平成27年4月25日発行   我孫子市史研究センター会報   第158号  通算465号
  編集:編集委員会 

探訪『白樺派の我孫子での足跡を訪ねる』 歴史探訪部会4月の活動

長谷川 秀也

歴史探訪部会では、410日(金)今年度最初の歴史探訪『白樺派の我孫子での足跡を訪ねる』を主催しました。

集合時間;1300 集合場所;けやきプラザ1Fエントランス

講師  ;荒井茂男、田中由紀部会員

 参加者12名。雨模様。気温12。白樺文学館へ向って集合場所を1310に出発しました。途中(楚人冠庭園)で紫ケマン、ホトケノザ等春の野草を見て、1330文学館着。

館内を見学する前にピアノ(柳兼子愛用品)の生演奏を聴きました。リフレッシュ後、3月から開催されている白樺文学館特別企画展『我孫子・白樺派を継ぐ者−原田京平の生涯−』展示室に移動。京平について学芸員の熱い解説がありました。白樺派、その継続、民芸運動ゆかりの地、我孫子の関連が理解出来ました。

志賀直哉邸あと1440志賀直哉邸跡地を見学。我孫子に移住(1915)した時は900坪の敷地でしたが、その後地続きの崖の上に600坪の土地を取得しました。書斎は南天や、曲がった木をそのまま柱に使い、濡れ縁は意識して不揃いの板を使用した、凝った造作です。直哉は雷が好きでしたが、寒がりだったそうです。冬は手賀沼から冷たい風が吹いてくるので、執筆環境造りに苦労した事だろうと思います。志賀家は近所付き合いをそれとなくしていたそうです。我孫子を離れた後も手紙の交換をしていました。
左写真は志賀直哉邸あとの碑。‘字体は志賀直哉の「暗夜行路」を参考にデザインしたとある。

1520 瀧井孝作寓居跡着 古墳群が子之神権現まで続く、手賀沼を見下ろす眺望の良い処です。此処では春の野草・アマドコロが白い花を付けていました。午後から雨の天気予報でしたが、晴おんな、晴おとこの念力でまだ雨は降っていません。

手賀大橋が見える 1545最後の探訪地、三樹荘・嘉納治五郎別荘跡地着。我孫子第一小学校に贈られた『力必達』『以人為鏡』のレプリカを見て筆跡を味わい、治五郎が好んだ富士山がある手賀沼風景を脳裏に描いてみました。

 1600小雨が降り始めましたが、まだ、ポツリ、ポツリです。おまけとして、緑の香取神社で昭和58年月山、羽黒山、湯殿山参拝記念碑(市史研参加者による建立)を見学。

 1630解散。約3.0km弱の行程。お疲れさまでした。我孫子は上り、下りの坂が多く、その坂は急である事もよく解りました。講師の皆さま有難う御座いました。次回を楽しみにしています。


歴史探訪部会6月の活動予告

612日(金)芝山仁王尊・飯高寺(飯高檀林跡)を訪ねる バスを利用。芝山町周辺には、数多くの古墳があり、古代から人の営みがありました。芝山仁王尊(約1300年の歴史)・はにわ博物館と日蓮宗の学問所・飯高檀林を見学します。くわしくは次回会報に掲載。


―『新四国相馬霊場八十八ヶ所を訪ねる』出版記念―

歴史探訪部会5月主催   相馬霊場の札所参り 7」

 今回で、利根川以南の札所参りは完了!(除 取手市 9番常円寺)

JR常磐線 我孫子駅北口 〜 久寺家 〜 柏市布施 〜(バス)〜 我孫子駅北口

日 時:5月13日(水) 09:40

集 合:JR常磐線「我孫子駅」北口階段下近辺

参加費:200円(保険代、資料代など)

オプション(希望者は天気が良ければ「あけぼの山公園」で昼食、弁当持参)。(なお、布施弁天前に茶屋もあります。)

