平成25年11月23日発行 我孫子市史研究センター会報 第141号 通算448号
編集:編集委員会 第141号
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歴史探訪部会バス見学会 「大山詣&日向薬師探訪」に参加して 茂木 勝己 |
11月6日、晴 予定通り7:00我孫子駅前出発 参加者29名。
東京を抜けるのに時間がかかったが、神奈川県に入ると正面に丹沢、大山の雄大な山々が見えてきた。
10:30予定通り大山ケーブル駅に到着。ガイドの山口さん、滝沢さんの案内のもと石段まじりの石畳を歩く。独楽(こま)道といい石だたみに独楽の絵が信仰の地の雰囲気を醸し出している。両側に茶店やお土産店、宿坊が並び、玉垣に「我孫子市沖田講社」など我孫子市関係の名を多く見ることができた。
10:45 追分駅からケーブルカーで3分、不動前駅で下車、大山寺へ
大山寺は日本三大不動として知られ、天平勝宝7年(755)東大寺別当良弁(ろうべん)僧正が創建したといわれる。大山寺の本尊である「不動明王坐像」は厳しさの中にもやさしさが感じられた。修験道の聖地として栄え、雨乞いの霊場として発展した。
12:20長い階段を上って阿夫利神社下社を参詣。明治初年の神仏分離により大山寺不動堂を移動し、その跡地に建てた。今回は行けなかったが山頂の石尊大権現社が阿夫利神社本社となっている。
境内からは伊勢原市内が一望できた。
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| 我孫子市・・を探して | 大山寺 | 阿夫利神社下社 |
13:10昼食 とうふ料理<もとだき>。とうふは、水がよいことが一番。大山から流れてくる清水で作ったとうふの味は天下一品という。とうふづくしの昼食でした。茶湯寺涅槃佛を見て、バスへ。
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![]() 茶湯寺の石仏群を観察 |
15:30日向薬師 行基上人が元正天皇の頃(716年)に開創されたといわれる。バスが大型で山上まで行けず急遽、急勾配の石段を歩いて登ることになった。本堂は解体修理中であったが、宝物殿ではいすや床に座って、説明を聞くことができた。間近に見る阿弥陀如来、四天王など26点の国重要文化財はすばらしかった。下山は緩やかな回り道を戻り、途中の白髭神社などをガイドの説明を聞きながらバスに向かった。
16:30 太田道灌の胴塚見学 太田道灌は特に江戸城の築城者として有名。文明18年(1486)主の上杉定正は、糟屋の扇屋上杉館に誘い、入浴中の道灌を殺害した。
15:00 現地発。山口さん、滝沢さんからミカン1箱差し入れがあり、1人3個いきわたる。動いたあとのミカンの味は最高だった。
19:50 我孫子着解散
企画していただいた原田さん、岡田さんありがとうございました。
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大山不動豆知識 鉄の不動明王が何故錆びないのか 原田 慶子 |
好天に恵まれ、大山詣も無事終わりましたが、皆様からの電話に共通して疑問を持たれたのは「鉄の不動明王が何故錆びないのか」ということでした。百科事典は勿論、図書館では司書の方とも一緒になって探したのですが、鉄不動についての説明にも錆に関する記述はありません。そこで、古くから造られている南部鉄器に目を付けて調べてみました。
ご存知のように南部鉄器は鉄瓶や茶釜などで見られるように、黒光りした美しさと、錆びない強さで有名です。あの底光りが鉄不動によく似ているのではないでしょうか。
古来、南部地方は豊富な砂鉄を原料とした鉄器の生産地であることはよく知られていることです。そこでは鋳造された鉄器に錆止めとして鉄漿(お歯黒)を塗り約900度の炭火で焼いて酸化被膜を付け、さらに600度まで焼き戻して生漆をかけて仕上げるという生産方法が行われていたと言われております。
