平成26年9月27日発行   我孫子市史研究センター会報   第151  通算458
  編集:編集委員会 

古文書日曜部会レポート 山崎 章藏

遠島(おんとう)

「伊豆七島の青い海・・・東京の島でリラックス・・」の観光パンフレットに、少しばかり心躍らされた炎暑の夏は、何事もなく過ぎてしまい。9月14日から日曜部会が再開されている。今回の解読文書に登場した遠島の罪と、関連して八丈島の事情を探ってみる。

●いきなり無粋な話になってしまうが、「遠島」とは、島流しであり流罪のことである。伊豆諸島への配流の記録は、日本書紀に天武天皇4年(674)「・壱の子を伊豆の島に流す」と記され。神亀元年(724)の律令刑法では「・伊豆を遠となす」と明文化している。この伊豆の島は、本土に近い大島などであって、遠方の八丈島はまだ流刑地ではなかった。

●寛保2(1742)「御定書」で流罪の細目が規定され、江戸からの配流地は、大島・利島・新島・神津島・三宅島・御蔵島・八丈島の伊豆七島のうちに。京、大阪、西国、中国地方からは、薩摩・五島の島、隠岐、壱岐、天草へ送るとした。(『古事類苑』)

ただ、寛政8(1796) 配流地として大島は江戸に近すぎるとし、利島・神津島・御蔵島は極度の物資不足などを理由に、これら4島を流配地から除外している。(『遠島』・雄山閣・大隅三好著)

明治元年(1868)「仮刑律」は、刑期の定めがなかった遠島に刑の期限を導入する。同3年「北海道流刑規則」で配流地を北海道に限定したから、伊豆七島をはじめ佐渡・五島などが、不名誉な流人の島から解放される。その後も流刑そのものが法律上は生き続け、明治41年(1908)に旧刑法および監獄法の施行で、流刑の法規はすべてなくなる。

●古い時代の島流しとしては、和気清麿(神護3年(769)))が鹿児島大隅、源為朝は(保元1年(1156))に伊豆大島、日蓮は(文永8年(1271))が佐渡島、後醍醐天皇が(元弘2年(1332))に隠岐の島へと、それぞれの時代に配流がみられる。

しかし、「御定書」ができた江戸時代中期における流刑の主体は、奈良・平安・鎌倉・室町時代のものと大きく変化してくる。それは、従来の流刑が政治的な刑罰として、上層の特別な階級かつ特殊な犯罪に利用されてきていたが、江戸時代に入り凡下の庶民の犯罪にまで及んでくる。流人の数も増加し、その質も低下したといわれる。幕府の強固な統治能力によって、特に司法制度や治安体制が整備され、次第に庶民の日常生活の場までにも徹底され、庶民の刑罰になっていた。(『江戸の刑罰』石井良助著)

八丈島について

●八丈島は空路で羽田から50分、船で東京竹芝から11時間05分の距離にあり。東京の南方287q、(大島は伊豆半島の南東25km)に位置している。島の面積69.52?、26.9.1現在の総人口が7,944(大島は同91.06?、同8,294人)である。八丈島の江戸時代の人口は、安永3(1774)4,770(流人157人:比3.3%) 、慶応4(1868)8,391(流人218人:比2.6)であった。(『八丈島誌』)

●江戸時代、大川(佃島河岸)を出帆して順調な時は、八丈島まで45日の航程とされる。流人は江戸を春船(4~5)で出帆、三宅島で船待ちして秋に。秋船(7~8)は、三宅島で越冬して翌春に八丈島に到着する。遠島の用船は500石積(75t) であったが、この航路は危険な荒海で欠航と遭難を繰り返していた。特に、北上する黒潮は御蔵島と八丈島の中間を、幅2q、時速20~30qの速さで流れ、黒瀬川と呼ばれる最大の難所であった。   

●八丈島の流人は、政治・思想犯などの知識人が多くて詩的で風格があるといわれる。八丈島には、慶長11(1606)に関ヶ原合戦の西軍の副総帥であった「宇喜多秀家」、文政10(1827)に『八丈実記』の著者で北海道探検・開拓で名高い近藤重蔵の子「近藤富蔵」などの配流があってのことか?

「流人明細帳」などによる「流人職業分析」では、八丈島の慶長11年〜明治4(1871)までの262年間の流人数・1,877人。多い順に、無宿462(24.6%)、士・下士349(18.5%)・小者・浪士150(7.9%)、僧237(12.6%) である。新島の場合も、寛文8年(1668)〜明治4年までの203年間の流人数・1,333人、無宿468(35.1%)、武家168(12.6%)・足軽・中間83(6.2%)、僧侶58(4.3%) となっている。特記すべき島と流人の職業関係は見いだせない。武士は金銭不祥事、職務規則違反、僧侶は女犯、無宿は賭博・強盗・火付が罪状。 (『八丈島誌』・『遠島』)

これら八丈島の流人の内で、恩赦(将軍の代替り)や大赦(明治維新)その他で赦免され、国地に帰還できた者は約40%といわれる。 
        
以上


歴史探訪部会 月の活動

長谷川 秀也

*座学 ・演題 ユーラシアの中の日本(その2)

    ・講師 東 日出夫会員

    ・場所 アビスタ第二学習室

    ・日時 910日 13301500

今回の演題は、昨年73日座学『ユーラシアの中の日本(その1)―世界地図のいろいろ』の続編『同上(その2)―世界史の流れの概略』でした。

高校時代、昼食後の睡魔に襲われ始めた世界史の授業を、何故か思い出しました。ウラル山脈〜ボスポラス・ダ−ダネルス海峡〜レパント地方を境界として、「東西勢力」衝突の推移を紀元前から第2次大戦まで丁寧、簡潔に解説していただきました。

また、コーヒーブレイクにヨーロッパのコーヒー、紅茶飲用の変遷、アメリカでのティ−パ−ティ−、第2次大戦後の日本におけるコーヒー飲用ブレイクの素因等、興味あるお話がありました。