相馬霊場今回の予定経路

問合せ先

メール:長谷川秀也 sakts@jcom.home.ne.jp
TEL&FAX:荒井茂男 04-7182-2838

「我孫子駅北口」⇒ 84番<久寺家 宝蔵寺>⇒ 85番<布施 円性寺>⇒ 26番<布施 南龍寺>

  ⇒ 67番<布施 薬師堂>⇒ 68番<布施 東海寺(布施弁天)>「あけぼの山公園入口」停留所

 (バス)⇒「我孫子駅北口」

歩行距離:6〜7km

参照:『新四国相馬霊場八十八ヶ所を訪ねる』p.144〜p.155


井上基家文書の研究 質地証文 その17

清水 紀夫 

小括2


 次はAである。近代社会を分析する際用いるキーワードを「国家」、「個人」とするなら、近世農村を読み解くキーワードは「村」、「家」ではなかろうか。

「村」についてはその5で寄合いの模様を、その6で村金融の存在を、その14で村請下での年貢割賦の仕組みを、その15で「村」の成立過程と村役人の公証を取りあげ、舌足らずながら言及した。

追記すれば、「村」は、現在のような単なる行政区分、地方行政とは異なり江戸時代の「村は自治的に運営されてい」た*1。年貢が村請制であったように支配層の介入は村の入り口までで、「けっして内部にまで手を突っ込まない」。委任統治、間接関与だったそうだ*2。復習しよう。その運営を担ったのは村役人(村方三役)であった。名主は村の最高責任者、組頭はその補佐役、百姓代は監査役かつ惣百姓の代表である*3。村法の制定も含め、村の重要事項は寄合い(惣百姓の衆議)で決められた*4。では司法はというと、幕府のシステムはさて置くとして、村の仲裁者の和解を優先、村の自主性を重視していたことは前回みた通りである。

「村」の内には惣百姓をはじめ、「同族団、親類、近所、五人組、『結』、『もやい』など」、他にも「講」や「若者組」等の団体があって、村民は有機的に結合し、「濃密」な人間関係が成立していたとのこと*6。まさに「共同体」だ。それは何重にもなった「相互扶助の輪」でもあったという*7

さらに「村」の周縁には、その14で図に示しておいたが、近隣村との間で組織された、例えば入会組合、用水組合、助郷組合などの組合村が作られ、地域社会を形成していたのである*8

一方、「家」については、その4で小農の実態を、その7で「家」の成立過程*9と家格の有様、および小作について、その11で農民の土地所有意識を瞥見した。

追記すれば、その5で述べたように、江戸時代の「家」は生産と生活の場であり、小農は今で言う個人事業主。当然資金繰りも必須であったろう。彼らは「自給自足的」であり、分担で誰もが仕事を持っていた。唯々「消費」のためだけで寄り集まっている近代家族とは違うのである。

当時の「家」の概念を祖先祭祀と通名襲名を通して公に個別性を示す「家名」*10、土地を中心とする「家産」、「家業」=農業、この三者が一体化したものと捉えることができる。家人の生きがいは、その「家」の永続であり、日々耕作に励んで先祖から受け継いだ田畑を欠くことなく次世代に渡すことが人生の目標であったという*11

以上は本百姓の話である。小作は小作で、時代とともに「小作地に対する権利を強め、小作権を世襲して実質『家産』化」した例も見られたそうである*12

大塚久雄氏によれば、近代以前にあっては、土地は「『富』の包括的基盤」、「一切の生産活動がその上で展開される」「『共同体』成立の主要な物質的基」礎であった*13。今回研究対象とした質地証文は、ここまで述べてきたような時代背景と制約のもとでの土地取引だったのである。

注記:参考にした資料、文献はすべて最初に目に留まったものを研究に用い、出典としてあげており、一次資料或は初出の論文にまで遡っていない。

注)

*1 『近世百姓の底力』(前掲)22頁。

*2 『民衆史入門』(前掲)12930頁。

*3 『武士に「もの言う」百姓たち』(前掲)8990頁名主は世襲にしろ、持ち回りにしろ、入札(投票)にしろ最終的に領主が任命した(同、91頁)。

*4 『近世百姓の底力』(前掲)22頁。

*5 前掲261頁。本百姓の集まりで、名主と対峙する。なお渡辺尚志氏は惣百姓も一つの団体と見做している。

*6 前掲262頁。

*7 前掲104

*8 『村からみた近世』(前掲)79頁。ちなみに渡辺尚志氏は組合村をあくまでもゲゼルシャフト的なものと見ている。「組合村は共同体ではありません。…ある特定の機能に特化した集団であり、その結合範囲も可変的です。…組合村と共同体とは区別して考えています。」(同、301頁)。

