平成27年2月28日発行   我孫子市史研究センター会報   第156号  通算463号
  編集:編集委員会 

歴史講演会「我孫子の城館跡あれこれ」を聴いて

白神 正光 

1.はじめに

21日(日)の佐脇敬一郎先生の我孫子市教育委員会・我孫子市史研究センター共催の歴史講演会は雪の心配もなく好天に恵まれました。副市長のご挨拶では以前60箇所もの城を訪れたとのお話があり驚かされました。

講演ではそれぞれの城跡について、城郭構造(空中写真、実踏)、伝承、文献、古文書、時代背景(特に戦闘の有無)の分析による築城年代、目的の検討状況が説明されました。

他の地域の類似の構造の城との比較から築城の時代を推測すること、我孫子城の例のように同時代の複数の城全体で戦闘に当たったと考えること、それら城群の中での重要度の分析(どれが拠点的か)など、特に興味深く伺いました。

中峠城はじめ多くの映像を使っての説明では、城跡をどのように観察すれば良いか勉強になりました。

2.講演の概要

講演は「我孫子中世城跡再考」と「幕末の布佐陣屋と中峠城跡」の2部構成でした。中世の城館跡では布佐竜崖城・和田城・中峠城・我孫子城・柴崎城・法華坊・根戸城・御蔵屋敷についての分析が説明されました。幕末では布佐陣屋の他、中峠城跡への構築の計画があったとの指摘がありました。

(1) 布佐城

2箇所の布佐城のうち布佐城(龍崖城)は河川隣接低地の立地であるとし、小貝川に隣接する常陸小栗御殿・吉井川に面する備前福岡城、相模川東岸の城条城との比較が写真を使用して説明されました。和田城は空中写真や『東国闘戦見聞私記』の分析から布川城の出城として機能していたと推測されていました。和田城の範囲は従来考えていた範囲を大きく超えるものでした。

(2) 中峠城

中峠城は遺構の規模だけでなく伝承が残る範囲の広さから、地域を支配するための拠点となる城であったと考察されています。城跡の概念図と写真を対比して説明されました。

(3) 我孫子城とその東西の城群

我孫子城は単独で考えるのではなく西側の柴崎城と東側の根戸城をはじめとする城群(法華坊館・根戸城・御蔵屋敷・松ヶ崎城)を含めて、当時の情勢から、その性格を考えることが必要とのことでした。

(4) 布佐陣屋

幕末のこの陣屋の位置付けが説明されました。この時期の陣屋の遺構がこれだけ残っているのは数少なく、貴重であるとの評価でした。この陣屋について書かれたものが少ないとのこと。

千葉県教育振興財団は県内の陣屋の全数調査を行い100箇所の陣屋を調べています。その調査報告『研究紀要 28』「房総における近世陣屋」を見てみてもP44の布佐陣屋の記載は数行の概要のみでした。

(5) 中峠城跡の陣屋への再利用

旗本朝倉氏の居住を目的とした陣屋ではなく布佐陣屋の補強か交通路を押さえるためのものであったと佐脇先生は推定しています。また、戦国時代とは城郭の使用方法が異なり、銃などの軍事訓練のため平坦な広いスペースが必要になり、城跡を改修しようとしたのではないかとのことです。

以上を図にまとめてみます

3.その他のトピックス

講演の冒頭、『我孫子市史 原始・古代・中世篇』が編纂された十数年前との比べ、パーソナルコンピュータ(PC)の記憶装置の容量が1,000倍になった感があるとお話されていました。枚数を気にせず撮影できるデジタルカメラの普及など情報機器の進歩もあり、研究環境が格段に向上したそうです。佐脇先生のPCのデータベースには古記録や古文書から判明した多くの戦の年月日が集積されていました。それと伝承や戦記物の年代と比較してこれらの信憑性を判断することや、何の戦闘の時に設けられた遺構かを推定するのに役立てていらっしゃるそうです。 

『東国闘戦見聞私記』【注】について、「史料的な価値は極めて低い。・・・正確な記述が載る史料や残存する城跡を、あわせて検討することで、記載されている合戦等の真相に迫ることができるのではないだろうか」として、確かな記録に乏しいこの地域の史実を探る手段にしようと試みられています。

『我孫子市史研究 第5号』(昭和56(1981))所収の「中世史論集」では当時の会員が、『東国闘戦見聞私記』は史実とは異なるとの前提に立った上で、地域の伝承と総合して考え、史実の探究の手がかりにならないかと模索している様子が伺えます。

現在の会員の私たちも一度見直す価値がありそうです。

4.おわりに

今回の佐脇先生の講演は、かつて我孫子にあった城館や陣屋についての研究成果を説明頂くだけではありませんでした。城跡をどのように観察すれば良いか、どう調べればよいのかなどアプローチの仕方についても披露して頂き、とても意義深いものでした。城郭史に対する真摯な研究姿勢や熱意が講演の端々に感じられました。