鉄漿は平安時代から公家の男女が付けていたが、鉄片を酢に漬け酸化鉄液とした悪臭のある液に五倍子(ふし)の粉を混ぜたものです。五倍子とはヌルデの若芽や若葉などに寄生した瘤状の虫?(ちゅうえい)をタンニン材として黒い染料、インク、梁織用に使われました。南部では今も1個々々手作りされており、荘厳にして美しい黒不動を鋳造したのは願行上人御一人でなく、工人は南部系統の技術者ではなかろうかと推理してみました。或いは更に黒漆をかけて仕上げたのかもしれせん。
今回は拝観できなかった秘仏の日向薬師、美術書にも載っている鉈彫りの本尊と鉄不動を一度に見られるのは一月八日です。寒に入る頃なので温かい時季に拝観したい人は四月十五日の薬師開帳に合わせて大山寺に拝観予約するという方法があります。但しガイドを通してでないと大山不動は予約できないと思いますが。今回依頼したガイド氏は大変親切な人で、道灌塚では詳しい説明もあり興味深い話満載でした。程よい甘酸の美味な日向産の蜜柑も、ガイドからの差し入れで感謝して賞味しました。
時間の関係で良弁滝はカットしましたが、茶湯寺への参道脇にかなりの水量の滝が足下の崖にありました。あれは名無しの滝で、公式的には七滝ですが、実は名無しの滝は幾つもあるとのことでした。大山が名水の地と言われるのも尤もなことですね。
・歴史探訪部会11月の活動 長谷川 秀也
探訪11月6日(水)大山(阿不利神社)紅葉を愛で、楽習
参加人数29名(含一般参加2名)大型バスにてJR我孫子駅北口発 7:00同所着19:50穏やかな晴天に恵まれ予定通りの行程を修了。有意義な、楽しい探訪になりました。幹事の岡田さん、原田さんありがとうございました。
歴史探訪部会<座学>の案内
場所:アビスタ第二学習室
演題:伊勢講と伊勢参り
日時:2014/1/10(金)13:00〜15:00
参加費:\200(資料代)
講師:飯白和子会員
予約:不要
<伊勢講と伊勢参り> 飯白 和子
『湖畔吟』に「伊勢参り」と題して、我孫子町の様子を次のように記している。
「…例によってばんばんと花火の音が昼頃から聞こえるので、何事だろうかと通りがかりの人に聞いて見ると、香取様の境内へ記念碑が立つのだという。何の記念碑か問へば、去年お伊勢様に参った者の参拝記念碑だという。
この村では、お伊勢様に参ることが一生の一大事となっている。悪い事では無論ない。この一大事の為に、村人の間では、前以て少いのは十四五人、多いのは四五十人で講を作って、月に1円何がしづゝの金をかけておく。それを七八年の長い間つゞけて、一人あたり百円ぐらいになったところで、講中が老若男女打ちつれて、お伊勢参りに出かけるのである。これ位の長い間の丹精だから、何さま一生に一度の大事と騒ぎ立てるのも無理はない。二度と行けないと皆覚悟している。(略) 」
(『楚人冠全集』第5巻『湖畔吟』8頁)。
江戸時代から、「一生の一度の伊勢参り」といわれ、「伊勢に行きたい 伊勢路がみたい せめて一生に一度でも」、「わしの国さは お伊勢が遠い お伊勢恋しや 参りたや」と歌われた伊勢音頭(『江戸の旅文化』神崎宣武著2頁)は、伊勢の川崎の妓楼で歌われたものが、古市の妓楼で伊勢踊りとともに歌われ、それが伊勢参りの返り歌として巷に広まったともいわれている。
江戸から伊勢参りするには、今野信雄氏の試算では片道12日かかり、嘉永6年(1852)で往復4両は準備しておく必要があった(『江戸の旅』177頁)という。当時の成人男子の年季奉公人の賃金が2両から2両2分であったことを考えると、やはりおいそれと行けるものではなかった。
市内の旧村々でも、文化・文政期頃から伊勢講が作られ、代参による伊勢参りが盛んとなった。根戸村では、文化6年と、文政10年(1826)に講中により奉納された燈籠が北星神社に現存している。
資力のある者は、個人でも参詣をしている。柴崎村の名主川村磯右衛門(源兵衛)は、「一生に一度」どころか4度も伊勢参りをしていた。しかも、3度目の参詣は花野井村の名主吉田甚左衛門の代参として、伊勢の外宮と内宮に常夜灯を奉納するためのものであった。