世界は第2次世界大戦(193945)後、69年間の “平和維持”に尽きる事がない難題に対処せざるを得なかった。が、それらを解決する方策を未だ見つけていない。

次の時代に『もし・・・・・・が起こったら』、世界は各国間の深い相互依存関係が必要不可欠であると。

ありがとうございました。

*次回座学は平成27114日(水)開催します。ご期待下さい。


古文書火曜部会9月の活動

古内 和巳

1.例会の冒頭」に井上文書部会員の岡本和男氏より「井上家初代佐治兵衛は、寛永20年(1643戸田氏と共に江戸へ来たとの言い伝え」を主題として高家戸田氏系譜上から、吉屋信子著の歴史小説『徳川の夫人たち』から、また『我孫子市史研究9』三谷和夫氏の発表からをもとに、講話をいただいた。高家戸田氏の墓所が本所、その親族の墓が駒込にあるが、大崎の戸田氏墓所は傍流家のものか、資料がない。しかし言い伝え通りなら近江出身の佐治兵衛は大垣から来たことも考えられるという。

 (資料希望者は火曜部会 東氏へ)

2.7月の解読に続き「御用留」相島新田井上家控を1班が解読担当した。内容的には、皆済年貢金高御触・貯穀小前帳差出控・丑年年貢辻高・貯穀小前割合高等の解読であったが、中に異色の「人相書触」があり、『この解読』について私見を交え、提示し報告する。現代の「指名手配書」である。写真のなかった時代は氏名・年齢・生国に続いて背格好・容貌・着衣・しゃべり方の特徴などを列挙したものが一般的内容であった。江戸の人相書・東京都古文書館より

体の特徴に続いて着衣を詳しく書いてあるのは犯人発見の有力な手掛りを強くしたためであろうか。記述は簡単であるが、当時の社会では貴重な情報で効果があったと思われる。いずれにしても人相書から犯人をイメージするのは困難の気がする。現代ならこの程度の事件は、映像・監視カメラ・通信・機動力の発達で発生と同時に緊急手配し、短時間で解決されるが、この時代は人相書を手掛かりに、朱房付きの十手を持った与力・同心が動き、岡っ引き・目明しが走り廻ったことであろう。

(以下 読み下し)

当丑十月廿八日夜、神田鍋町西横町家持(まち)医師(いし)原長門へ疵負わせ、逃げ去り候召使い小八、人相書

一、年、廿六才、年来よりふけ候方ニ相見へ候

一、生国、越中射水郡高岡町之内三番町、町人九兵衛忰(現 富山県高岡市三番町)

一、丈、中せいよりも少し高方ニ而、痩せ候方

一、面躰、細く候、色黒く赤き方

一、(びん)・耳・常躰(つねてい)

一、眼、大きく眼中するどき方

一、眉毛、濃き方

一、歯並びよく、こまかなる方

一、唇、厚くそり候方

一、言葉、はやきニ而高く荒き方

一、平生(へいぜい)、物しづかなる方

一、其節の衣類、あい(藍)ビロード木綿太織(ふとおり)ニ、一の字三ツ紋、五ツ所附き布子(ぬのこ)を着し、紺茶竪縞小倉織(こくらおり)帯を〆、花色木綿帯いたし、紺もんぱ股引をはき、罷り在り候

右は此の度、御支配御役所御触書御座候、見当り次第早々訴え出べく仰せ渡され候    已上 

丑正月中拝見

以上


 

歴史部会『字誌』8月・9の活動 

関口 一郎

 

727日の第61回『字誌』研究講座(報告者:布佐地区担当・清水千賀子会員)終了後、これまで提出いただいている「執筆原稿」について、「字誌」編集委員会における作業の進め方の説明を行い、担当執筆者に「第2稿」原稿作成の依頼を行った。

(1)編集委員会ではコアメンバーによる「査読」チームをつくり、1本の原稿に対して、[第1査読者、第2査読者、通読者1、通読者2 4人態勢で査読を行ったこと。

(2)その結果を整理した第1次原稿を、727日(日)の出席者に渡し、823日(土)締切りにて、第2稿原稿の作成の依頼をした。欠席者には(電話説明の後)説明書を付けて郵送にて依頼した。

(3)編集委員会については、310日(月)にコアメンバー8名の選出を行い、以降はコアメンバーで作業を進めた。

・第1回コアメンバー会議:430日(水)

*第1回編集工房「白鷺」との打合せ:58日(木)

(第59回「字誌」研究講座:525日(日)報告者・安本正道会員)

・第2回コアメンバー会議:529日(木)

(第60回「字誌」研究講座:622日(日)報告者・東 日出夫会員)

・第3回コアメンバー会議:713日(日)

(第61回「字誌」研究講座:727日(日)報告者・清水千賀子会員)

・第4回コアメンバー会議:818日(月)

・第5回コアメンバー会議:96日(土)

*第2回編集工房「白鷺」との打合せ:925日(木)

この会議において、17地区(17本)の原稿を編集工房に渡した。

(第62回「字誌」研究講座:928日(日)報告者・関口一郎会員)〈予定〉

*第3回編集工房「白鷺」および崙書房との打合せ:114日(火)〈予定〉

注:

1010日(金)までに、未提出の第2稿原稿等を事務局に提出していただく。

以上


合同部会9月の活動9/20

中澤 雅夫

出席者14

1.    社寺調査報告原稿案についての検討

社寺調査報告書案の検討を行った。

社寺調査は昨年6月に開始し、その調査結果を会報で報告してきた(第1回報告は同年10月、会報140号)。

報告書は各担当者の記名入りであるが、記述の落ちや誤解の有無、再確認の必要性有無、分かりやすい表現、誤字・脱字の有無などを部会で検討する。場合によっては、担当者が改めて調査し、原案を修正する必要が生じて会報掲載までに時間が掛かる。そのため、本年2月(会報144号)の第4回報告のあと、半年ばかり空白になってしまった。