また、三谷和夫会員の書簡による質問に丁寧に返事を頂いたということで同会員が講演開始前に控室を訪れ懇談するなど、気さくなお人柄が伺えました。今後とも我孫子の城館跡について、意見交換したり、ご研究の成果をご披露頂ける機会があれば大変ありがたいと思います。

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【注】

『東国闘戦見聞私記』は明治40年(1907)に茨城県石下町の石陽社から出版されました(皆川広照著、大道寺友山著、吉原格斎校訂)。その後、明治43年に、茨城日報社が再版、昭和48年(1973)に崙書房、平成9年(1997)に常野文献社からそれぞれ復刻されています。

皆川広照(天文17(1548)〜寛永4(1627))は下野皆川城主で、所領は戦国時代に対立する強力な武将たちの前線に位置しており、何度もの戦を経験しています。後北条氏に下った後、小田原城攻めでは投降して所領を安堵され徳川家康により松平忠輝の補佐役に任じられ、さらに家光に仕えます。拠点の皆川城から転封され信濃飯山城主となり、家康の勘気を受け除封処分を受けたのち、許され常陸府中城の城主となります。したたかに80歳まで生き抜いた波乱の生涯でした。

この皆川城(ほらがい城)には平成25年(201310月の当会の歴史深訪「小江戸 栃木への旅」で、訪れた人も多いと思います(会報第140号)。栃木の町の基礎を築いたのも広照でした。

友山大道寺重佑(寛永16(1639)〜享保15(1730))は兵法家。父繁久は慶長7年幕命により忠輝に仕えました。重佑は江戸で山鹿素行らに兵法を学んだ後、三次浅野家、会津公に、軍学を教え、後に福井藩に召し抱えられます。隠居の後、92歳で没。武士道の入門書として著名な『武道初心集』、家康を中心とした伝記『落穂集』などの著書があります。

この2人が著者となっていますが、上記のように広照が没してから12年後に友山が生まれています。

凡例には2人の著作を後年、神田貞興が整理して全40巻にした、と書かれています。享保頃、大名旗本の諸家に招かれて軍書を読み、武士道の鼓舞に努めた」といわれています。

校訂者の格斎吉原精一は明治14年(1881)、石下町に生れ二松学舎で学んだ後、帰郷。母方の祖父の蔵書であった本書を世に出すことを考え、26歳の時に校訂、550余名の協賛者を募り出版します。昭和14年(1939)没、58歳。同家は本書にも出てくる吉原氏の末裔とされています。同氏は本書の内容は往々にして荒唐な記述もあると凡例で断っています。また、同氏は下記『相馬霊場案内』の編者でもあります。

・吉原格斎編 『相馬霊場案内』発行 吉原精一 112頁 大正4年(1915)大売捌所 取手片町 取手仲町

・吉原格斎編『相馬霊場案内』発行 吉原精一  116頁 大正5年(1916)大売捌所 大鹿山長禅寺境内

これらには霊場案内だけでなく「現勢一班」(町の概要)、交通機関、名所案内、著名人も書かれています。また、旅館、銀行、商店等多くの広告が掲載されていて当時の様子を知る参考になります。例えば大正4年の改訂版の最初のページには花野井醤油の吉田甚左衛門の全面広告、最終ページには野田醤油の連名の広告があります。両書とも国立国会図書館によりデジタル化されておりWEB上で参照できます。


歴史探訪部会2月の活動

長谷川 秀也

2月は部会活動休み。

○役員会

日時 213日 14:0016:00
場所 あびこ市民活動ステーション
*全員出席のもと、平成26年度活動総括と平成27年度事業計画を協議しました。

@26年度活動
・相馬霊場参り         3
・探訪                      3      (バス 2回、電車 1回)
・座学                      3
・史跡見学会企画・運営 1

A26年度会計

B平成27年度活動予定
・奇数月第二週水曜日、偶数月第二週金曜日

〇平成27年度の予定

410日(金)探訪 我孫子市の白樺派の足跡を訪ねる

513日(水)探訪 相馬霊場参り その7

612日(金)探訪 芝山不動尊、飯高寺(壇林跡、匝瑳市)を訪ねる

7月 8日(水)座学 未定

8      休会

9月 9日(水)探訪 守谷市・将門ゆかりの地を訪ねる

10 (未定)日   市史研主催史跡見学会

1111日(水)探訪 府中市

1211日(金)探訪 相馬霊場参り その8

平成28

113日(水)座学 志賀作品にみる我孫子

2      休会

3 9日(水)探訪 相馬霊場参り その9

注)探訪、座学の詳細は活動日前月会報に掲載します。

○平成27311日活動(次頁詳細参照)

