見学した小田城趾に付いて感想を記したいと思います。
見学にあたり、バスの中で配られた小田城趾パンフとレジメを読み、お陰様で十分な予備知識を得ることが出来ました。
我孫子より比較的近い筑波の地に、中世より続く小田氏の城趾があることを全く知りませんでした。又この跡が大正年間に本丸跡の真ん中を関東鉄道筑波線が通り(今は廃線)、戦前の昭和十年に国の指定史跡(21万7千u)を受けながらもそのままで、やっと平成21年から7年間かけて本丸跡とその周辺(4万u)が発掘されたということを聞き、二度びっくりしました。
現地では説明案内所のお二人からビデオ説明と展示見学の詳細な説明を受けました。特に漫才の島田洋七にそっくりな東郷さん(容姿・話しぶり)の解説に聞き入りました。小さいときからこの地で育ち遊び場だったということで、郷土愛あふれる現場説明でした。
小田氏は宇都宮氏の一族で、平安末期の八田知家からはじまり鎌倉、南北朝、室町、戦国時代を同地で生き抜いて15代続き、慶長6年(1601年)結城秀康に従い越前に移り、その後佐竹氏の家来が居城していたが、秋田への移封で廃城となったという。
現在本丸跡周辺だけが整備されているが、古地図では曲輪が]番まであり、中世の広大な城があったようだ。発掘調査では関東の伝統的な名家「八屋形」の一つとしての小田家にふさわしい13〜16世紀の陶磁器や茶道具などが出土している。しかし武器武具などは鉄砲玉や甲冑小札一枚などばかり。各時代に城を巡ってのかなりの攻防があった割には少ないので、東郷さんに聞いたところ、周辺も長年畑や田んぼとして使用されていたため、出土しても捨てられたのではないかということであった。本丸周辺以外は既に住宅地や畑等になっているが、今後の発掘によっては発見される可能性もあるということである。
江戸時代以降の天守閣を備えた近世の城と違い、堀・土塁を巡らせた中世の館あとの再現を見学することが出来ました。感謝いたします。
ボランティアガイドの東郷さん
|
つくば市行(2016・10・20) |
|
大利根の川越えし橋真直にさらに外まで長く延びたり 新大利根橋 水害に去年苦しみし田や畑や今ひつぢ田に緑広がる 殿が馬に見巡りたりし田畑を見む今鉄筋の五層天守に 豊田城 四百年攻められ攻めてこの土地を苦しみ統べし小田氏よあはれ 小田城跡 宝篋印塔古りて残れる宝篋山の頂の城も敗れたりけり 三億円かけてつくりし古への役所の蔵はいま空っぽなり 平沢官衙遺跡 筑波山の麓に湧ける水につくりし黒米一袋みやげに買ひぬ 三角点の標石並ぶ最も大きは地中にかくれ二百キロあり 地図と測量の科学館 二十万分の一の地図にて球面のふくらみ幾らか所長に尋ぬ 大災害の津波の高さ吹き抜けに印せる見れば驚きにけり |
|
11月歴史探訪部会 都電に乗って旧中山道「板橋宿」へ 加藤 直道 |
三ノ輪駅にて都電に乗り込む |
11月9日、参加者は我孫子駅待合室近辺に集合し、中澤雅夫副会長引率の下 南千住に向かった。都電三ノ輪駅より庚申塚駅に向かうと、沿線の赤・白・黄色のバラの花に迎えられた。巣鴨地蔵通入口の庚申塚より見学を始めた。高山寺のとげぬき地蔵前には長い行列ができていた。眞性寺の銅造地蔵菩薩像は江戸六地蔵の一つとして、中山道出入口に造られた。当日は6日〜14日の「すがも菊まつり」中で大輪・小輪の菊が参道両側に飾られていた。荒川線庚申塚より板橋宿に向かい、赤羽線板橋駅から遠くないS店で昼食をとった。当地の食堂は五百円前後のメニューが多く、ボリューム・味共に好評であった。
午後は、「いたばし観光ボランティアもてなし隊」4氏の指導で、板橋宿周辺を観た。