*9 成立時期を記すのを忘れていた。諸説あり、ここでは17世紀後半成立説があることだけ紹介しておこう(前掲、193頁)。

*10 大東修『日本史リブレット39近世村人のライフサイクル』山川出版社、2003.110頁。

*11 『近世百姓の底力』(前掲)46196頁。

*12 『近世村人のライフサイクル』(前掲)15頁。『日本の村』(前掲、679頁)には、戦後のことではあるが、「転業したいのだが二反歩の田(小作地)を買わないか」と相談をもちかける小作人の話が出てくる。もちかけられた方も別に驚かない。

*13 大塚久雄『共同体の基礎理論』岩波現代文庫、2000.1121519頁。


井上基家文書の研究 質地証文 その18

清水 紀夫 

小括3

最後にBについては、これまで紐付けを試みた文書関連を整理して下図にまとめておく*1

「文書主義」、その成立要因の一つに豊臣秀吉の刀狩令=兵農分離があったという。その結果「支配階級である武士は城下町に集住し、農民は村に居住」、空間的に隔たった両者間の意思伝達は文書を介して行われることになった*2。その一例はその5に記した領主から下達される年貢割付状であろう。「百姓(村役人)たちも文書を用いて武士に報告や要求を伝え」た*3。さらに支配層の要請もあり、村内においても帳簿を作成、記帳することで村運営を行うようになっていった*4

「こうした文書による支配は、村役人が読み書き計算能力を備えていることが不可欠の条件となる*5」村役人ばかりでなく村民にとってもであったろう。今までを振り返ってすぐ思いつくだけでも、質地など各証文のやりとり、年貢割賦の際の立会い、村形騒動での訴状書き等々。村役人を飛び越して公儀に直訴する場合はなおさらのことである*6

さらに17世紀末頃より「農村にも商品貨幣経済が浸透し、農業経営が商業的色彩を帯び」てくると、より高度な能力が要求されるようになり、村民も「不利益をこうむ」らないためにと、能力習得の意欲をより一層増進させたに違いない。「十八世紀に入ると寺子屋(手習い塾)が全国的に普及しはじめ、ことに十八世紀後半より急増し」たそうだ*7

日本は西洋以外で唯一近代化に成功した国との評価もある。近代日本(明治時代)は他の後進国が「エリート」主義をとる中、「翻訳主義」を採用して近代化を推し進めたのであるが*8、そのベースに、近世(江戸時代)におけるこの「文書主義」と寺子屋・私塾の普及で培われたソーシャル・キャピタル〔社会を支える人々の基本的精神の意、福沢諭吉の言葉を藉りれば「人民の気風」*9〕が、地下水脈を通じて「翻訳主義」にまで連なっていたような気がする。

注)

*1 内容はすべて各文書の項目名だけを用いての推測であり、実際の地名、人名、数値

などを突き合わせて確認する作業はこれからである。

*2 『近世村人のライフサイクル』(前掲)59頁。

*3 『近世百姓の底力』(前掲)23頁。

*4 井上基家文書・前出『刑罰録』の「九十五 村方帳面無印村役人咎之事」には、「延享元年(1744)極、一 年貢諸帳面惣百姓不為見?印形於不取置者、名主役儀取上過料、組頭過料」とある。この一文から、村役人が村運営を主導していたこと(前回言及)、特に年貢徴収事務において帳面への記帳・加印が義

務づけられていたこと、および惣百姓がチェック機能(不正の防止)をはたしていたことが読みとれる。文末には但書きがあり、上の行為を「私欲於有之』行った場合、一段重い刑罰となっている。

*5 『近世村人のライフサイクル』(前掲)60頁。

*6 渡辺尚志氏は名主投票において村民に若干の読み書き能力が必要だったことを指摘している(『武士に「もの言う」百姓たち』(前掲)923頁)。

*7 『近世村人のライフサイクル』(前掲)6162頁。

*8 丸山眞男・加藤周一『翻訳と日本の近代』岩波新書、1998.10

  *9 福沢諭吉・松沢弘陽校注『文明論之概略』岩波文庫、1995.331頁。


図:質地証文を中心とした江戸時代の文書体系


井上家文書研究部会4月の活動

長谷川


(1)411日の「井上家文書研究部会」では、前回新たに配布された、下記の7点:

1)文書番号1258 宝暦4戌年3月の「定」(手賀沼廻り村々)
2)文書番号1714 宝暦4戌年3月の「請取申米金之事」(藤左衛門ほか)
3)文書番号1716 宝暦4戌年3月の「乍恐書付を以奉申上候」(藤左衛門ほか)
4)文書番号1617 宝暦4戌年4月の「乍恐以書付申上候」(竹袋村)
5)文書番号1395 宝暦4戌年4月の「乍恐以書付奉願上候」(佐次兵衛)
6)文書番号1293 宝暦4戌年5月の「乍恐以書付奉願上候」(柏堀之内村下)ほか
7)文書番号1243 宝暦4戌年7月の「乍恐書付を以奉申上候」(佐次兵衛)

の文書が日付の古いものから、1)から5)まで順次解読・解題の対象として採り上げられた。

(2)すなわち、

冒頭の2点はいずれも「六軒圦樋」(講師が提供された中尾氏著書中の図E江戸後期の手賀沼水路圦樋図中、Fと示される)の「伏替御普請」に係るものであり、そのうち

11258の文書(宝暦43月)は、手賀沼廻り村々は、惣代七人衆を選んで(1292に比し二人増)、悪水吐圦樋の木下前伏替普請の仕立方を委任し、その雑用代、役料を定め、諸入用諸人足等は村々が割合負担する旨の連印状であり、

21714の文書(同年3月)は、3件の文書を併せたもので、その1は「圦樋御普請」御入用米金の内米12石余、金30両の内借受取を報告し、またその2は「圦樋鉄物」の引き渡しをお願いする、いずれも惣代から小田切新五郎様御役所に宛てた書状で、その3は御入用米金の村々への引渡を確認する御役所からの書状からなる。

31716の文書(同年3月)は、いずれも惣代から小田切新五郎様御役所に宛てた2件の文書を併せたもので、その1は上記1714の文書その1にいう「圦樋御普請」御入用米金の内御扶持方米12石余の内借は、米ではなく御金でお渡し下さるよう請願し、またその2は「圦樋御普請」御入用米金の受納を報告する書状である。

41617の文書(同44月)の「乍恐以書付申上候」という書状は、稲葉丹後守領分の印旛郡竹袋村が小田切新五郎様御手代野村弥五左衛門様に対して差出したものであるが、元来は手賀沼新田請方村々が申立てたことで、竹袋村木颪下に手賀沼支配の堤がある所に木颪の者共が勝手に家作しているとか、同所に家作している百姓共はこの際立ち退くか今後は手賀沼付支配に成って住居するか決定するようにという指摘や、手賀沼支配の堤にある竹木を今回切払度いという申出について、御役所から意見を問われたので、返答するという形式を採っている。

すなわち、a)当村下手賀沼支配の堤に住居する百姓はいない。b)木下家居通は古来竹袋村支配で、先年堤修復等も私共方で行い、圦樋近所に並居る家も往古より住居している者共である。c)今まで当村百姓共支配してきているので、新規な理由で沼付村々へ相渡すのは難儀なことである。d)近年築立の新堤も元来竹袋村地内にあるので手賀沼にて支配する筋は無い。また、e)竹袋村は木下河岸御年貢を差し上げ、諸荷物揚げ下げの津であり、荷物出掛りの節は河岸場が狭く差障りになり、先年利根川通流作御新田御見立の際にも、当河岸下は免除していただいた経緯もある。手賀沼支配の様に申上候は大きな心得違いである。なお、御公儀様御普請には、これまで差障りがなかったので、堤土取場や堀浚土揚場を当村地内に仰せ付けられても支障はございませんとも、念押している。

51395の文書(同年4月)の「乍恐以書付奉願上候」という書状は、手賀沼新田請方村々の惣代を勤める相嶋新田名主左次兵衛から見た、上記1717の文書に示された同時期における竹袋村の見解と対比されるべき意見を述べたものということが出来よう。

すなわち、a) 左次兵衛が自普請を請負い300間程築立てたものだが、その根腹附に住居する家数が多い。そのうち弐三軒は私方まで連って築立てている。それは、此度圦樋伏替えを行った「惣囲堤」内にある。b)それ以外でも、先規よりある「本囲堤」に住居仕候家数もあり、御新田御支配の所に我侭に住居しているのは不埒なことである。c)此度圦樋御伏替えの際に、堀筋が埋まり浚い仕候にも土揚場改め様判らず、悪水落しに永々難儀することになる。d)右堤敷御見分の上、家数を改め、御年貢及び沼役永を上納させる様にして欲しいとある。