・探訪 相馬霊場の札所参り−6
・集合場所 天王台駅北口階段下近辺
・集合時間 930

*我孫子市のメインストリ−トを歩きます。交通量はいつもより多いので注意して下さい。


―『新四国相馬霊場八十八ヶ所を訪ねる』出版記念―

歴史探訪部会主催 相馬霊場の札所参り 

JR常磐線 天王台駅」〜高野山〜寿〜緑〜白山〜「JR常磐線 我孫子駅

日 時:3月11日(水) 09:30

集 合:JR常磐線「天王台駅」北口階段下近辺

参加費:200円(保険代、資料代など)

申込み:早めにお願いします                           メール:長谷川秀也 sakts@jcom.home.ne.jp

                                                                        TEL&FAX:荒井茂男 04-7182-2838

【行程 −下図□で囲ったところ−】

JR常磐線天王台駅を出発

→ 27番 高野山 最勝院 → 38番 寿 子之神大黒天・43番 延寿院

→ 42番  大光寺 → 59番 白山 興陽寺   →JR常磐線我孫子駅着

歩行距離:約4.5km

今回は、次回の行程との関係で、距離的にも時間的にもこれまでに比べて短いです。その代わりというわけではないですが、次回は長くなります。

参照:『新四国相馬霊場八十八ヶ所を訪ねる』.130〜p.143

歴史探訪札所参り6案内図



古文書火曜部会2月の活動

中嶋 正義

1月部会は、午・文化7年(18101122日大坂表を出帆、漂流後、翌未(1811)閏27日夜、磯へ上陸、閏226日の日暮頃、現地の住人・役人と接触したところ迄。今回は、その続きの翌申(18127月までの口書となる。

<漂着後の未・文化8年閏29日現在、乗組員16名の状況> 

久五郎と善太郎死去、清五郎・忠五郎・安五郎・嘉蔵・与茂吉・和吉・武兵衛・久蔵・吉五郎9名同一行動、平助・権七・常五郎・新次郎・与次郎5人戻らず。

1.閏226日、忠五郎・安五郎・与茂吉・吉五郎の4名は浜辺から20里程のニヅノエカミシヤアツカ着。役所と思しき所に呼び出された(他5名は磯近くに残留)。役人らしき145人は漂流の様子を尋ねるも言語不明。お互いに身ぶりで分かった様子。玄米三升くれた。

2.翌27日、漂流の様子を役人が地頭に伝え、承知致した様子。甚だ憐み麦焼団子・茶など馳走有り。その後、4人は、同村の商宅へ。その夜、吉五郎は役人・足軽同道にて、去る11日磯近くに残る清五郎・嘉蔵・和吉・武兵衛・久蔵の5人を迎えに行く。

3.その5人は11日から少しずつ歩むも和吉・武兵衛は死去。残りの3人は31日、出迎えの者の介抱を受け役人より食物等を貰う。26日目に初めて食事。9日まで同所にいた。手厚い世話有り。同12日同所立ち、カミシヤアツカの役人方へ着く。ここに45日いた。

4.忠五郎始め先発の4人は商人方に45日いて32日同村の別の商人方へ行く。殊の外厚い世話有り。

5.後より来た清五郎始め3人は316日、先の役人方から4人のいる商人方へ行く。9月晦日迄一緒にいた。(7人揃った)

6920日頃、役人が来て、麦積み船が破損し食物等も少ないので、7人の内4人は肴の沢山有るヤルカハへ行けという。清五郎・安五郎・久蔵・吉五郎4人は、101日右商人方を出立。里数150里ほどのヤルカハへ犬ソリで行く。宿々でソリを乗替え、ヤルカハへ同28日に着き町人方に逗留。翌申・文化9年(18123月中までいた。

7.カミシヤアツカに残った人3人忠五郎・嘉蔵・与茂吉も翌申・文化9年(181233日同所出立。同19日右ヤルカハ着。(七人一同に揃った)

8.翌日20日、一同ヤルカハを出立。里数五十里ほどのガアワンという湊へソリで行く。ここの地頭の世話で足軽長屋らしき所に逗留。

9.ガアワンに416日までいて、翌17日船でヲホツカへ。ここ迄300里ほど。ヲホツカより10里ほど手前は氷一面にて着岸難しく暫く沖にいたが氷少々解け、漸く528日に着岸。ここは食事も有り、銭100文ずつ貰い、食物等調え、残った分集め置き襦袢等揃えた。鮭、鱒、牛肉、麦焼など食物は豊富。

10.ここに南部大膳太夫様御百姓五郎次なる者がいた。去る卯年・文化4年(1807)蝦夷地へのロシア人乱入の節、かの地で捕われていた。私共もここに622日まで一緒にいた。

116238人ともロシア船へ同船する指示有り。久蔵は足が腐ったので船長が乗船させず、やむなく残した。私始めその他7人同25日ヲホツカを出帆。海上蝦夷地まで凡そ400里ほど。五郎次はかの地に暫くいたので、様子を船中にてかれこれ見聞き等した。船の様子と用意の鉄砲は大体次の通り。