東口ロータリーの向かい側に近藤勇と新撰組隊士供養塔を拝んだ。近藤は流山で捕らえられ平尾宿脇本陣に監禁後、一里塚附近の刑場で処刑された。明治9年永倉新八等の努力で作られた。
次に東光寺に行き、江戸初期の庚申塔や宇喜多秀家の供養塔を拝んだ。関ヶ原の戦いで西軍の謀主となったため八丈島に流されたが、前田家との姻戚関係により庇護を受け続けたという。
観明寺は、明治時代往時の繁栄を取り戻すために、成田山新勝寺の不動尊の分身を勧請して「出世不動」の名で親しまれるようになった。同寺の赤門は、当地の加賀藩下屋敷内通用門を移築したもの。青面金剛像の彫られた庚申塔は都内最古である。
板橋宿本陣跡は現在スーパーマーケットになっている。隣地に本陣飯田新左衛門の子孫が居住されており、塀際に跡碑が建てられている。当主がボランティアの一人であった。
文殊院は、本陣飯田家の菩提寺で、幕末正住職を置かず、仮住職も短期間で他の大寺へ転住したので「出世寺」の異名をとった。宿場時代の遊女の墓は、一般人と同様に祀られており、千住宿など他の宿場の如き「投げ込み」によって粗末に扱われることはなかった。
中宿脇本陣跡の説明によると、代々飯田宇兵衛が務めたという。幕末和宮が宿泊し、明治初年大宮氷川神社に行宮する明治天皇も休憩した。遍照寺跡には、庚申塔や馬頭観音があった。50匹の馬をつないだ跡もあった。
板橋の地名の由来となった板橋は、旧中山道が石神井川を渡る地点に架けられた。
最後に、板橋の名所として有名な縁切り榎の下で解散した。「悪縁は切ってくれるが、良縁は結んでくれる」ともいわれ、庶民の信仰を集めていたという。
木枯しは じじばば達の 縁切れず
今回の旅は木枯しは吹いたが晴天でよく練られたコースの為終始見飽きることがなかった。中澤氏ほか幹事各位に深く感謝申し上げます。
|
歴史部会10月の活動報告 矢野 朝水 |
第15回研究講座 出席者18名
日時 平成28年10月23日(日)午後1時30分〜4時30分
会場 北近隣センターつくしの館 会 議室1・2・3
発表者 柴田弘武氏(市史研顧問)
テーマ 「くさか(べ)」とは何か?
配布資料 要旨1枚 資料7枚
資料@ 「日下(部)」考
1)『地方地名語源辞典』楠原祐介ほかより「くさ(久佐)」の地名について
2)『京都の地名検証』吉田金彦より「草内の渡し(京田辺市)」
3)『「長髄彦」の実像』近藤治より生駒山西麓のクサカ・シラカタについて
4)『縄文語からヤマト語へ』鈴木健
5)クサカ―アイヌ語(縄文語)説に関する図書
進藤 治 『「長髄彦」の実像』幻想社刊 1989年
大友幸男 『江釣子古墳群の謎』三一書房刊 1994年
大友幸男 『日本のアイヌ語地名』 〃 1997年
吉田金彦 『草枕と旅の源流を求めて』勉誠出版 2004年
古川愛哲 『地名の秘密』リュウブックス・アステ新書 2002年
資料A 全国「日下(部)」「草香」地名一覧
資料B 資料Aの現状説明と所在地図28枚
<内容報告>
柴田弘武さんから「くさか(べ)」とは何か」と題する研究報告が行われた。概要次の通り。
1.「くさか(べ)」という言葉の語源については、いくつかある。
(1) 『古代地名語源辞典』(楠原祐介ほか)による、「日下部の部民」、「草そのもの」「採草地にちなむもの」のほか、「湿地の意味」「崖地の意味」とする説。
(2) アイヌ語(≒縄文語)説 進藤治『「長髄彦」の実像』、大友幸男『江釣子古墳群の謎』『日本のアイヌ語地名』、吉田金彦『草枕と旅の源流を求めて』、古川愛哲『地名の秘密』、鈴木健『日本語になった縄文語』など。アイヌ語説によれば、
Kusa=対岸へ船で運ぶ・船で渡す。
Ka=渡船場。