伊勢講で集めた講金は、村金融としても活用されていた。また、伊勢参りの旅は、長いものでは2〜3ヵ月かけて奈良・大坂・四国金比羅・京都から木曽路に入り善光寺・妙義山・榛名山などを参詣して帰村している。これらを、「伊勢太々講連名帳」、「太々講取立入用帳」などの資料や、また「道中日記帳」、「覇旅漫筆」などの旅行記から、伊勢講と伊勢西国筋の旅の実際を紹介したい。
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我孫子市の社寺を訪ねる 2 −台田・根戸新田− 合同部会 近江 礼子 |
北星神社 我孫子市台田4‐11(字北ノ内)
交通量の激しい国道6号線沿いに位置するが、境内は大木に覆われ、都会の鎮守の森の雰囲気がある。明治初期に根戸村の村社となり、明治9年に「北星神社」と改称されるまで「妙見宮」「妙見様」と呼ばれた。祭神は天御中主命[あめのみなかぬしのみこと]。「妙見宮」の時は妙見菩薩1)であった。
常磐線で分断されているが神社の南の森の中(荒追)には中世の根戸城址2)がある。この地域から中世集落址・井戸・墓域・陶器・銭貨、そして暦応4年(1342)から文安4年(1447)に至る板碑が出土している。居城した根戸氏(相馬氏)は北斗七星を神格化した妙見菩薩を信仰した。妙見菩薩は国土を鎮護し、災害を滅除し、人の寿福を増すとされる。さらに根戸城址の西に5世紀前半頃の金塚古墳がある。
また、神社の東側に中世館跡の一部ともみられる法華坊[ほっけぼう]遺跡がある。現在は法花坊[ほうかぼう]公園となり、昭和55年11月吉日建立「我孫子市根戸土地区画整理事業 竣工記念碑」(同52年1月組合設立、9.4ha)が建つ。
宮司は、明治41年4月7日に久寺家の社掌飯田農夫雄氏が辞職。同12月4日以降、明治44年当時は布佐竹内神社の社掌坂巻七三郎氏が兼務。大正9年までは我孫子の香取神社の祠掌飯田氏の兼務、大正11年1月からは柴崎神社の湯下氏が兼務し、現在は湯下正博宮司である。
特に1日と15日の午前はお参りの人が多い。
1. 縁起・社史
中世に相馬氏が所領した時代の創建とされる。伝承では、北西に根切[ねぎり]の田があり、そこから出土した妙見様が花戸原[はなとはら、通称かなずばら・かなづっぱら]の妙見塚を経て現在地に祀られたという。これは中世以来の荒廃から集落の鎮守として再生するに至った経緯を物語るとされる。守谷(茨城県守谷市)に妙見本祠があり、そこより勧請との説もある。
文政7年(1824)の根戸村明細帳に、妙見大菩薩、別当東陽寺、但し1村鎮守、祭礼9月22日、先例正月22日奉謝[ぶしゃ]とある。末社に三峰社がある。
明治41年(1908)2月27日に千葉県知事の認可を経て、次表のように吾妻大明神社・香取社・天神社・第陸[ろく]天社・稲荷社・白山社の6社を合祀し、その碑を境内に建て、同年3月5日に合祀祭を執り行なった。そして、昭和49年に台田の八坂神社が焼失したため、当社に合祀された。
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合祀社 |
祭神 |
元字名 |
北星神社境内 |
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吾妻社 |
日本武尊 |
池尻 |
文政4年石塔 |
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香取神社 |
経津主命 |
上屋敷 |
明治41年石塔 |
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第六天社 |
面足命 |
荒追3) |
嘉永6年石塔 |
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稲荷神社 |
倉稲魂命 |
花輪 |
明治41年石塔 |
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白山社 |
伊弉冉尊 |
中馬場 |
社殿・石塔なし |