船:長さ153尺、深さ22尺、帆数36
橋船4艘 鎗40筋 大筒14挺 鑓付鉄砲100挺 15匁筒50筒挺 種子島50挺 袖筒10挺 ズク筒6挺 

右鉄砲を蝦夷地クナジリ付近で玉薬等筒詰めした。大筒火縄等小筒は燧を仕かけた。 

12.ヲホツカより100里ほどの沖にイヲヲという小島有り。霧深し。トトウなるもの数多くいて啼いていた。720日蝦夷地エトロフ島の鼻へ行くも霧深くて見えず。暫く沖にいた。


井上家文書研究部会2月の活動

長谷川


(1)214日の「井上家文書研究部会」では、先月の勉強会で配布された下記28点:

1)文書番号1860AG 宝暦3酉年佐治兵衛が代官所宛に出した出入関係の諸状等7点、及び

2)文書番号699 宝暦3酉年3月の相島新田における「宗門人別村中御改書上帳」1点が解読・解題の対象として採り上げられた。

今回も金成会員が、上記文書2)だけでなく、元文3年〜宝暦3年間の宗門人別帳11点をもとに「井上家文書 相嶋新田宗門人別に見る井上家家族の推移」と題する表を事前に作成、コピーを席上配布し、解読終了後同表に示されたいくつかの新知見についての詳細説明は大変興味深かっただけでなく、上記文書2)の解読も引き受け品田講師を助けた。

(2)まず、上記文書17点に関しては、講師からの指示があり

AGFEDCB の順序に解読が進行した。冒頭の1860Aは、走り書きのメモ様のものでしかも癖字とあっては、極めて難読、講師の懇切なご説明がなければ、殆ど読み解けない難物であった。A以外の諸状に記載された出入は、佐治兵衛が布佐村に持添所有する「原地新田」弐反五畝歩(文書番号339:昨年11月勉強会のテキスト:寛延4年未2月)に関わりがある。

文書の形式から判別すれば、文書F及びG(訴状)で、佐治兵衛が、布佐村名主又左衛門及び組頭治右衛門を相手に、「原地御年貢出入」として、両村の支配代官所に訴え出たのが始まりで、文書B(済口證文)を取り交わすことで和談内済が成立している。

同文書では、両当事者以外に、延命寺以下五名の扱人も記名押印した形になっている。なお、文書Cによれば、別件「両名主三ヶ年之出入」も済口に達したという。また、文書CDEは、支配代官所へのお願いの形で行われた中間手続きに当たる。

他方、上記文書2)の宗門人別帳には、先月の勉強会で急遽紹介された『堤根腹付屋敷』(文書番号1152:寛延4年未7月)とも符合する記述として、同帳末に、「下総国六軒生国三ヶ年以前引越シ申候」という百姓4名が、『屋敷地持』として名を連ねているのがわかる。

(3)今回新たに配布された、下記の2点:

a)文書番号1205 宝暦3年酉8月の「當酉田方立毛内見帳」(三河屋新田)、及び

b)文書番号1292 宝暦3年酉2月の「覚」(手賀沼廻り村々)の文書は、先月配布で今回未読の下記の2点:

c)文書番号846 宝暦4年戌10月の「乍恐書付を以御訴訟奉申上候」、及び

d)文書番号1606 宝暦3年酉3月の「乍恐以書付奉御訴候」の文書(これらも『堤根腹付屋敷』関連)と共に、来る3月以降の部会で解読・解題される予定である。


井上基家文書の研究

質地証文 その15

清水 紀夫

(8)契約保障の文言について

さて、サンプル文書の確認作業も今回が最後。最後の一条はいわゆる証文内容を保証する文である。対象となる文言を今回は現代語訳で記す。*1

「この質入れの土地に関して、親類・縁者はいうまでもなく、その他にも苦情・不服を言い立てる者は全然おりません。もしやっかいなことを言い出す者がおりましたら、加判の者達がどこまでも出向いていって、しっかりと弁明いたし、あなた様に面倒をかけるようなことは決して致しません」である。

前回参考にした井上基家文書中にこの一文のない質地証文は見当たらない。おおよそ似かよった文句であるが必ず書かれている。

証文はこの後、書止め文言、日付、地主・証人等の連署・加印と続く。この契約保証は、幕府や領主でなく、あくまでも村が保証(=公証)するものであったが*2、この村役人による公証は、「村」が成立し、しだいに幕府の統治機構の中に組み込まれ村役人が領主行政の一部を担うまでに成長した17世紀後半ごろ出始めたとのことである*3

ここで、「加判之者」3人について見ておかなければならない。廣右衛門同様(その8で言及)資料が残っていないが、前出の宝暦十三年(1763)の「布佐村 村鑑明細書上帳写之写」には、不動院は東山方山伏真言宗大乗院の山伏とある*4。又左衛門、治右衛門もそれぞれ名主、組頭として名を連ねている*5。また又左衛門は、他の質地証文にも連署・加印しているとともに*6、元文三年(1738)には竹袋村木下川岸・七郎左衛門と*7、宝暦三年(1753)に佐治兵衛との間で*8、訴訟を起こしていた。