なお、席上議論となったのは、堤敷の位置であり、中尾氏著書中の図Eだけからでは、上記「惣囲堤」及び「本囲堤」の位置が特定できなかったのは残念だった。

以下は私見で、御批判頂きたいが、

a)の「惣囲堤」の方は、図EではI外堤(向堤)と称されるものに該当するとしてもよいようである。つまり、H水神を含む「く」の字形の領域及びこれに添えられた「堤防」のマーク(黒太線)も含めた地域がこれを示していると解したい。

他方、b)の「本囲堤」の方は、図EではM内堤(本囲堤)という同一名称の使用が認められはするものの、その位置が定かでない。特に、延享元年には、「木颪から千間余(約1.8km)川下の平岡村下に設けた圦樋まで」大囲新堤が完成しているという(前回解読の文書番号846参照)が、図Eに描かれたM内堤(本囲堤)の方は、「堤防」のマーク(黒太線)が川筋を離れ蒔俵圦樋Lに達し、対岸のM内堤(本囲堤)に続いている。

(3)今月の部会の席上新たに配布された、下記の8点:

1)文書番号804 宝暦5亥年3月の「宗門人別御改村中書上帳」(相嶋新田)
2)文書番号1266 宝暦5亥年4月の「一札之事」(沼廻り村々)
3)文書番号1738 宝暦5亥年5月の「覚」(相嶋新田左次兵衛ほか)
4)文書番号1603 宝暦5亥年7月の「乍恐書付を以奉申上候」(沖田村新田ほか)
5)文書番号1614 宝暦5亥年7月の「乍恐書付を以奉願上候」(印旛郡願人)
6)文書番号1731 宝暦5亥年7月の「乍恐書付を以奉願上候」(小溝新田ほか)
7)文書番号2032 宝暦5亥年8月の「村鑑明細帳」(相嶋新田)
8)文書番号259AE 宝暦46年の年貢関係文書(相嶋新田)の文書の解読、解題は今月の部会で未了のまま繰り越された下記2点:
a) 文書番号1293 宝暦4戌年5月の「乍恐以書付奉願上候」(柏堀之内村下ほか)
b) 文書番号1243 宝暦4戌年7月の「乍恐書付を以奉申上候」(佐次兵衛)

の文書と共に5月以降の研究部会で行われることとなった。           
以上



合同部会4月の活動 4/18(土)

長谷川 秀也 

出席者 11 

柴崎地区の寺院関係を現地調査した。(担当土井玲子、長谷川秀也)  

418日(土)1330 JR天王台駅北口集合、1600同所解散 

・配布資料      

1)円福寺、東源寺、東霊園の石仏表           
2)東源寺発行 『わが寺の文化財』 A4

1.円福寺;本堂内見学。その後、住職夫人に檀家、本堂改築、石仏移築その他について丁寧な説明、質問に対する応答を頂きました。

2.東源寺;本堂内見学は不可でしたが、我孫子市最古の筆子塚二基(寛永17(1640)、正徳4(1714)銘)の再調査ができました。

3.東霊園;我孫子市で二番目に古い舟形石碑(寛文三年1663銘)を再確認しました。

4.次回部会;516日(土)1330〜 つくし野館 会議室-3       「大杉さまの話を聞く」


古文書日曜部会レポート

山崎 章藏

「刑罪録」にみる「拾ヒ物」について

 新年度の日曜部会は、412日(日)(於・北近隣センター並木本館会議室)、会員14名が出席して前年度に引きつづき、テキストの「刑罪録(御定書百箇条)」の解読をおこないました。解読は文書の意味や内容の解釈に苦戦しながら、これまでに条文の半分まで進んできています。

 「刑罪録」第60条は遺失物に関したもので、「拾ヒ物取計之事」が規定されています。

§「拾ヒ物の義、訴出候ハバ(届け出があれば)三日晒(公告)の上、落ヒ主出候は(判明すれば)、金子(現金)は落ヒ主より拾ヒ主へ半分宛為取可申候(半分は拾った者が受けとれる)。 反物類は残らず本主(持主)へ為相渡(返還するが)、相応の礼を可為致事(持主はお礼(報労金)をわたすこと)。ただし、落ヒ主不相知候(判明しない時)は、六ヶ月見合置(待って)、弥(どうしても)主無候ハバ(持主が不明のときは)、拾ヒ候者へ残らず為取可申こと(拾った者がすべてをもらえる)。」