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天神社 |
菅原道真公 |
上屋敷 |
明治41年石塔 |
表を見ると、吾妻社と第六天社は合祀に伴い元の社地から石塔を遷し、香取神社・稲荷神社・天神社は木祠だったので新たに石塔を建てたことがわかる。境内に白山関連の社殿や石塔は見当たらない。因みに白山社は平成15年頃まで、旧水戸街道沿いの東陽寺の向い側にあった。
なお、明治13年10月の2万分1フランス式彩色地図には諏訪祠と見えるが、理由は不明である。
2.堂宇
明治の神社明細帳では、境内坪数505坪。

−北星神社の社殿(手前に1対の亀像)−
・社殿−昭和58年の社殿改築以前には、本殿覆屋の前に拝殿及び相の間があり、参道には木造の両部鳥居(権現鳥居・四脚鳥居とも。柱頭に台輪が付く)が建っていた。明治の神社明細帳に社殿間口4間・奥行5間とあり、現社殿改築以前の本殿覆屋の規模と推察される。後述の棟札や基壇部に天保4年(1833)とある。
現社殿は鉄筋コンクリート造りの拝殿・幣殿・本殿が連続している神明造4)の形式で、その内部に旧木造本殿が納まる。旧本殿は板葺の一間流造、浜床から高蘭付の木階[きざはし](=階段)を登り、身舎[もや]に縁を回らす。向拝・身舎の壁面・縁下周辺に人物・花鳥・波涛等の肉厚な彫刻が施され、豪華な建築である。社殿内部は天井が高く大変立派で、太いヒノキの柱は圧巻である。社殿扉・屋根・賽銭箱・祭壇等に、中央に大きな星を置き周囲に8個の小星を付した九曜紋が確認できる。
「北星神社改築御造営記念碑」によると、昭和58年7月5日着工、同59年8月30日竣工。竣工日は昭和59年10月22日、事業費総額2億7600万円。
・合祀社殿−昭和58年の社殿改築時に6間1棟(1堂間口約半間、11堂)の切妻造長屋型合祀社殿、社務所・客殿、石造神明鳥居、手水舎等が建立された。鳥居から社殿に向かって左側に合祀社殿があり、左から香取神社・八坂神社・第陸天社・吾妻大明神・天神社・三峰神社(末社)・金比羅神社・不動明王・稲荷神社・待道大権現の10が祀られ、右端は納札所である。合祀社殿が出来る前は、社殿の周囲を囲むようにばらばらに祀られていた。
・客殿−社殿と廊下で繋がる。旧鳥居の扁額「北星神社」、旧社殿・旧鳥居の写真や絵、昭和59年の新社殿竣工式の祝詞、文書「妙見大菩薩奉謝 諸仏救世者/住於大神通/為説衆生故/現無量神力 慶応二(1866)丙寅星正月廿二日 別当東陽寺」(/は改行を示す)が額に入り掲げられている。
3.社宝
〇大杉祭の舟神輿−昭和30年頃までの3月27日・28日と4月27日・28日の大杉様の祭に用いられ、長さ約2m。大杉様は茨城県稲敷市の大杉神社を勧請した祭で、神輿は明治以前の作とされ、中央に流造の社殿と3本の鳥居が立つ。現在は千葉県立関宿城博物館に貸出中。「8.講」の大杉講参照。
〇鰐口−天保8年(1837)の青銅製「当村河村氏女」
〇棟札
・表−社殿再建時とされる「東陽寺住現阿代 鎮守造立世話人 名主新左衛門 組頭弥右衛門 同孫右衛門(他12名) 香取郡笹本村同栄蔵 天保四(1833)巳四月」が確認できる。
・裏−「天下泰平 五穀成就 (梵字カ)奉再建鎮守妙見宮村内安全氏子繁盛如意祈攸 弘化四年(1847)未十一月廿三日 下総国相馬郡根戸村 別当東陽寺栄寿代」とあり、天保4年後の再建を示す。しかし、その間は14年間である。天保4年の面は一般的な棟札の書式を取っていないので、後世に書かれた可能性が高い。


−天保4年(表面)− −弘化4年(裏面)−
したがって、弘化4年の面が表と考えたい。
〇奉納額など
・明治18年(1885)の社号掛図「北星神社」
・明治35年正月吉日の木額「御神楽道具寄附紀念 妙見」
・明治39年11月の木額「奉納 大願成就 日露戦役出征者(11名) 取手福田運章作」
・明治44年9月吉日の木額「妙見宮 施主森田氏」
・昭和3年7月28日の賽銭箱「奉納 富士山 大山 高尾山登山紀念」(九曜紋)
・昭和27年3月8日の額「奉納 伊勢参拝記念」