すでに述べたように、寛文六年(1666)の幕府令で名主等の加判が義務づけられ、その旨が『地方凡例録』などにも載っているのであるが(その5で言及)、この証文への連署・加印はどんな性格のものであったのだろうか。現代の連帯保証の意味で捉えがちだが、どうも違うようだ。その違いが明確にわかる事例を以下に示しておこう*10

それは明治九年二月、相模国大住郡上粕屋村の豪農・山口左七郎のケースである。彼はある農民の書入れ証文に村長として連署したが、その農民は借金が返せず身代限りの処分となってしまう。その債務の返済が彼に回ってきたのである。左七郎は、

私の加判は「里長が、担保の土地が借主の所有地であることを証する」という従来の地方の慣行に則っただけのもの、よって弁済義務はないと主張。債権者との争いは訴訟に発展、大審院までいくも和解が成立し、結果は彼の主張が通った形で返済せずにすんだというものであった。

近代の「返済の連帯保証人」と近世以来の「里長の職務(公証)」とが真っ向から対立した一件であった。確かに今回の文言中にも「何方?茂罷出急度申訳ヶ仕」(原文)までしか書かれていない。

注)

*1 原文はその1参照のこと。

*2 渡辺尚志『近世百姓の底力―村からみた江戸時代』敬文舎、2013.1136頁。

*3 『土地所有史』(前掲)248

*4 『我孫子市史資料 近世篇T』(前掲)118頁。

*5 前掲122頁。

*6 たとえば、井上基家文書No.63-A63-B468469470

*7 正徳六年の「布佐村御裁許書写」(『我孫子市史資料 近世篇V』我孫子市教育委員会、1994.3所収)

*8 井上基家文書No.1860-B『内済為取替證文之事』をはじめとして関連文書はNo.1860-B,D,G

*9 その3の表中参照。

*10 渡辺尚志『村から見た近世』校倉書房、2010.91036頁による。




 
     合同部会2月の活動 2015.2/21(土)

中澤 雅夫

 

出席者12

配付資料:

(1)「お寺めぐりの見どころと楽しみ方のひとつ」(修正版、吉田茂寿さん作成)

(2)「新四国相馬霊場八十八ヶ所」の話 その2(2/14ガイドクラブ説明用、付:@弘法大師伝承、伝説、A千葉県の新四国霊場)

「お寺めぐりの見どころと楽しみ方」

1月の部会で吉田さんより提出された会報用標記原稿について、文中で採り上げられた新四国相馬霊場の寺院や大師堂の写真があった方がいいとの意見があり、同氏より写真を入れた修正原稿が提出された(e-mail使用の部会員には事前に送信済み)。写真説明で札所番号が入っていない所を入れて、会報に掲載してもらうこととなった。

40周年記念誌への原稿

未提出の人、文章要短縮の人は2月中に提出方、記念誌編集委員会からの要請を伝えた。

3.歴史探訪部会から用紙提供

標記部会が主催する「札所めぐり」に当部会から資料を用意してきたことに鑑み、同部会からA3、A4の用紙を各1000枚、当部会に寄贈するとの申し出があり、有り難く頂戴することとなった。

なお、同部会では、27年度、28年度とも、それぞれ3回ずつ札所めぐりを行いたいとのことであった。27年度の2回目から入る取手市内の札所めぐりには近江さんと吉田茂寿さんに大いにお世話になる。

4.部会費用収支−実績と予算

321日(土)は「春分の日」(彼岸の中日)でお寺は墓参の方に迷惑をかけるので、天照神社とその近辺の調査を検討することとなった。

5.3月以降の社寺調査

当初決定の調査順位に従って逐次実施していく方がやりやすい、年度間の月別調査予定を決めておいた方がよい、などの意見を踏まえ、3月、4月は柴崎地区を現地調査することとなった。ただし、3月はお彼岸の中日に当たるので寺院は避け、柴崎神社などを訪れることとした。

6.3月の予定

321日(土)1330 JR常磐線天王台駅北口集合
 柴崎神社、石尊宮、首天神(天満宮)

お寺めぐりの
見どころと楽しみ方のひとつ

合同部会 吉田茂寿

1.        概要

お寺巡りの「見どころ」について、種々あると思われるが、とくに「装飾彫刻」と「仏像」の2点に大いなる魅力と興味を持つ。本稿では、「四国霊場遍路」、「秩父観音巡礼」および「西国観音巡礼」を通じて、彫刻につき考察してみる。