今月の部会では、八坂神社(白山)、香取神社(緑)、最勝院(高野山)、千勝(ちかつ)神社(高野山新田)の報告書案を検討、このうち八坂神社と千勝神社の報告書を一部修正の上、今9月発行の会報に掲載してもらうこととなった。

2.    10月の社寺調査(第11回、高野山 香取神社)

 10/18(土)13:30、現地集合。配付済みの報告書素案と「高野山 香取神社 合同部会メモ」を持参。ただし、雨天の場合は「けやきプラザ1Fロビー」に集合、調査に関する意見交換を行う。

3.    11月の予定

 11/15(土)13:30 於北近隣センター「つくし野館」第2会議室

 今後の調査対象社寺検討など。


我孫子の社寺を訪ねる 

−白山()−

合同部会 吉田とし子

八坂神社 我孫子市白山1-1-1

JR常磐線我孫子駅南口を出て手賀沼の方に向かうと、右手に白い大きな石の鳥居が目に入る。そこは国道356号との交差点で、その南西角に八坂神社がある。

境内はいつもきれいに清掃され、正面の社殿と境内の木々の調和が一層引き立っている。主な樹木はサクラ、イチョウ、モミジなどで、イチョウとモミジは昭和6310月に我孫子市の保存樹木に指定された。

明治期の『神社明細帳』には境内坪数170坪余(560u余)とあるが、第2次大戦後の道路拡幅によって現在の広さ(400u程度か)になった。

神社の先は急傾斜で下り、「公園坂通り」を行くと手賀沼べりの「手賀沼ふれあいライン」、「手賀沼公園」、「生涯学習センターアビスタ」に至る。


八坂神社全景

1.  祭神

祭神は素戔嗚(すさのおの)(みこと)

素戔嗚尊は牛頭(ごず)天王(てんのう)垂迹(すいじゃく)(仏が仮に神の姿で現れること)とされ、牛頭天王は、釈迦が説法を行った祇園精舎の守護神で、日本では疫病除けの神とされる。

当社もかつては「天王さま」と親しみを込めて呼ばれていたが、明治維新の神仏分離により、本社の京都祇園社が八坂神社に変わり、祭神が素戔嗚尊に変わったのに合わせて、八坂神社となった。

昔の人は疫病を今では想像がつかないほど恐れていて、とくに人が多く行き来する街道の村、宿場では、疫病除けは切実な問題であった。宿場の出入り口に当たる所に八坂神社が多いのは、そのような事情による。

当社では、氏子に農民が多かったことから、拝殿内に掲げられている「八坂神社祭礼の由来」(昭和59年)にあるように、病虫害を除く「虫払い」の祈願もこの神に託したという。同「由来」は全文記録が市史研会報138号(平成258月)に紹介されているので参考にして頂きたい。

1.  縁起

室町時代、応永3年(1396)の創建と伝えられる。近世に入って水戸街道が整備され、我孫子宿が誕生した頃から、宿の街道入り口に近いこの辺りに社殿が建立されたと考えられている(『我孫子市史 民

俗・文化財篇』、『我孫子市史研究』第11号(1987年)「我孫子市社寺要覧」)。なお、『神社明細帳』では創建時期を「不詳」としている。

古老の話では、社殿は文化・文政の頃(19世紀の初め)に建立されたのではないか、とのことである。

現在の社殿は明治12年の再建で、第2次大戦後、修築して防火塗込めになった。なお、平成16年に発行された『我孫子みんなのアルバムから』の118ページに、昭和172月に社殿の前で撮られた大杉祭の写真があるが、屋根は茅葺になっている。瓦葺に葺き替えられたのはそのあとということになる。

江戸時代、我孫子村にはたくさんの(やしろ)があったが、明治39年の神社合祀令によって、ほとんどの社が村の鎮守である香取神社(現在、我孫子市緑)に合祀された。しかし、この八坂神社は合祀されずに残された。この神社に対する住民の思いを見ることができる。

もっとも、当社と香取神社との関係は、香取神社の属社として氏子も共通であることから街道沿いの八坂神社を残したとの話である。

宮司は布施飯田甲太郎氏、湖北千濱宗輔氏、松戸湯浅春雄氏と変わり、柴崎湯下正二氏、湯下正雄氏から現在は湯下正博氏(柴崎神社)が兼務している。

1.  堂宇

社殿は間口3間・奥行4間、入母屋造瓦葺コンクリート外壁で、外陣部分に内陣が凸型に接続している。内陣は一段高く、その奥に本殿がある。以前の建物は、おそらく昭和50年代に造作し、その後、平成12年に修復して現在のようになった。

2.  石造物

鳥居:入り口の大きな鳥居は平成15年に新しく建立されたもので、「平成十五年十二月吉日」の銘がある。

鳥居奉納碑:正面に「平成十五年藍綬褒章受賞記念鳥居奉納 藍綬褒章受章者 横山常夫」とあり、裏面に氏子総代12名と宮司、施行の名前が記されている。

手水鉢:社殿に向かって右側に文政5年(1822)銘の手水鉢がある。正面は大きく「納 あ 奉」と彫られ、「あ」の字の上には山の模様がある。裏面は「富士北口登山 当所同行」として16名の姓名が刻まれ、向かって右横面に3名の願主姓名、左横面に「于時文政五歳午六月廿五日」の銘が彫られている。


中央に大きな「あ」の字のある手水鉢

庚申塔:社殿の左側(南側)に2基確認できる。天保12年(184111月吉日銘と弘化4年(184710月吉日銘のものである。

灯籠:上部が東日本大震災で損壊し、台座部分だけが残っているものが2つある。「伊勢代々講中」と彫られた天保2年(1831)正月吉日銘のものと、「大々講」「伊勢」と彫られた大正4年(1915715日銘のものである。上部は片付けた由である。