Pe/be=〇〇する者
→くさかべ=渡し船の船主の意味となる。
2.アイヌ語説を検証するため、吉田東伍の『大日本地名辞書』等による「くさか(べ)」地名の検証を行った。九州から山形に至る「くさか(べ)」の地名31カ所を調査したところ、2カ所(注)を除き、川や海に面し、港がある(あった)こと等交通の要衝であることが判明した。このことから柴田氏としては、アイヌ語説が妥当と考える。
(注)山形県酒田市八幡町草津は、石油産出に係る異臭「臭津(クソウヅ)」に由来か。群馬県草津町は温泉の硫黄の異臭「臭処(クサト)」に由来か。
3.クサカを「日下」と表記する理由。
・古事記序文にあるように奈良時代にはその理由が既に分からなくなっていた。
・神武東征の時、神武一行はナガスネヒコ軍と戦って破れ、撤退した。そこを「日下(クサカ)の蓼津(たでつ)」という(古事記)。日本書紀では「草香江」。
・谷川健一は「白鳥伝説」の中で、「日の下(ひのした)のクサカという枕詞的な修飾句があったという西宮一民の説に賛意を表した上で、「草香江」は「太陽の昇る難波の東の日の下」に当たることから、クサカを「日下」と表記するようになったとする。ただし、「日の下」は「ひのもと」と読むのが正しい。「ヒノモトノクサカ」という言い方から、ヒノモトがクサカの地名を表すことになり、それをかなり後になって「日下」という文字で表記したものであるとする。
・これに対し鈴木健は「草香江」は大和から見て日の沈むところ(日の下)であり、西を意味するという。
4.柴田さんの結論 谷川説、鈴木説どちらが正しいか、判断は難しいが、神武東征が「日下」と書くきっかけとなったと思われる。
5.柴田さんの講演の後、質疑応答が行われた。
(問)「クサカ」という地名と「クサカベ」という氏姓はどちらが先か。
(答)地名が先で、「クサカ」に住んでいた民が他の地域に移住した所、あるいは「クサカ」に住んでいた女性が貴人の妃となり、その部民とされた人達が住んでいた所など、その土地で「クサカベ」を名乗った。我孫子も地名が先で、その民が我孫子を名乗り、移住した所が地名となった。
(問)アイヌ語≒縄文語とする理由。
(答)アイヌ=縄文人ではないが、縄文人のDNAと一番近いのはアイヌ人という研究成果もあり(2016年9月2日朝日新聞)、アイヌ人は縄文人の血を一番受け継いでいるようである。
1万年続いた縄文時代の末期に朝鮮半島方面から水田耕作と金属器文化を持った人達が主として西日本にやって来て、先住の縄文人と混血していき(倭人の成立)、いわゆる弥生時代に入る。そのとき混血しなかった縄文人(狩猟・採集・漁労経済を続けた人達)は倭人からエミシ・クマソ・ハヤトなどと呼ばれたと思われ、彼らは倭人に圧迫されてエミシは東北方面へ、クマソ・ハヤトは南九州方面へと逃れていったものと思われる。そのエミシはやがてエゾと呼ばれ、更にアイヌと自称、または他称されるようになったと思われる。従って、アイヌ語には縄文語が残っている可能性が高いと言える。
(問)縄文時代交易は盛んで、港等交通の要衝の地は沢山あったと思うが、現在残っている「クサカ」の地名は少ないのではないか。
(答)港等として長く使われたところは「クサカ」の地名が残り、使われなくなったところは「クサカ」の地名が消滅したのではないか。
(問)神武東征は歴史的事実と思うか。
(答)神武天皇という個人は存在しなかったが、九州方面から武力を伴った大和への移住はあったと思う。
(問)縄文人は多くが関東、東北に居住していたのに、アイヌ語説を検証した土地は、西日本が圧倒的に多い。
(答)縄文人は狩猟採集に条件のよい関東・東北に多くいたが、数は少ないとはいえ、西日本にも居住し、日本列島全体に縄文人はいた。