§「拾ヒ物致シ、不訴出於類は、過料。(物を拾って届出なかった場合は過料=罰金とする)」

 遺失物(拾ヒ物)とは、占有者の意思に基づかないで所持を離れた物で、盗品でない物です。つまり、落し物・置き忘れ物のことのです。

遺失物に関する法律は、明治初年に新律綱領、改正律令、同9年(1876)太政官布告・遺失物取扱規則などの施行をへて、民法の特別法として、明治32年(1899)に制定されます。その形式は、ドイツの民法のような立法主義の立場をとらずに、フランス法を模範にしたものであります。この法律は、平成18年に全面改正(平成191210日施行)されるまで、改正を重ねながら107年間にわたり、ひき続き民法の特別法として適用されてきました。

 つぎに、刑罪録の「拾い物(遺失物)」規定と現行の遺失物法とを対比していきたいとおもいます。

 民法第240条には「遺失物は、遺失物法の定めるところに従い公告をした後、3ヶ月以内にその所有者が判明しないときは、これを拾得したものがその所有権を取得する」とあります。ただし、個人情報などが記録された文書、画図、電磁的記録類は除外されています。(遺失物法第35条第2335項)

遺失物法では、遺失物(落し物)の拾得者は、速やかに拾った物件を落し主に返還するか、または警察署長に提出する義務を定めています。(遺失物法第4条) 

警察署は、遺失物の公告をして遺失者(落し主)を探し、遺失者から連絡を待つ期間を公告から3ヶ月間としています(遺失物法第7条)。しかし、3ヶ月を過ぎても遺失者が判明しなければ、提出した拾得者は所有権を得ることになります。(民法240条)

拾得物の届出の期限は、ガイドライン的に路上での拾得物が1週間以内に、百貨店や電車・バスなどの施設内での拾得物は24時間以内にといわれています。もっとも、期限内に警察や施設へ届け出なかった拾得者は、所有権の取得や報労金(お礼)をもらう権利を失います。(遺失物法第34条第2項・3項)

施設の意味は、建築物(百貨店・遊園地)、その他の施設(鉄道・バス・船舶・航空機など)のことです。管理者の常駐があり、都道府県公安委員会から指定をうけた施設をいいます。(遺失物施行規則28条)

 物件の返還をうけた遺失者は、当該価格の5%以上〜20%以下に相当する額の報労金を拾得者に支払わなければなりません。(遺失物法第28条第1項)(施設の場合は、拾得者と施設側に2.5%以上〜10%以下の額を支払ようになっています。(遺失物法第28条第2項)))

 遺失物法自体に罰則規定はありませんが。ただ拾得物を「速やかに提出・返還」する義務を怠ると、「返す意思がないと」みなされて、遺失物横領罪にとわれてしまいます。刑法第254条の「遺失物その他占有を離れた他人の物を横領した者は、1年以下の懲役又は10万円以下の罰金若しくは科料に処する」が適用をうけかねません。主に科料とは軽い刑事罰、過料は行政罰です。

 「刑罪録」の過料の罰は、銭3貫文または5貫文の罰金で比較的軽いものですが、3日以内に納付する必要がありました。(『江戸の刑罰』石井良助著)

 警察署長は提出をうけた物件の内、傘、衣類、自転車などの日常生活品、販売が広範囲の物などは、公告の日から2週間以内に、遺失者が判明しない場合は売却処分をすることができます。また、犬や猫は、1ヶ月以内に飼主から請求がなければ、動物について行使する権利を取得できます。(民法195条)

 拾得物の平成26年度統計では、多い順に、衣類、傘類、証明書、財布、有価証券となっています。

現金は、遺失届での受付金額が80億円、拾得された金額が33億円(回収率42%)。その内25億円は遺失者へ返還され(返還率31%)、拾得者へ5億円の報労金(15%)を支払、都帰属が4億円となっています。(出典:26年度中・警視庁遺失物取扱状況)