1.  年中行事

今は夏の例大祭が町を挙げて行われるだけである。夏の例大祭は、毎年717日〜18日であったが、現在は、海の日(7月第3月曜日)前の土曜日〜日曜日に行っている。

以下、市史研会報138号の記録によって、平成25年の祭礼の様子を記す。

祭礼初日は社殿横にテントが張られ、「緑」にある香取神社境内の神輿庫から運ばれた神輿が据えられる。

行徳の宮大工が100年ほど前に作ったという神輿(前述の「八坂神社祭礼の由来」に記載)や山車、子供神輿、太鼓などは、すべて香取神社内の神輿庫に納められている。

宵宮神事(大神輿御霊入れ)が午後7時から行われる。この儀式は一般の目に触れることはない。

2日目は午前920分に始まる神幸祭の始まりの神事の後、10時に神輿の渡御が始まる。この日は朝から交通規制があり、神社周辺だけが賑やかである。


神輿の出御(2013年の祭礼)

花火を合図に宮出しとなり、交差点周辺でひとしきり練ったあと、山車1台が先導し、ほかの2台を従えて東に進む。

神輿当番は4つの丁会(街道の西部から東部へ14丁目、自治会や行政区画とは異なる区分)の輪番制で、4丁会はそれぞれ山車を持っているが、神輿当番の年は出さないので、神輿渡御に従うのは3台になる。

神輿の前には宮司や紋付袴の氏子総代、金棒引きの女性2人、その他大勢が進む。香取神社入口の丁字路で一旦止まって神社に向けて据え、神事を行う。

初日は4つの丁会に分かれて子供神輿と(ひき)太鼓の巡行がある。子供神輿は全部で5基あるという。朝10時に八坂神社に運び、御霊入れをしてから各丁会に戻って丁会内を巡行する。

2日目は各丁会の神酒所(祭礼時に臨時に設ける詰所)に神輿を納め、供え物をして祀る。


子供神輿

1.  大杉様の祭り

大杉様の祭りはかつて我孫子市内の各地区で行われていたが、この八坂神社でも、114日、15日に大杉祭りが行われていた(本来は227日、28日)。以下は、地元の古老たちの話によるもので、『我孫子市史 民俗・文化財篇』にも記されている。

大杉様は茨城県稲敷市阿波(あば)にある大杉神社のことで、厄除けや海上安全にご利益があるとされる。

我孫子では、村の青年団に初めて加わった若者に、大杉神社を参拝して守り札を受けてくる役目が課せられていた。往復80km余の道程は徒歩で一晩掛りであり、一人前の男子としての体力、気力、信仰心が試される機会であった。

祭礼は午後から夕刻にそのお札が到着して挙行された。

神輿は祭りの前日に竹籠を細長く編んだものに杉の葉を差して舟の形に作り上げたものを丸太の骨組みに載せて担ぐ。神輿の後からお囃子が付き、町内を巡行した。この神輿は八坂神社に戻った後、骨組を残して杉の葉は取り除かれた。昔は杉の葉を手賀沼に流したが、やがて燃やすようになった。

この祭りは青年団の呑み代稼ぎの祭りでもあったようである。

昭和30年代に入ると、青年たちが進学、就職で地域の行事からだんだん離れ、青年団は消滅の方向になり、この祭りも行われなくなった。昭和55年頃、一時復活の動きがあったが、それも定着するには至らなかった。町を練り歩いた太鼓や鉦も朽ち果てて今はない。

お囃子だけは、子どもたちに引き継がれ、我孫子第四小学校の子どもたちが芸能クラブで練習しているという。毎年12月の「郷土芸能祭」で聴くことができる。

2.  氏子

多くの神社が氏子を固定しているなかで、この八坂神社は、前述の通り、緑(字名)の香取神社と共通の氏子で、丁会に属している住民が氏子となっている。そして、祭礼には誰でも参加することができる。

氏子総代は同じく香取神社と共通で6名、そのうち1名が総代代表を勤めている。

参考文献

『八坂神社祭礼の由来』(当社拝殿にある掲額:          市史研会報138号(20138月)に全 文紹介)

『我孫子市史 民俗文化財篇』

『我孫子みんなのアルバムから』(平成16年、みんなのアルバム同好会)

『我孫子市史研究』第11号(1987)「我孫子市 社寺要覧(神社編)」

『日本の神々 5 山城・近江』(白水社)


我孫子市の社寺を訪ねる 6 −高野山新田− 合同部会 三谷和夫

千勝(ちかつ)神社    我孫子市高野山新田188

市役所下の手賀沼ふれあいラインを東進すると、400mほどで左側に千勝神社、そのすぐ先に鳥の博物館、右側には手賀沼親水広場がある。千勝神社は江戸時代に茨城県下妻市の千勝神社から、高野山新田の人たちによって勧請され、信仰されてきた。昭和54年都市計画道路の開通により道路脇に遷宮された。

1.   祭神

『我孫子市史研究』11「我孫子市社寺要覧−神社編−」(以下「神社編」と略記)によれば、祭神は日本武尊、水速比売神(みずはやひめのかみ)となっている。

昭和544月に本殿新築にあたり、社殿内の「千勝大明神」の石祠を中央にして、境内から駒形碑「猿田彦大神」(明治十三年銘)と駒形碑「水神宮」(明治八年銘)を社殿内に移したとのこと。因みに茨城県の千勝神社の主祭神は猿田彦命であり、この千勝神社に勧請したことと名実伴うことになるといえよう。ただし、この本殿の祭壇に日本武尊(やまとたけるのみこと)の名が見当たらないのはどうしてであろうか。