------------------------------------------------
12月の歴史部会予定
日時 12月25日(日)午後1時30分〜4時30分
会場 北近隣センター 並木本館 会議室3
発表者 近江礼子会員
テーマ 「我孫子市におけるアンバ大杉信仰」
|
合同部会11月の活動 中澤 雅夫 |
11/19(土) 11名
1.法岩院訪問
法事、葬儀が入って延期となっていた中峠の法岩院を午前10時に訪問した。先月「会報」での案内:「午後」は間違い、eメール、はがき等で「午前」に訂正の連絡をしたが、間違いのまま来られた方があり、失礼した。すみません。
法岩院では、まず、住職のご指導により般若心経を読経し、ご本尊に焼香したあと、堂内・位牌室を案内・説明して頂いた。また涅槃図をかかげて置いて下さり、説明を受けながら拝観させて頂いた。
続いて本堂の隣室で、住職自ら煎れて下さったお茶とお菓子を頂きながら住職から種々ご説明をうかがい、質問に応じて頂いた。
ご説明は、担当の金成典知会員が事前にお渡ししておいた「質問事項」に沿って行われた。その内容は開山の雪田和尚や歴代住職、曹洞宗、天狗(道了尊)、十一面観音などに関するものであった。また、年中行事としては、施餓鬼は毎日、大施餓鬼は8月1日に行い、その他要望により毎月座禅会を開いている、とのことであった。ご説明頂く約束は1時間であったが、大幅に超過した。
なお、法岩院で頂いた資料は次の通りで、『湖北村誌』、『字誌』からの抜粋には手書きメモが記入されていた。
@「摩訶般若波羅密多心経」、付「普回向(ふえこう)」、
A『禅の友』(2016.11)、
B『湖北村誌』p.169〜p.170、
C『我孫子の地名と歴史(字誌)』p.184他。
2.今後の予定
@12月
12月17日(土)、午前中に調査報告書案の検討などを行い、そのあと昼食忘年会を行う。
A2017年1月は休会
例会の日に当たる1月21日(土)は、市史研の平成28年度歴史講演会、岡田清一氏「我孫子中世史へのアプローチ」が開かれるので、合同部会は休会。
|
古文書解読火曜部会11月の活動報告 2班 上杉 桂子 |
「五人組御仕置帳」の解読も3回目となり、2班は16項目を解読しました。紙面の都合上、その内9項目を紹介します。要旨は次の通りです。
一、田畑を荒れたまま放置するな。又、田畑・荒場所起し返し切り添え又は新田があれば申し出よ。隠し置き訴えられれば、当人のみでなく名主・五人組も落ち度となる。
一、用水の掛け引きは日常から申し合わせ口論無きようにせよ。争論・境論の場へ刀など武器持ち加担する者の罪は本人より重い。
一、御伝馬宿定助郷からの人馬寄せの際は、問屋名主吟味し、みだりに人馬触れしてはならぬ、馬を囲い置いて勝手に荷物を積んではいけない。
一、番屋・番人を置き、火の用心せよ。出火の際は鳴りを立て、村中出会い消火せよ。御年貢米の蔵は特に大切にせよ。風吹きの折りは昼夜に限らず特に気をつけよ。
一、堤・川除は切れないように囲い、小さい内に修理せよ。自普請になり難いところは御入用にて行う。触れがなくても常々油断するな。
一、満水の節は川除・囲い行う時、盗賊・狼藉・出火あれば、村中の15歳以上60歳以下の男は残
らず罷り出よ。出ない者は名主・組頭詮議せよ。
一、御林・立山の竹木はもとより枝葉下草まで公用のほかは刈り取るな。御林の空いた所には苗木を植えよ。百姓は自分の持林・屋敷回りの目立つ木の伐り違いに気をつけよ。堤の草・葦刈るな。堤に植物植えるな。