 法話に「庭に落ちた塵一つ拾っても、誰からほめてもらおうと思わず、ただ自分で気のすむことをする」とあります。私たちは、「拾ヒ物は交番に届出る」ことを、このような自然な気持で行なっているかと思います。



古文書火曜部会4月の活動

丹羽 鼎 


 火曜部会は、前月に引き続き、「御領分播州加古郡古宮組東本庄村水主清五郎忠五郎安五郎嘉藏魯西亜属嶋江漂流之処此度帰着に付吟味口書」の解読を行った。

前月解読した部分には、苦労の末、生き残りの6人(清五郎、忠五郎、安五郎、嘉藏、吉五郎、与茂吉)と途中から同行していた南部大膳太夫様御百姓五郎次の計7人が、漸く、文化9813日に、クナジリ嶋御会所へ収容されるまでが記されている。

今回読まれた19頁から最終ページまでは、その後、江戸表へ帰るまでが、記されている。

7人に対して、その後、松前御役所へ呼び出しがあり、95日に出牢し、96日に同心等四人の同行のもとに、クナシリを出立し、105日に松前御役所へ到着した。松前では特に御吟味も無く、皆を江戸表へ差し遣わす旨申し渡され、1025日に松前を出立した。松前からは、同心2人が同行し、1120日に江戸表の蝦夷地御会所へ到着した。

江戸表では、蝦夷地御会所で一度、勘定奉行曲渕甲斐守様の役宅で一度吟味を受けた後、1217日に御会所に於いて、互いの供述を突き合わせたうえで爪印を押した書類を作成した。更に、1220日には、地頭に引き渡される旨、御会所から申し渡された。

この間、クナジリの御会所では、所持品を凡て取り上げられた事、クナジリ御役所、松前御役所、江戸表蝦夷地御会所では、衣類、日用品等(現代の我々にとってはすぐには理解が不能な品々が列挙されており、会員から色々な知識が披露され、これに時間を多く要したが、結構楽しいものだった。)が支給された事等が詳細に記されており漂流民に対し、想像以上の厚い保護が為されていた事が伺われる。更に、松前御役所において、出帆以来肌身離さずに所持していた讃岐の金毘羅及び出雲の三保大明神の札納めを行った事、この口書の月日は、出帆以来の日数を追って当て嵌めたものである事が記されている。

又、最終の部分には、当時御法度であった切支丹への転向の恐れについて、髪、月代を変えることなく神仏を信仰しているので、そのような事は一切ない旨記されている。

表題に『口書』と記されている通り、この文書は、当事者の申し立てを筆記した供述書であるが、最終の切支丹等への転向の有無に関する項は、書き出しが「其方共儀・・」との問い掛けで始まっており、これに答える形の供述が記されている点、当時の切支丹御法度に関する厳しい吟味の様子が伺われる。

この文書の解読は、今月で終了した。内容も、文化71810)年11月から同91812)年12月までの21ヶ月に亘る日付を追ったドラマティックな記録であり、折に触れてのベテラン会員からの解説或いは資料の提供が為されたことや司会者の適切なリードの御蔭で、筆者のような初心者にも楽しい解読であった。

次回からは、新しい文書「嘉永安政記録」に、取り組む予定になっている。

想定される一行の経路

想定される一行の経路

―古文書火曜部会で配布された資料より

<江戸時代の水運>

元禄時代に入り、江戸の物資消費量が増大すると、天下の台所大坂からの廻船は大型化し、元禄年間は350石積が主力になった。一本の帆柱を持つ和船であったが、帆はむしろ帆から木綿帆になり、逆風走行も可能になった。少ない船員での航行を実現し運賃の引き下げに貢献した。やがてさらに大型化し、千石積級が一般的になって、積荷は洒・油・砂糖・鰹節・薬種・木綿などの生活物資が主体であった。

初期は菱垣廻船が一般的だったが、正保年間(164447)に、大坂の伝法船が伊丹の酒を江戸に送る商売を始め、万治元年(1658)には伝法船の船問屋が出来た。酒は腐るのが早く速さを重視した。

酒樽は重量があるので下積みとし、上に荒荷(雑貨物)を乗せた。酒樽は大きさを四斗樽に統一したので積み込みが速く300400石積の船なら仕立てに日数がかからない上に船足が速いので「小早」と呼ばれた。これが次第に発達して樽廻船と呼ばれるようになった。