        水神宮        千勝大明神          猿田彦大
−千勝神社内の祭壇


1.   縁起

「神社編」には「沿革」として、「草創はつまびらかでないが、高野山新田の開発にともなって勧請され、信仰されてきた。」と書かれている。高野山新田は寛文年間(166173)に開かれ、天和2年(1682)からは手賀沼新田請方の反高場となり、年貢を上納、享保10年(1725)までは高野山村下と称した。幕府領。

村高は、「元禄郷帳」には見えず、「天保郷帳」、「旧高旧領」ともに2石余。天保14年(1843)の家数5、高野山村との境界沿いに散在する農・漁村である。明治7年の戸数8、同24年の戸数8、人口60、厩3、船2(以上角川『地名事典』千葉県)。

我孫子市内には根戸、岡発戸、都部、布佐下の各新田に神社が1819世紀に創建されている(「神社編」)。

千勝神社の創建について、高野山新田の人たちが造立した石造物について調べた結果、千勝神社は嘉永4年(1851)の創建であろうと推測した。その根拠2つについて以下に述べる。

1)市内5新田にある神社の創建年代から

市内の手賀沼側の5新田のうち、布佐下新田の稲荷神社は明和・安永以前(1764年以前)の創建といわれ、都部新田の水神社の創建は18世紀(1800年ではないか)とされ、根戸新田の水神社の創建は不明だが、天保(183044)のころには存在したらしい。残る2新田のうち岡発戸新田の八幡神社の創建は正確には不明だが嘉永3年(1850)の銘をもつ灯籠が創建時代を示すと考えてもよいのではないか。そしてその翌年、嘉永4年銘をもつ石祠「千勝大明神」は千勝神社の創建を示すといってよいと考えられる。

2)高野山村の石造物から

高野山新田の親村である高野山村に現存する石造物(詳しくは後述する)に、新田の人たちの名がかなり多く彫られている。その一つに百庚申がある。

百庚申は庚申塔百基を造立することを目指すもので、何年か長年にわたって造立が進められた。

高野山村の百庚申は天保15年(1844)から造立が始められ、嘉永5年(1852)までの9年間に100基の庚申塔が造立された。この間に高野山以外から協力して造立が行われた。嘉永2年には高野山新田の岡田甚兵衛、鈴木傳五右衛門、岡田甚左衛門、成毛権左衛門、小川権兵衛の5氏が各1基の庚申塔を造立した。その2年あと、すなわち百庚申完成の1年前、嘉永4年に高野山新田の千勝神社に石祠「千勝大明神」が造立されているから、この年に同神社が創建されたことで、その間の事情がよく理解できる。

千勝神社創建から25年ほどして、明治8年に「水神宮」碑、続いて同13年に「猿田彦大神」碑が造立された。神社創建から45年ほどして、常夜塔、また明神鳥居が建立された。昭和2年には小川権一郎(10円)外9人の寄付により屋根の葺き替えが行われた。同6年には記名9人による伊勢参拝碑が、同8年には記名14人による百番塔が建つ。大戦後の昭和33年に建立の「遷宮碑」があるが、その詳細は目下不明。

昭和39年に茨城県茎崎町(現つくば市)に新たに千勝神社が鎮座し、高野山新田から代参に出掛けたようだ(この千勝神社については後述)。

昭和463月に社殿の屋根替え、畳替え、扉替えが行われた。社殿に掲示の記録には115000円の寄付者21人の名と世話人3人の名がある。

昭和544月、新道路(現手賀沼ふれあいライン)建設のため本殿が数メートル移転し、県の補償金と氏子の寄付により現在位置に新築された。このとき猿田彦塔、水神塔が本殿内に移された。新道路建設以前は千勝神社の北側(沼と反対側)に細い道(荷車が通るほど)が東西にのび、本殿を囲むように直角に折れて西方に通じていた。昔のハケの道であった。旧社殿には囲炉裏があり、天井は黒く煤けていた。屋根は茅葺きであった。

昭和56年に上水道設備が敷設された。

山階鳥類研究所(昭和59年(1984)東京から移転)に続いて我孫子市鳥の博物館(平成2年(1990))、県立水の館・親水広場(平成3年(1991))がこの地に開設され、市内外より多数の人が参集し、種々の行事も催されている。

平成26517日つくば市の千勝神社鎮座50周年式年例祭が行われた(後述)。


千勝神社社殿


1.建造物

鳥居:石造、明神鳥居、明治三十一年銘。

社殿:正面二間半奥行三間、向拝付の拝殿に接続して方一間の内陣がある。昭和54年竣工。


2.石造物  『我孫子の石造物』参照。

「千勝大明神」:嘉永四亥年(1851)六月吉日、社殿内(中央)にあり、これにより千勝神社の創建が推測される。記名はない。

「水神宮」:明治八年亥年(1875)正月吉日、社殿内(左)にある。祭神は水速比売神(みずはやひめのかみ)。因みに市内5新田の神社のうち、根戸新田と都部新田には水神社がある。

「猿田彦大神」:明治十三年二月二十八日、社殿内(右)にある。茨城県の千勝神社の主祭神は猿田彦命。記名3、小川権兵衛、鈴木傳五右衛門、岡田甚五右衛門。

灯籠一対:「常夜灯 神社仏閣拝礼 所願成就」明治廿九丙申年旧八月吉日、「岡田甚左衛門」。

狛犬一対:「奉」「献」明治三十一年十一月吉日。鳥居獅子寄付碑:「金拾壱円小川源蔵(外八人)」明治三十一年十一月吉日、取手石工染野・・・。

明神型鳥居:「千勝□□、水神、奉納」明治三十一年十一月吉日、193p。

屋根替碑:「千勝神社屋根改繕寄付連名 金拾円小川権一郎(外9人)」昭和弐年四月吉日。

伊勢参拝碑:「伊勢太々参拝紀念 昭和四年二月十七日奏奏」記名9「年順小川義尭・・・」。

百番塔:「月山羽黒山湯殿山神社 西国秩父坂東百番 四国八十八番霊場供養塔」昭和八年十二月吉日再建 記名9名(台石に高野山新田 岡田甚左衛門外4)、石工小川源蔵。

遷宮碑:「千勝神社御遷宮記念碑」昭和三十三年四月。

西国巡拝碑:「伊勢太々参拝奈良京都大阪遊覧紀念」昭和卅五年二月廿五日、記名10

本殿移転碑:「千勝神社本殿移転竣工紀念」昭和五十四年 月吉日、記名16

以上の石造物は千勝神社の境内にあるものだが、高野山の香取神社((香)を付す)などに高野山新田の人たちが高野山の人らと協同して造立した石造物がかなり見られる。それを以下に記す。