一、入会いの野山は、持山でも草木の根を掘り取るな。山崩れ・砂入りなきように山林に苗木を植えよ。
附;山中焼畑する所は、特に、野火つけ禁止。
一、諸作第一にし、よく種を選んで耕作入念にせよ。荒作する者は必ず詮議、独身の者へは村中助け、田畑荒らすな。
一、他所への2泊外出は名主へ断わり出よ。他国への奉公、或は用事での外出はその子細を名主・組頭・五人組へ届け、役所へ書面で断わりせよ。公事訴訟も同じ。毎回文字の判読だけで四苦八苦して、内容の把握にはとても及ばない古文書入門一年生です。この一ヵ月は四六時中原稿のことが頭を占めていました。顧みればこのような学びの機会を与えて下さったことに感謝しております。
これからも初心を忘れずに歩んで参ります。
|
井上家文書研究会11月の報告 品田 制子 |
11月12日(土)
7月・10月に配布した下記の7点を解読、解題
@明和3年戌8月「下総国相馬郡相嶋新田検地野帳」1149
字六軒前堤根屋敷検地の際、その場(野外)で記入した仮帳簿。
A明和3年戌8月「御水帳写 下総国相馬郡相嶋新田新田検地帳」1037
字六軒前堤根南北合わせて屋敷地6畝6歩(廟所を除く)の検地清帳。
B明和3年戌8月「字六軒前堤根腹付屋敷小前割合帳」1150
検地をうけた堤根屋敷地に間口と小前7人の名前を記した文書。
C(絵図)1063これは上記に関連する絵図である。
D明和3年戌4月「一札之事」1701
深川三角屋敷の村松市兵衛が所持する手賀沼新田地、上沼10町歩、下沼10町歩を相嶋新田佐次兵衛に渡すとの文書。突然の文書で事実であったかどうかが話題となった。
次に10月に配布の文書として、
@明和3年戌11月日改「字六軒前堤根腹付屋敷地割合帳」1168
これは1150の文書に沼行と面積を加筆改めた文書。
A明和3年戌8月「相嶋新田佐次兵衛持高之内 御水帳面書抜田畑小前覚」103
佐次兵衛所持の三河屋新田、畑合せて1反6畝6歩と布佐村にある畑1反9歩を倅ではなく孫に譲り渡すとの文書。ここでもなぜ倅ではなく孫なのか、議論となった。
B明和4年亥5月日「覚」1267 3点
明和4年の前々年申年および前年酉年の、発作木下前圦樋水替人足や雑用の費用を精算した書付である。
|
古文書日曜部会活動報告 清水 千賀子 |
「落穂集(追加)」解読は、10月の「西之御丸之事」で巻の一を終え、11月より巻の二「御城内古来家作之事」「増上寺浅草寺之事」に入った。
「西之御丸之事」では、家康入国時、その地には田畑あり野原あり、春には桃・桜・土筆の花が咲出る江戸庶民の遊山所だったこと、徐々に堀や石垣ができ、「御新城」(西之御丸)が建ち、閉まりの門もでき本丸と一構えの江戸城となっていくなかで、城内に残った山王社は城外へ移築され、江戸城周辺の町並みも大きく変わっていく様子が述べられる。
「御城内古来家作之事」では、入城時には後北条氏時代の家屋がそのまま残っており、粗末なものであったが、家康はそのまま利用し、家作の建設より、まず本丸と二の丸の間にあった堀を埋めること、側近たちとともに家臣団の知行割りを第一に急ぎ、僅か2~3ケ月で終えたことが述べられる。徳川家家臣団の配置はこの時家康が定めたものであったことが分かった。
「増上寺浅草寺之事」では、徳川家菩提所の「増上寺」と祈祷所の「浅草寺」の故事縁由が述べられる。
解読を進めて行くと、以前述べたことであるが、幕府の(初期の)正史に最も多く利用された書物と言われる所以がはっきりしてくる。それはどの項目につても、何時の頃の誰がいったことか(誰の著作からか)、その人物(著者)はどういう人物かが詳しく説明されていることである。歴史を記述するときの基本であり、信憑性の目安ともなることであり、その重要性を再確認させられた。来月は「神田明神之事」より解読に入る。