ある資料によれば元禄13年から15年(170002)までの3年間に江戸に入津した廻船は約1300、一年間に15往復すると仮定すれば、約260の廻船が営業していたことになる。

船(船)問屋港にあって荷物をまとめ廻船を手配した。

沖船頭    船を持っていないが、廻船に乗り込み船長として実務についた

直乗り船頭船 :船主が船頭として乗り込む。

水主(かこ) :船乗り、水夫

17世紀以降のロシアのシベリア進出に対する日本の状況>

田沼時代(1767~8610代将軍家治に重用され、老中として幕政に実権を握る。

従来の緊縮政策を捨て、商業資本の積極的利用を図り、貿易振興、蝦夷地開発・印旛沼手賀沼干拓・専売制拡大などを策した。が、賄賂政治に走り不評をかい、折しも江戸目黒・行人坂の大火、浅間山の大噴火、天明の大飢饉などで世情不安が高まり、家治の死とともに失脚。

1781 工藤平助著「赤蝦夷風説考」、ロシア貿易の開始と蝦夷地閉発の必要を説き、田沼意次に献策。

1786 最上徳内(32歳)千島・ウルップ島探検 田沼意次の命 以後数回蝦夷地を探検。

1791 林子平著「海国兵談」ロシアの南下を警告し、海防論を展開。軍備・戦術を図解説明するも、とがめられ、版木没収さる。 ・・・井上靖著「おろしや国酔夢譚」(1968

1799 ロシアの接近に伴い幕府は松前薯から蝦夷地を取り上げ、直轄支配。函館奉行を設置。

1799 高田屋嘉兵衛、択捉航路を開拓し同島に漁場を設置。

1811 ゴローニン事件。国後島に上陸したロシア海軍の測量士ゴローニンを捕える。

1812 田屋嘉兵衛、択捉島槍の帰途、ロシアにとらわれる。翌年、ゴローニンと交換に釈放される。

(東 日出夫)


各部会活動・5月の予定

会員は下記6部会のどれにも参加できます。初めての参加の時には部会の担当者に連絡して下さい。

部会と集まり 担当

@古文書解読日曜部会(第2日曜)

510(日)

1300

我孫子北近隣センター
並木本館第1会議室

山崎 章蔵

テキスト 井上家文書 「刑罪録」

A古文書解読火曜部会(第3火曜)

519(火)

1300

柴崎神社参集殿

日出夫

テキスト 兵庫県播磨町小林氏所蔵文書「嘉永安政記録」

B歴史部会 研究講座(第4日曜)

「明治維新と村の神々」飯白和子会員

524日(日)

1330

我孫子北近隣センター

並木本館第3会議室

関口 一郎

C合同部会 (第3土曜)

大杉さまの話を聞く

516土)

1330

我孫子北近隣センターつくし野館会議室3

中澤 雅夫

D歴史探訪部会p2参照下さい)
「相馬霊場札所参り7」
(参加費200円、保険、資料代含)

513(水)

940

我孫子駅」北口階段下近辺

荒井 茂男

E井上家文書研究部会(第2土曜)

5 9(土)

1330

我孫子北近隣センター
並木本館第2会議

品田 制子

5月度運営委(年度計画)

523(土)

940

市民活動St.

岡本 和男































事務局便り

会費納入のお願い

27年度会費(年2,000円)の納入をお願いしています。

まだの方はお早めに郵便振替(口座番号001702559172、用紙は前号に封入しています)で送金して下さるか、運営委員にお渡し下さい。ご都合で退会をご希望の方は、その旨を事務局あてご連絡下さい。

新入会員紹介3月より)

小泉 孝さん 茨城県竜ケ崎市

 どうぞよろしく。

<本の寄贈を受けました>

再び柳町孝直会員から、同氏が代表を務めている敬文舎が発刊した「私の最新講義シリーズ」として、最新刊の次の2つの書籍を寄贈してくださいました。このシリーズの刊行のたびに、寄贈を受けております。深く感謝申し上げます。ご希望の方に貸出しいたします。事務局へ連絡ください。

・『「生きること」の歴史学−徳川日本のくらしとこころ−』 倉地 克直 2015/3/15発行

・『幕末の武士道−「開国」に問う−』 小池 喜明 2015/4/10発行


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