西の屋形灯籠(香):宝暦四甲戌天十一月吉日「奉待庚申供養為二世安楽也」記名9の中に「小川権次郎」あり。

灯籠道標:成田街道沿い、寛政十二庚申「子大権現道」「願主 荒井治兵衛 岡田甚左衛門」。

この道標は子之神への道案内として建てられたが、願主の2人は高野山の親村と新田からそれぞれ1人ずつ出ており、両者が一体化したようにして建てられたことが分かる。

百庚申(香):嘉永二年(1849)、これについては前述したように、百基中5基をこの年に高野山新田の人5人が造立した。その2年後に千勝神社の創建に至ったことは前述した。

鳥居供養塔(香):「石鳥居供養塔、安政三丙辰年九月大吉日」、これは同年同月に香取神社の鳥居造立に伴う供養塔であり、記名28名中岡田甚左衛門以下7名が新田から出ており、親村の鳥居造立に協力したことが分かる。

「阿夫利神社」碑(香):明治十三辰年八月、これは神奈川県の大山にある阿夫利神社へ参拝に出掛けた人たち(記名23)の建てた記念碑であろう。高野山村の中に小川源蔵、岡田甚左衛門の名が上がっており新田の人たちも同行したのであろう。

伊勢参拝碑(香):「伊勢太々御神楽奏奏記念」昭和32212日、記名18人の中に小川良太郎(高野山新田)の名がある(現代表小川一美氏の祖父が良太郎氏)。

以上の外にもあるかもしれない。高野山の人たちが親村の人たちと行動を共にして、相応する石造物を造立したことは明治から昭和を通じて、大戦後も行われたことがわかる。

3.     年中行事

17日千勝講。主婦だけの集まり。昼から夕方まで茶、昼食を共にする。真言などを唱える。

120日水神びしゃ(水神講)。しめ縄奉納。柴崎神社から神主が来てお清めの祝詞(のりと)をあげる。氏子8軒正坐して参加する。あといろいろ話し合いし、一杯を頂く。

  正月に氏子代表2人がつくば市の千勝神社へお参りに行き、お札を貰って来るので、この日にそれを皆さんに配った。今は各戸用のお札はないので、今祭壇に上げてある立派なお札を頂いて来て、神社にお飾りしている。神主は御幣(おんべともいう)を新わらで作って持って来てくれた。当番の家に1年置いたが今はこの祭壇にある。弓矢で射る行事はない。

2ヶ月ごとのお籠もり。女性だけ。偶数月の月末、昼から5時ころまで、太鼓を叩きながら真言を唱え、その後くつろぐ。真言は千勝様、香取様、七夜の神、不動様、大師様を順に唱える。真言などの書き付けが置かれていた。

・相馬八十八ヶ所参り(八ヶ所参りともいう)。4月第一日曜日、高野山集落と共同で霊場参り(マイクロバス)。バス2台で4050人が参加し、最勝院住職とともに1日で一廻りして食事をとり解散した。平成24年までやっていた。今は集まらないので中止となっている。

107日千勝講。稲刈り後男性だけで祀る。境内の伸びた木を切り、掃除をする。午前中にやって食事を共にする。昔は旧暦でやったが、今は新暦107日に行っている。

・つくば市茎崎の千勝神社代参。毎年氏子で代参している(前述)。50年前につくば市の千勝神社が鎮座したから、それ以前は茨城県下妻市に今もある千勝神社へ我孫子からお参りしたのだらう。50qもあるようだから、昔の人は歩いて行ったようだ。成田山まで歩いたというが、下妻は遠いので一泊してお参りしたと思われる。下妻はかつて大変賑わって宿屋もあったから、我孫子の人たちもそこに泊まったのだろう。

4.     神主と氏子

神主は柴崎神社の湯下正博氏が兼務している。

氏子は10軒だが、実質は8軒。新住民を含む自治会とは全く別で、昔からこの地に住む者だけが氏子となっている。新住民が氏子になる話はないようで、それについてのルールもないので、もし話が出れば氏子の集まりで相談することになるという。氏子が増えることは目下のところないようだ。

神社の維持保存は、氏子8軒の負担会費と賽銭でまかなうが、なるべく氏子により修理などで済ますようにしている。東日本大震災では瓦がずれたりひびが入ったりしたので修理した。代表(任期3年)、交代制3人ずつ、順番につとめる。平成271月まで小川一美、岡田康宏、鈴木輝男の3氏がつとめている。

信者の中には、毎月1日と15日、商売繁盛に感謝して参詣、神酒を奉納し、社殿前を清めて撒くという母娘がいる。

茨城県の千勝神社

1)    下妻市坂井の千勝神社

はじめ下総国と常陸国の国境の辺りに創建された(津に近いので近津と称されたともいう)。

神護景雲(767~770)のころ、現在の下妻市坂井に移された。主祭神は猿田彦命。社祭はもと霜月中の酉の日で、信者は東京方面はもちろん関西まで拡がっていた。勝負の世界、とくに相場の世界の参拝者がセンカツ(千勝)として詣で、旅館も建ち並ぶほど賑わった。