|
歴史探訪部会11月の活動 長谷川 秀也 |
都電に乗って旧中山道「巣鴨地蔵通り」と「板橋宿」
・日時 11月9日(水)
・集合 9:10 JR我孫子駅 4,5番線ホーム待合室近辺
・解散 15:40 縁切り榎
・参加者 24名
*東京では木枯らし1号が吹き、寒い1日でした。
午前 中澤雅夫会員の案内で「巣鴨地蔵通り」見学。
午後 板橋区観光ボランティアガイドの案内で「板橋宿」見学。
行程
・10:10都電荒川線「三ノ輪橋」発〜11:00都電荒川線「庚申塚」着〜「巣鴨猿田彦大神庚申堂」、「萬頂山高岩寺」(とげぬき地蔵)・「眞性寺」(江戸六地蔵第3番)・「大正大学すがも鴨台観音堂」
〜12:15JR板橋駅着(昼食)
・13:20JR板橋駅東口発〜「近藤勇供養塔」・「東光寺」・「観明寺」・「旧脇本陣」・「遍照寺跡石造物」・「本陣跡碑」・「文殊院」・「板橋」(地名の由来となった石神井川に架かる橋)〜15:20「縁切り榎」着
(詳細はp6 「都電に乗って旧中山道・板橋宿へ」加藤直道会員の報告をご覧ください。)
◯次回探訪 12月9日(金)「水戸道中 藤代〜若柴宿を訪ねる」 近江礼子会員の案内です。
(トップ記事の催し案内参照下さい)
|
鎌ヶ谷市立郷土資料館訪問記 東 日出夫 |
郷土資料館設立を目指す市史研として市に設立の請願をするにしても、理想を持ちその上で現実と折り合いの上での請願でないと実現はかなわない。そこで市史研の設立準備委員会では周辺市の郷土資料館の見学を計画した。
まず最初に選んだのは人口規模として約13万人の我孫子市に近く、発展中の鎌ヶ谷市(約11万人)の郷土資料館。同館はアビスタの図書館で調べた限りでは毎年の年報や市教委編の「市史研究誌」を送付し、いかにも熱心に活動に取り組んでおられることが伺えた。また同館が旧銀行の建物を改装したものであったということに親近感を得たがゆえでもあった。
鎌ヶ谷市立郷土資料館
それで同館を11月4日の午後に訪問した。元銀行というだけに新京成電鉄の初富駅に近い、自動車が盛んに行きかう道路に面してあった。学芸員の手塚雄太主事が出迎えて下さり、最初に一階フロアで館内施設と組織の説明・年間事業の色々を紹介して頂いた。続いて1階・2階を巡り、常設・企画展の説明といわゆるバックヤード(文化財整理作業室・洗浄工作室・保存書庫・研究室など)を見学させて頂いた。1時間40分の見学であったが、同氏はお忙しいなかを熱心に我々の不躾な質問にも好意的に応じて下さり、我々としては十分充足感を得てお暇をした次第であった。
印象に残ったのは歴史の全時代をカバーし得る6人の学芸員(常勤は3人)を擁している豊富な人材、多岐にわたる企画展や教育普及活動として種々の講座(古文書講座を含む)・講演会の開催を頻繁に行っている事、毎年の来館者は5000人を下らないという事などであった。昭和62年開館の同館も今や2階の資料室や文書資料の保管庫(旧銀行の金庫)は満杯で各室から溢れている状態だった。活発な活動に見合う、新規の施設を切望しておられることは我々としても大いに頷けた。
同館入り口で
事務局便り
湖北郷土資料室の見学が行なわれました
11月2日(水)午後2時から湖北地区行政サービスセンター2階にある湖北郷土資料室の展示説明する見学会を市史研で行いました。教育委員会文化・スポーツ課辻史郎課長補佐、田中友紀恵氏に展示の解説をお願いしました。会員や一般の方30名が集い、辻氏の分かりやすく、要点をとらえた説明に聞き入り、次に待っていた中学校の先生方の案内に抜けられた後は、田中氏に各々が熱心に質問を浴びせ、皆満足して解散しました。(写真)