・昭和30年10月18日の額「関西聖地巡拝記念」
・昭和33年4月吉日の額「伊勢神宮参拝記念」
・太鼓「奉納 北星神社」(九曜紋)
・その他、昭和35年出雲大社、昭和36年伊勢神宮、昭和40年額「九州全土一周旅行記念」等がある。明治9年に北星神社と改称されても、妙見宮と長い間通称されていたことがわかる。また、氏子による伊勢神宮をはじめとする富士山・出雲大社など各地への社寺参拝が盛んな地域であった。
4.石仏石塔
これまで不明とされた鳥居左前の木祠は、中に石祠「??宮」があり、堰u享和三亥(1803)十月吉日」、「六左衛門(他2名)」、台座「納」と刻まれている。
・文化3年(1806)・文政12年(1829)・安政3年(1856)・安政4年の「馬頭観世音」
・文政4年「吾妻大明神」(明治41年合祀)
・文化10年・慶応2年(1866)・明治16年の「山神宮」
・文政13年・嘉永5年(1852)・年不明の「待道大権現」
・文化12年・嘉永5年の「十九夜塔」
・嘉永6年「第陸天」(明治41年合祀)
・文政3年「疱瘡神」
・天保9年(1838)・弘化3年(1846)の二十三夜塔
・安政6年「筑波山両宮供養塔」
・天保6年2基・天保9年2基・同12年2基・同14年2基の「青面金剛」、嘉永4年「庚申塔」、安政4年「庚申塚」
・明治22年(1889)「妙見社」
・明治23年の不動明王像「清安山」(つくばみらい市板橋不動院)
・亀趺[きふ](本来は亀の形をした碑の台石)が1対。
5.年中行事
〇現代の行事=1月1日の元旦祭、2月の節分祭、10月22日の例大祭、11月15日の七五三、12月31日の大祓。毎月1日・15日に月次祭。
・例大祭=昭和59年から毎年10月22日(元は陰暦の9月22日)。来年平成26年には、現社殿竣工日を例祭日としてから30年を迎える。平成25年の例大祭は同日午前11時から社殿にて氏子約60名が列席し神事、同11時45分から社務所において直会が行なわれた。
鳥居前には「北星神社例大祭」の大きな案内板が立ち、拝殿入口正面には九曜紋が染め抜かれた紺の幔幕が張られた。氏子総代4名も背に九曜紋、襟に「北星神社」「氏子総代」と染め抜いた紺の法被を着用した。
奥の祭壇には3本の金幣束が横一列に並び、その前の中央には鏡が安置されている。手前祭壇の供物は次の通りすべて三宝に載っていた。
中央の真中・・・米
同右・・・神酒
同左・・・昆布・スルメ
向かって右側・・・リンゴ・グレープフルーツ・柿、カブ・ほうれん草
向かって左側…塩・水、みかん・バナナ
<神事の式次第>
(開式の辞、太鼓。司会進行役は氏子総代)
一 修祓・・・起立、低頭
一 宮司一拝・・・宮司に合わせ一礼、着席
一 開扉の儀・・・低頭
一 献饌[けんせん]
一 宮司祝詞奏上・・・低頭
一 玉串奉奠・・・宮司→顧問→監査→市会議員→根戸上町会長→根戸中町会長→根戸下町会長→根戸新田町会長→北柏台町会長→氏子総代(進行役を除く3名一緒、筆頭総代が代表で玉串を供える)
一 撤饌[てっせん]
一 宮司一拝・・・起立、宮司に合わせ一礼、着席
(太鼓、閉式の辞)

−例大祭の宮司祝詞奏上−
御札「家内安全 北星神社祈祷之璽」等を受け取り、御神酒を戴き、直会の席に移動。氏子総代による司会進行の下、宮司・顧問・市会議員の挨拶があり、氏子筆頭総代による御礼の言葉があった。直会終了後に本殿は宮司により閉扉された。
・七五三=平成25年は11月2日・4日・10日の午前10時から午後3時まで、七・五・三修祓が行なわれる。
・ビシャ=昭和29年迄、我孫子と柏の根戸地区5軒から8軒位が1組となって、12組が毎年輪番で当番となった。正月22日の春ビシャには、区内全戸が集まり決め事を話し合った。11月17日の秋ビシャは代表者だけが参加した。昭和29年に根戸地区が我孫子と柏に分割されると、中坪・下坪・新田坪(我孫子市)と上坪(柏市、11月22日と変わった)に分かれて行なうようになった。昭和23年10月の寄進札「奉納 子戸 一金壱千円也 奉謝第三番組…」がある。