寺院や堂宇の建築カテゴリーとしては、外観上の寺院や堂宇の建築カテゴリーとしては、外観上の特徴や差異に比べて、極めて細部に属する@木鼻、A虹梁、B?老虹梁、C蟇股、D斗?、E破風の6点の装飾彫刻に焦点を当てる。それらを「郷土地域」や「相馬霊場」の寺院、堂宇、堂塔などと比較して、どうなのか概括してみる。

目視評価する目は、四国遍2回、秩父巡礼4回に依る。それに、西国巡礼半回は、西国17番札所の六波羅蜜寺までで、来る39日から残り33番華厳寺まで打ち、結願の予定だ。加えて、今年3回目の「四国遍路」と「坂東観音巡礼」を巡拝する計画なり。それに依り、少しでも普遍的かつ実用的な結論を導きたい。

2.        お寺の建築様式と四国、西国、秩父霊場

寺院、堂宇の建築様式は、その時代や宗派によって異なるのが普通で、古い順に「和様」、「大仏様」、「禅宗様」、「折衷様」の4種類に分けられる。建築様式については、本稿の主たる目的ではないので省略する。

ここで、四国と西国に関し歴史的背景について見てみる。

西国観音霊場は日本最古の巡礼で、約1300年の歴史がある。飛鳥、奈良時代の大宝年間(701707)や天平年間(729748)に創建された寺院が多い。その範囲は、京都、奈良、大阪、兵庫、和歌山、滋賀、岐阜の関西2府5県に点在する。

また、四国霊場は平安時代で1,200年前すなわち大同年間(806810)、弘仁年間(810823に開基された寺院が大部分だ。しかし、戦国時代の天正年間15731592に兵火によって焼失し、その後、江戸時代の初期に再建された寺院も少なくない。したがって、前述した堂宇の建築部位の装飾彫刻など、正確に復元されているか、別物になっているか定かではない。これを追求しても余り意味のない事だ。

一方、相馬霊場は、観覚光音禅師が明和年間17641771)から安永年間(17721780)に、四国八十八ヶ所の「砂」を持ち帰り開基したと伝えられている。

3.        四国、西国、秩父と相馬霊場の彫刻比較

必ずしも堂宇に装飾彫刻があるわけではない。ところが、今から1,300前の西国にしても、1,200年前の四国にしても、本堂、大師堂、他の堂宇などに装飾彫刻があるのが一般的だ。しかも、ほとんどの「神獣」の彫刻が、大胆で、奇抜で、独創的で、「人の心を打つ」「何か」がある。その当時、龍や獅子や獏などの神獣は、全て想像上の動物であり、彫刻師や建築師はそれらを見た事がなかったと思われる。従って、各彫刻師が自由闊達に想像をめぐらせて、定説のない彫刻を施したとすれば、その創作に如何なる夢やロマンスがあった事かと思わざるを得ない。

四国62番 宝寿寺

四国65番 三角寺

四国43番 明石寺

他方、江戸時代中期開創の相馬霊場は、神獣がたとえ想像上の動物であっても、900年近くの時間差があるので、ある程度、情報が固定化され、統一化され、一般化されて、ほぼ共通の装飾彫刻になったとしても不思議は無い。従って、画一化され、独自性が無く、新鮮味に欠けるのも仕方の無い話だ。故に、一般の地蔵堂、薬師堂、観音堂、不動堂及び大師堂などの堂宇で、木鼻の左右が「獏」で、木鼻の前面が「獅子」で、虹梁が「龍」で、破風が「鳳凰」という組合せの装飾彫刻が、その質にも依るが、最も整っているものと評価されそうだ。中には、木鼻の左右が簡単な「獏」や「象」の彫刻で、「蟇股」を配置する単純な堂宇も珍しくない。

4.        相馬霊場の独創的装飾彫刻群

相馬霊場でも、本堂、大師堂、他の堂宇で標準的、画一的でなく、比較的独創的彫刻群もあるので、それを列挙する。

(1)      弘経寺・英霊観音堂の木鼻の左右・前面に巻きついた龍、虹梁で正面を向いた龍の彫刻がある。一宇に立体的な3体の龍は、四国、西国、秩父でも、1ヵ寺として見た事が無い。