社殿は古色蒼然としており、けやき(幹周530p)ほかの大樹林立し、石造物は享保6年(1721)以降のもの多数がある(『茨城の民俗』53号、近江礼子「下妻市の元宮千勝神社とつくば市の本社千勝神社」(2014、茨城民俗学会)参照)。寄進者は東京の講などが多く、水戸市、下妻市などあり、平成14年の寄進には我孫子の人の名も見られた。東日本大震災による本殿の破損を修繕したところも見られたが、文化14年(1817)の常夜灯は一部倒壊したままであった(平成265月現在)。


下妻市坂井の千勝神社

鳥居

2)    つくば市泊崎の千勝神社

昭和39年下妻の元宮から新たに旧茎崎町(現つくば市)の地に千勝神社が鎮座、千勝大神(猿田彦命)を祀る本殿を中心に摂社2社とともに3殿が並立する境内が整備された。


つくば市泊崎(はっさき)の千勝神社の大鳥居

元宮の創建1500年、つくば市の千勝神社鎮座50周年の式年例祭、奉祝行事が平成26517日に挙行された。

昭和51年には本殿、同57年には拝殿、同59年には参集殿の工事が行われ、多数の信者の寄進があり、同59年の寄進者の中には我孫子の人の名も見られた。現在3代千勝良朗宮司は下妻の千勝神社宮司も兼務。神職として祢宜、権祢宜のほかに巫女10名ほどがいる。


社殿

参考文献

1.『我孫子市史資料 金石文篇T、U』    1979年、我孫子市教育委員会)

2.『我孫子の石造物(所在地別リスト)』2005年、我孫子市史研究センター合同部会)

3.『我孫子の庚申塔』2000年、我孫子市史研究センター合同部会)

4.『我孫子の市史研究』11、「我孫子市社寺要覧−神社編−」 1987年、我孫子市教育委員会)

5.『手賀沼べりの道今昔』2003年、我孫子市史研究センター合同部会)

6.『日本地名事典』(角川書店)

7.『二十周年記念誌』「江戸期農民の苗字−高野山村の場合」           2003年、我孫子の文化を守る会)


井上家文書研究部会9月の活動

長谷川

(1)夏休み明けの九月の勉強会、913日の「井上家文書研究部会」では、前回七月の勉強会に配布された、次の37点の寛延期のもの:

a)文書番号691 寛延三午年三月、相嶋新田の「宗門人別村中御改書上ケ帳」、

b)文書番号221AE 寛延三午年(反場)の割付状及び宝暦十一巳年前後の相嶋新田の年貢関係諸状5点、及び

c)文書番号2022 寛延三午年八月、相嶋新田の「村鑑明細帳」という文書が、解読・解題の対象として採り上げられた。

中でも、a)の文書は、寛延三年という時点が、偶々七月に学んだ日秀村増田政右衛門家への支援開始と重なり、左次兵衛家の人別が大きく変動していることを示す。すなわち、長女「ちやう」とその家族(母、養子忠八、孫子馬之助)が相嶋新田の人別から姿を消している。

また、b)の文書群のうち、寛延三午年(反場)の割付状は、これまで見てきた延享元〜四年と同様納合の米は「なし」であったが、宝暦十年のものでは、壱石三斗余の「本途見取」が現れ、一方、宝暦十一巳年(高付)の割付・皆済状には、「御伝馬宿入用」「六尺給」「御蔵前入用」の賦課が始まり、これら三役の「懸高」及び「損毛免除高」も表記され制度の子細を伝える。

また、c)の文書「村鑑明細帳」は、寛延三年午八月に「稲垣藤左衞門」に提出されたものを、宝暦四年戌閏二月に「小田切新五郎」に提出したこと、しかも、二度目の提出に際し、最終項(用水之儀者云々)は削除されたことを付記している。なお、これら両度の提出時期は、また、相嶋新田の支配代官の就任時期と重なるのであろう。

(2)今回新たに配布された、下記の618点:

1)文書番号148AE 寛延二巳年〜宝暦三酉年の三河屋新田の年貢皆済目録5点、

2)文書番号339及び340 寛延四未年二月における相嶋新田及び三河屋新田の「本新高反別書抜」2点、

3)文書番号660 寛延三午年十月改、日秀村における「田畑毎年出作入替之通」1点、

4)文書番号1218AE 寛延四未年の「乍恐以書付奉願上候」に始まり明和四、七、八年の諸文書及び天保五年の「一札之事」等、六軒堤際屋敷地に関する文書5点、

5)文書番号16041612及び1613 寛延四未年の手賀沼新田の窮状を訴える「乍恐以書付奉願上候」等3点、

6)文書番号1789及び1791 寛延四未年の「差上申一札之事」及び「済口證文差上申候事」は江戸内藤宿の忠兵衛を相手にする滞納年貢返還請求に関する文書2であり、これらの文書は來たる十月以降の部会で、解読・解題される予定である。


井上基家文書の研究

質地証文 その11

清水 紀夫

(これまでの論述項目)

―サンプル文書内容の検討―

?    理由について    (その8−147号)

?    質入地について (その9−148号)

?    代価について    (その10−149号)

4)年季について

さて、年季である。その2で見たとおり、年季を定めるのが永代売と区別して質地証文の最大特色である。今回対象の文言は「年義者当辰より来午?三ヶ年相定申候」。返済期限を辰の年・明和九年(1772)から午の年・安永三年(1774)までの3年間と取り決めたのである。

年季については、『地方凡例録』には以前その3に引用した一条の他にも、「証文端書にハ質地と認め」るも、文言中に「年季等もなき不埒なる証文」は「永代売同様の咎を申付る」と重複して載っていて1、必ず定めるよう厳しく要求している。その期間については、「一質地年季定之事2」に「前々は年季の限りハな」かったが、享保六年(1721)の触3で「年季は拾箇年に限り、夫より内の年季は勝手次第」と、10年までとし、かつ年季明け、即、質流れではなく、「一年季明質地取捌之事4」には「拾箇年…の年季に相極たる分、年季明より拾箇年迄の内に受返し度段願出れば、吟味の上地面相返させ」るともあって、期限は「最長10年」、「質入後、20年で訴権が失われ…土地所有権の移動が完了する5」ことになったのである。