・香取ビシャ=中坪・下坪・新田坪の9組からなり、毎年当番は輪番で2人ずつ。昔、香取神社はビシャ田・ビシャ畑を持ち、当番が耕作し、一番トウの当番宅でビシャを開き、ビシャの費用を賄った。そして家族でお呼ばれに行った。台田のビシャ田は駐車場になり、収入は北星神社に納める。今は会費制により社務所でビシャを行なう。組には組頭(班長)がいる。現在は1月22日に春ビシャ、11月17日に秋ビシャ。
・上ビシャ=上坪(柏市根戸)のオビシャで3組からなる。昔、着色した神像(妙見尊像)を北星神社からオカリヤに遷座し、祭が終われば戻した。神像の冠の上には柄杓の形をした7星が枝状に付けられている5)。現在は1月22日に春ビシャ、11月22日に秋ビシャを行なう。
・マチ=昭和20年代迄、秋ビシャの時には東陽寺の境内に芝居がかかった。芝居は青年団が中心となり2、3年に1度、埼玉県のトネリ(舎人ヵ)から歌舞伎芝居を呼び、夜の7時から11時頃まで2日間にわたって「義経」「国定忠治」「巡礼お鶴」など10幕位を演じた。花銭(観覧料)を納め、収益は青年会の飲み代[しろ]となった。10月22日の例祭を一番マチ(待)、11月17日を二番マチといい、農休日であった。
・オコモリ=毎月1日・15日・21日の午後1時から北星神社の拝殿で開かれる。オコモリ講は女性5名・男性1名の計6名で、70代、80代が中心。拝殿左に大太鼓、正面に小太鼓2個が横に並べて置かれ、数取りの人と大太鼓を叩く人は床几に腰掛け、他は正座。小太鼓は2本の撥を持った2人が叩く。
数取りの「北星神社 御真言」「おんそちりや しやたそわか」の声掛けで、講員が「おんそちりや しやたそわか」を15回繰り返す。これは北星神社の御真言で、続いて香取神社の御真言「おんろうけ じんばら きりこうそわか」を同じように15回繰り返す。このように「弁天様」「八坂神社」「第陸天様」「吾妻様」「天神様」「三峰様」「金比羅様」「八幡様」「水神宮様」「不動明王様」と12の御真言を唱和する。各真言の14回目が終わると、数取りが15本の紙縒りを束にした数取り紙縒りを右手で前に掲げ、次が15回目の最後であると知らせる。

大太鼓と小太鼓が響く中での御真言には、強い神威を感じるほど荘厳で圧倒される。
その後、「北星神社 宮念仏」が始まる。大太鼓は叩かず、小太鼓を1本の撥を持った4人で叩く。宮念仏は1回のみである。
北星神社 宮念仏
さあても見事な おや お宮だち
やれ 鷹が住むやら おや 鈴の音
やれ 鷹が住まぬで おや 禰宜が住む
禰宜の神楽の おや 鈴の音
やれ 黄金の鳥居の おや その下で
やれ 麻の布いが おや ただ五尺
やれ 花でなくして おや 茶で染めて
やれ 産土様へと おや 鐘の様に
やれ お祝い念仏 南無阿弥陀
ご祈祷念仏 南無阿弥陀
やれ 産土様へと おや 詣り来て
やれ 嗽いちょうずで おや 身を清め
やれ 鰐口ちょぞい おや 打ちならす
はちすの頭を 地につけて
十の指先 差上げて
やれ 数珠をさらさらと おやおがむべし
やれ お祝い念仏 南無阿弥陀
やれ ご祈祷念仏 南無阿弥陀
一念弥陀仏 即滅無量
ざいけんぜむびらく
ごしょうしょうりよう 南無阿弥陀
この間30分弱であった。念仏帳は個々人により表記が若干異なるが、問題はない。
柏市の資料には八幡・不動・天神・薬師など21の神名とあるが、薬師はなく実際は12である。寺念仏とは別であったが、昔は寺念仏講の老人が多かった。昭和期までは夕方から始まり、男女一緒で夫婦の参加もあった。
現在のオコモリ講では輪番で毎回当番を決め、当番は主に6名分のお菓子の準備をする。今は知り合いの商店に見繕ってもらう。会費は1回1人300円で、主にお菓子代となる。拝殿でのオコモリが終わった後は、客殿において午後4時頃までお菓子を食べながらの懇親会となる。これが非常に楽しみであるという。
〇昔の行事
・天神様=戦前の正月25日には天神団子といって、大人が北星神社の天神様に御団子25個を重箱に入れて奉納した。
6.氏子組織