82番札所 弘経寺・英霊観音堂 虹梁・木鼻全景

弘経寺 英霊観音堂 虹梁上の龍

弘経寺 英霊観音堂 木鼻の龍

(2)      長禅寺・観音堂の木鼻左右の象、木鼻前面の獅子、虹梁に龍の彫刻がある。龍は右向きで彩色され、立体感があり、実に個性的な装飾彫刻と言える。

1、5、88番 長禅寺・観音堂 虹梁と木鼻の龍、象、獅子

長禅寺・観音堂 虹梁背面 表と合わせ立体的な彫刻

(3)      東漸寺・観音堂の木鼻左右の象、木鼻前面の獅子は、いずれも朱色で江戸時代の彫刻ではなく、室町時代の作と判別出来る。

東漸寺・観音堂 木鼻の象と獅子

(4)      本泉寺・本堂の木鼻左右の獏、木鼻前面の獏、虹梁の理解し難い彫刻は、奇抜で、独創的だ。

本泉寺本堂 虹梁の龍

(5)      龍禅寺・本堂の木鼻左右の獏、木鼻前後の獅子、そして虹梁の蟇股には、単純であるが、味がある。

龍禅寺本堂 木鼻の獏と獅子

これらの文化的、芸術的価値は、理解し難いが、素人目にも規格化されていない独創的な装飾彫刻の一端を覗くことができる。


5.       
結論

四国霊場、西国霊場の装飾彫刻群の偉大さは、良く理解できる。江戸中期以降の相馬霊場の堂宇、すなわち、四国霊場「写し寺」の装飾彫刻は、独創的な発想のものは少ない。寺院や堂宇の境内に置かせて頂いた「写し寺」の大師堂単体に、期待的彫刻類を求めるのは無理な話だ。だが、相馬霊場の堂宇を探訪、散策する際に、木鼻、虹梁、?老虹梁、蟇股、斗?、破風などの装飾彫刻に関心や興味を持ち、「心の中で」自分なりの歴史的位置付けや価値付けをしながら、霊場めぐり、お寺めぐりを行えば、新しい人生発見の一つの着眼点になろう。

−参考−

斗?(ときょう)、〔斗組み・枡組〕(ますぐみ)

柱の上にあって、斗や肘木(ひじき、上方の荷重を支えるための横木。腕木。)を組合せて軒を支える装置。

虹梁(こうりょう)

柱と柱の間に渡す梁(はり)の一種。その下には眉を欠き、左右の柱に接する近くに袖切り(そできり)を付ける。
曲がったものを蝦(えび)虹梁という。

眉=虹梁、破風などの下の方のくり方。

木鼻(きばな)

建築で、頭貫(かしらぬき)などの先端が柱の外に突き出している部分。
頭貫=柱の上部をつなぐ横木。

破風(はふ)

日本建築で、屋根の切妻の所にある合掌形の板。母屋桁(もやげた)の端を隠し、装飾とするもので、その位置・形状によって種々の名称がある(切妻破風など)。

蟇股(かえるまた)

古代建築で、一つの横木の上にあって他の横木を受けさせるための桁と桁との間の支え。下方がカエルの股を広げた様子に似ているところからの名。
後には構造上の実用を離れ、単なる装飾となる。時代とともに形式や装飾に変化を生じた。

中里薬師堂

薬師三尊と十二神将の修復

中澤 雅夫

市史研では、昨年に続き本年も211日の中里薬師堂開帳供養の案内状を頂き、20名程が参拝した。

中里薬師堂は、JR成田線湖北駅北口から線路に沿って新木方面に少し行き、踏切の所を左折すると左側にある。

ここは現在中里公会堂の敷地となっているが、元は旧宝蔵院(昭和41年廃院、真言宗)で、薬師堂は同院のお堂であった。現在の建物は昭和45年頃に改築されたものである。

ここに安置されているのは薬師三尊像(薬師如来、日光菩薩、月光菩薩)と十二神将で、平成18年(20063月に我孫子市有形文化財に指定された。毎年211日に龍泉寺住職により開帳供養が行われる。なお、龍泉寺は中峠にあり、新四国相馬霊場76番札所がある。

このお堂に安置されている十二神将像は、江戸時代半ば過ぎから定型化する形であるところから、江戸後期の制作と推定されている。また、我孫子市内で十二神将が12体揃っているのはここだけの由である。

この薬師三尊像と十二神将像は地域の人々に深く信仰され、管理されてきたが、長い年月のため損傷が激しくなり、このほど5年がかりで修復することとなった旨、地元より表明され、129日付朝日新聞千葉東葛版でも報じられた。

表明文『中里薬師堂 薬師三尊・十二神将修復について』の概要(抄録):

「(前略)このまま放置致しますと、数年でお姿が消滅してしまいます。(中略)市のご支援の下五年の歳月をかけ修復することになり、このほど財政措置も決まりました。中里区と致しましても市と協力をしこの事業を完遂すべく、支援体制を作るため中里薬師堂奉賛会の組織を発足させ、募金活動とイベントの開催などを行う事と致しました。次の世代への貴重な遺産を継承すべく全力を挙げ運営に邁進いたす所存です。何卒よろしくご協力、ご支援のほどお願い申し上げますと共に、ご報告させていただきます。(後略)

 平成二十七年一月吉日

         中里区薬師堂奉賛会 会長 小池正夫 」


中里薬師堂の薬師三尊像と十二神将像(「中里区薬師堂奉賛会」表明文より)


歴史部会『字誌』1月の活動

飯白 和子

66回『字誌』研究講座 出席 17

日時 : 124日 1330 〜   於 : 北近隣センター並木本館 

@報告

総説篇【第3回 今、なぜ字誌か。地名とは】

・報告者 : 長谷川一会員

・報告内容:「総説T 字誌・地名・古地図について」
・配布資料: 本文4頁、表2枚、古地図2『中相馬全図』及び国立公文書館所蔵「正保図」)