以上は幕府の定めるところである。しかしこうした御法の一方で村には村の慣行があったようである。白川部達夫氏は、質流れ後、いつでも元金を返済しさえすれば請戻すことができた事実を述べて、これを無年季的質地請戻し慣行と名付け、「100年以上経過した」土地の請戻しを求めた例もあったと記している6。渡辺尚志氏は、それを継承7、証文中の「同卯暮〔年季明け〕より何ヶ年相立候共、右本金調達仕候ハゞ田地證文共無相違御返し可被下候」の文言を引いて紹介している8。村民にとって年季はあってなきがごときもの。今(近代)の通念では捉えにくい。この背後には、人と土地との「結びつきは土地売買によっても断たれることはない」、土地取引は「金子借用のレヴェル」のこと、という農民意識が働いていたとのことである9

ところで前出『手賀沼周辺宿村の基礎的研究』には、理由(その8で言及)同様、年期についても集計がまとめられている。それを参照すると、「売渡」では3年、「質物相渡」では5年が最も多い。これを岡田源治氏は年期と金額(ほとんどが十両以下)との関連において次のように述べている。「三年という年数が圧倒的に多いのは、五、七年は長過ぎる、一年では短すぎる。その中間という所で年頃の年期であった」と。そして「三年精魂こめて働けば、天災地変のない限り、(返済)可能な金額であり、適宜な年期であったと思う」とも。根拠は不明だが、勇気を出してここまでの考察に及んだものは他に見あたらない。廣右衛門もこう判断して年季3年と決めたのか。

注)

1『地方凡例録』(前掲)210頁、井上家文書・前出「五人組帳前書写」にも「附、田畑質物之義ハ年季を定」とある。

2前掲211

3享保六年は、すなわちその3で示した年表の享保七年・質流地の禁止の前年である。『土地所有史』(前掲、279〜80頁)によれば、この時期、「流地公認の触」→「質流地禁令」→その「撤回」と、幕府の政策はめまぐるしく変化している。『手賀沼周辺宿村の基礎的研究』(前掲、73,80頁)に、享保6年の御触書が一部要約されているが「年季10年」についての記述はない。幕府の意図が是非とも知りたいところ。宿題とする。

4『地方凡例録』(前掲)208

5白川部達夫『近世質地請戻し慣行の研究』塙書房、2012.1、A頁

6同上

7『近世の村落と地域社会』(前掲)38

8我孫子市歴史講演会レジメ(前掲)1頁および史料頁

(追記)大塚英二氏はそれをさらに発展させて時期を明確化している。「無年季的質地請戻し慣行は近世初期には行われていたが、中期以降は一般的でなくなっていたにもかかわらず、後期から幕末にかけてふたたび行われるようになった。」(『土地所有史』(前掲)285頁)

9『土地所有史』(前掲)251,280

10『手賀沼周辺宿村の基礎的研究』(前掲)71834頁)


各部会活動・10月の予定

部会と集まり 担当
@古文書解読日曜部会(第2日曜) 1012(日) 1300 アビスタ
3学習
山崎 章蔵
テキスト 井上家文書 「刑罰録」
A古文書解読火曜部会(第3火曜) 1021(火) 1300 我孫子北近隣センター
つくし野館
日出夫
テキスト 井上家文書「御用留」
B歴史部会  (第4日曜)
 竹森真直会員「栄・泉地区」
1026(日) 1330

我孫子北近隣センター
並木本館第3会議室

関口 一郎
C合同部会 (第3土曜)
 社寺調査11、高野山 香取神社
1018(土) 1330
現地集合(雨天、けやきプラザ1Fロビー)
中澤 雅夫
D歴史探訪部会 例会は休会
 史跡バス見学会「東国三社参り」
101(水) 750 我孫子駅北口郵便局前 公園集合
荒井 茂男
E井上家文書研究部会(第2土曜) 1011(土) 1330
我孫子北近隣センター
並木本館第1.会議室
品田 制子
10月度運営委(刊行物、講演会) 1025(土) 940 市民活動St. 岡本 和男
H26年度 古文書初心者講座* 10/29,11/7,12,21 930-1130 けやきプラザ7F
研修室
岡本 和男

*別添チラシ参照下さい。

事務局便り

<市史研40周年記念誌「回想記」募集の件>

ただ今まで、33名の会員の方が投稿下さることになっています。まだお手元に応募のはがきが残っておられる方は、至急、諾否のご返事をお送りください。お待ちしております。

なお、小論文の方は23本を予定しております。こちらについても、投稿を希望される方は事務局に連絡ください。

<催物案内>

・柏市 平成26年度歴史講演会

104日(土) 沼南公民館大ホール12時開場

1300〜「元禄と大正の関東地震―地震像と災害像」北原糸子元歴民博客員教授

1450〜「北総の夜明け前―小金・佐倉牧開墾と裁判闘争」中村勝柏市史編さん委員会副委員長

1620〜郷土資料展示室「小金牧」見学;文化課職員

参加無料、400名まで、Tel04-7191-7403(文化課)

・白井市郷土資料館 開館20周年記念企画展

105日(日)まで開催中(9001700

「歴史をひもとく資料たち」

展示構成は「白井市の歴史とその特徴」、「香取海を中心とした文化」、「木下道と鮮魚道、そして牧」、「伝説と信仰、人々の交流」椿椿山の渡辺崋山像や歌川広重の小金原の図、鳥見神社の懸仏、小金原鹿狩の村小旗など。

入館無料、Tel:047-492-1124、月曜休館


事務局 〒270−1132     編集・発行  編集委員会
我孫子市湖北台5-15-17 岡本方   TEL. 04-7149-6404
電子メール:gasonsi@jcom.home.ne.jp

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