市史研としては市民の方々にこの資料室にもっと関心を持って足を運んでもらおうと特別展示会を教育委共催で企画しています。
12月に湖北郷土資料室で催す「一世紀前に書かれた郷土史『湖北村誌』とその草稿』特別展示と講演会・見学会のチラシを同封します。参加お待ちします。
![]() |
各部会活動・12月の予定
会員は下記6部会のどれにも参加できます。初めての参加の時には部会の担当者に連絡して下さい。
| 部会と集まり | 日 | 時 | 所 | 担当 |
| @古文書解読日曜部会(第2日曜) | 12月11日(日) | 13:00 | 我孫子北近隣センター 並木本館会議室3 |
清水 千賀子 |
| テキスト 故高田明英会員所蔵 大道寺友山著「落穂集」 | ||||
| A古文書解読火曜部会(第3火曜) | 12月20日(火) | 13:30 | 市民プラザ会議室 | 東 日出夫 |
| テキスト 川村一夫家文書「五人組御仕置帳」 | ||||
| B井上家文書研究部会(第2土曜) | 12月10日(土) | 13:30 | 我孫子北近隣センター つくし野館会議室1 | 品田 制子 |
| C歴史部会 (第4日曜) 「我孫子市におけるアンバ大杉信仰」近江礼子会員 |
12月25日(日) | 13:30 | 我孫子北近隣センター 並木本館会議室3 |
谷田部 隆博 |
| D合同部会 (第3土曜)
社寺調査報告書案の検討他
|
12月17日(土) | 9:30 | 我孫子北近隣センター 並木本館会議室1 |
中澤 雅夫 |
| E歴史探訪部会 「水戸道中 藤代宿〜若柴宿」を訪ねる (参加費200円) |
12月9日(金)(雨天延期) |
9:30
|
常磐線 藤代駅 改札口(1ヶ所のみ) |
荒井 茂男 |
| 12月度運営委(講演会他) | 12月24日(土) | 9:40 | 市民活動St.大会議室 | 岡本 和男 |
事務局便り
・新入会員のお知らせ(10、11月度入会)
脇(わき)明子さん 並木5丁目
中林 孝さん 柏市松葉町7丁目
どうぞよろしく。
・『湖北村誌』特別展示と講演会・見学会のお知らせ
¶ 特別展示:「『湖北村誌』とその草稿」
H28/12/13(火)〜12/22(木)10:00〜16:00
会場:湖北郷土資料室(湖北地区行政サービスセンター2F、但し12/17,18は休日の為休み)
¶ 講演会:「一世紀前に書かれた郷土史『湖北村誌』と菅井敬之助たち」
H28/12/18(日)13:30〜15:15
会場:湖北地区公民館第一会議室
講師:柴田弘武(市史研顧問)
参加費:100円(高校生以下、市史研会員は無料)
定員:100名(申込不要、先着順)
¶ 見学会
講演会終了後、ゆかりの中里地区を市史研会員がガイドします。
(詳細は同封チラシ参照下さい)
・歴史講演会の予告
¶「我孫子中世史へのアプローチ」
日時:H29/1/21(土)14:00〜16:15
会場:我孫子市民プラザ ホール
講師:岡田 清一 東北福祉大学教授、元我孫子市史編集委員)
参加費:500円(高校生以下、市史研会員は無料)
¶ 講演会終了後、同じ会場で「講師を囲んで懇談会」開催、自由参加、会費未定
¶ 講演会場には関連展示パネルを掲示予定。
事務局 〒270−1132 編集・発行 編集委員会
我孫子市湖北台5-15-17 岡本方 TEL. 04-7149-6404
電子メール:gasonsi@jcom.home.ne.jp
市史研ホームページ:http://abikosisiken.main.jp/