報告の概要

 「今回の報告は、お手元の印刷物をご覧いただければよいと思いますが、「字誌」と書いて『 あざし』と読んでいるが、辞書などに存する熟語ではない。遂語的には、「字」は大字、小字を含めた総称であり、他方、「誌」は書きしるしたものの意に解してよいのであろう。

「字誌」をつくろうと言い始めたのは、高木繁吉氏であった。戦火で貴重な歴史資料が無くなってしまった沖縄で、沖縄の歴史を調べるのに、生き残った人々からの聞き取り情報から始めたという。そうした沖縄の体験を、当地の担当者から伺った高木氏が言い始めたものである。

 現在、勉強会の始まりのことを知る人も少なくなり、新しい方も増えているので、勉強会の始まりの頃のことを言いますと、市民参加の研究は、独協大学の高木氏の師でもある齋藤博先生の指導で、色々な先生方にも来てもらい話を聞きながら、平行して、我々も勉強しなければならないということで大正時代に出された『湖北村誌』を「皆さん一人ひとり手に入れなさい。読んで、その中から自分のテーマーを選びなさい」と言われ、私は『村誌』の中から地名を調べることにした。村ごとにどういう地名があるか調べた。3枚目に表にしてあるのがそれである。そういうことをするのが私の仕事と思い調べた。そうして調べた報告は、市史研究史35号に掲載されているが、力点をおいたのが、

(a)「字名地図」の作成、

(b)大字ごとに全小字を自然・地形・信仰などに分類した「小字名表」の作成、

(c)小字名の読みの確認、等であった。

小字名の読みの確認のため、地理部会を立ち上げて頂き、部会長の渡辺義男氏の紹介で各地区の古老の話が聞けたことは大変よかった。

 「字誌」をつくるにあたって、最初にどうやるかを話し合った。それが(1)市民が自分の住んでいる地域への愛着を感じるもの。(2)地番などから「小字」の範囲の特定作業、(3)消えつつある小字の名称や年中行事・社寺などの記録から我孫子への関心を高めてもらう、等々がコンセプトとして確認された。

高木氏が亡くなった後は関口氏が担当された。『字誌』以外にも、部会が沢山でき作業することも多くなっている。

研究センターから、あびこ版『THEあびこ』が出版されたが、最初に始めたのが日本の中で「アビコ地名」がどうなっているかを調べることであった。女性たちが全国の電話帳を調べ、山形県が全国で「アビコ姓」の一番多いなども分かった。その後、改訂版も出版された。

また、松岡文雄家にあった『利根川図誌』の未公開の史料を基に『新編利根川図誌』を刊行した。高木氏と中尾氏で『手賀沼年表』もやられた。このように、会員が揃ってやるのがアビコ版、会員が共同でやるのがアビコ流で他では見られないのではないか。」

この後、小字名・村名などが全く書かれてない「中相馬全図」の分析から地形、景観、集落のあり方、交通ルートなどと村の説明があり、これに対し村名と里数が描かれている「正保図」の説明があった。

A連絡事項

 コア編集委員会で未検討であるがとの断りがあって、「字誌」制作進行表が配られ、今後の進行予定の説明があった。

以上


各部会活動・3月の予定

会員は下記6部会のどれにも参加できます。初めての参加の時には部会の担当者に連絡して下さい。

部会と集まり 担当

@古文書解読日曜部会(第2日曜)

38(日)

1300

アビスタ4学習室

山崎章蔵

テキスト 井上家文書 「刑罪録」

A古文書解読火曜部会(第3火曜)

317日(火)

1230

アビスタ1学習室

日出夫

テキスト 「魯西亜漂流水主帰着吟味口書」

B歴史部会 字誌検討(第4日曜)
近江礼子会員「我孫子における三峰信仰」

322(日)

1330

我孫子北近隣センター並木本館3会議室

関口一郎

C合同部会 (第3土曜)
社寺調査12

321(土)

1330

JR常磐線天王台駅北口

中澤雅夫

D歴史探訪部会
「相馬霊場の札所参り 6」

311日(水)

930

常磐線天王台駅北口階段下付近

荒井茂男

E井上家文書研究部会(第2土曜)

314(土)

1330

我孫子北近隣センター並木本館第1会議室

品田制子

3月度運営委(総会準備他)

328(土)

 940

市民活動St.

岡本和男

40周年記念誌編集委員会

39(月)

1330

我孫子北近隣センター並木本館1会議室

岡本和男

14回古文書解読講座
 講師:中澤雅夫会員

36,13,2046(全て金)

930~1130

ケヤキプラザ研修室

岡本和男



































事務局便り

・新入会員ご紹介

山中直子さん(柏市増尾台)2月例会より

どうぞよろしく。


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