明治の神社明細帳では氏子116戸。明治44年氏子121戸、総代4名。昭和29年に根戸地区が我孫子市と柏市に分かれたため、氏子は両市にまたがる。現在は氏子130戸。柏市の上、我孫子市の中・下・新田の4坪から、それぞれ氏子総代1名が推薦により選ばれる。4名の任期は4年で、平成22年4月から同26年3月まで。総代4名の話し合いで筆頭総代、会計2名、管理を決める。総代4名の推薦により、主に総代を務めた人の中から監査2名を選ぶ。
妙見宮は元は伊藤太郎左衛門家の氏神様、また伊藤家は妙見様の神主であったともいわれ、北星神社の顧問を代々務める。玉串奉奠の際には、常に伊藤家が一番最初に玉串を供える。
7.伝承
・弁天様の池−北星神社の南に弁天様(弁財天とも、柏市)の池があり、神様は妙見様だからとのことで、妙見の使いである亀が多く放されていた。その後、ガソリンスタンドが近くにでき、その油が流れ込んで立派な藤棚も大きな木も枯れてしまい、池も埋め立てられた。
・亀−亀は妙見様の使いなので飼ってはいけない。
また、亀甲柄の帯や着物を着てはいけない、お菓子も食べてはいけないと伝わる。根戸へ嫁に来る人は、嫁入り道具の中に亀甲柄がないように随分気を付けたという。
8.講
・大杉講(大杉様)−茨城県稲敷市の大杉神社へ若衆の年長者が厄病除け祈願の御札を受けに行き、帰ってから舟神輿を担ぎ太鼓と笛を鳴らしながら根戸の集落を廻った。家々では御散供[さんぐ](「さんご」とも。主に米。)や御賽銭を納めた。また舟神輿が集落の外れに来ると、大杉様の御札を竹に挟んで立てた。昔は辻切といって、注連縄も一緒に張った。4月の2回目の大杉様も舟神輿が集落内を廻ったが、辻札は立てなかった。この時は「種蒔正月」といって集落内の休みとした。青年団が解散したため、昭和30年頃に祭は中止となった。
・待道講−安産や子育てを祈願する待道講が、上・中・下・新田の各坪にあった。しかし、子供を産む年齢ではなくなったので、上坪は「あじさい会」、中坪は「若葉会」、下坪は「楽しみ会」と名を変え、単なる親睦会となった。実際の安産や子育て祈願は、近くのいろいろな神社やお寺に行った。上坪では若い嫁さん達が待道講を最近復活させた。
・その他、昔は雷神講・大山講・三峰講・伊勢講・三夜講・子ノ神講・富士講等があり、信仰が盛んな地区であった。今はどれもなくなった。
八坂神社跡 我孫子市台田3丁目1(字台田)
旧水戸街道と国道6号線が交わる交差点の南西に位置する。八坂神社は江戸時代は牛頭天王と呼ばれた。昭和49年の火災により焼失したため北星神社に合祀された。明治の神社明細帳に「字台田 無格社 八坂神社」として祭神須佐之男命、社殿間数間口2間3尺・奥行2間、境内坪数92坪、信徒人員585人とある。江戸時代の別当は東陽寺。境内は道路拡張等で少し狭くなった。
1.石仏石塔
現在は更地となっている。平成22年5月までは下記の石塔があったが、現在行方不明である。
・文化5年(1808)「待道大権現」
・文久2年(1862)の手水鉢「奉納 氏子中」
・明治24年(1891)・大正12年(1923)「二十三夜塔」
2.年中行事
昭和29年まで、7月18日(陰暦6月18日)に祭礼が行なわれていた。現在の柏市・我孫子市の根戸4坪(上・中・下・新田)が毎年輪番で当番となった。前夜の宵宮(17日)に北星神社の宮司(柴崎神社宮司の兼務)が来て当番坪の家に泊まり、翌日は神輿を出して根戸地区を廻った。神輿は昭和49年の火事で焼け残り、北星神社本殿向かって左脇の御垣内の中に納められている。
さらにそれ以前の祭は17日と18日で、前日の16日には青年団により北星神社前に4坪位のオカリヤ(御仮屋)が建った。17日の午後3時から4時頃になると、八坂神社(下)から北星神社(上)へ向けて神輿の行列が出発した。途中10ヶ所位で休息をとって、午後9時頃オカリヤに神輿を納めた。翌18日午後3時頃に神輿はオカリヤを発って八坂神社へ向い、八坂神社へ納まった。
水神社 我孫子市根戸新田126(字宮前)
台地の裾から手賀沼にのびた微高地に手賀沼に向かって鎮座し、祭神は水速命[みずはやのみこと]。背面は「ハケの道」、周辺は水田である。手賀沼畔の干拓が進んで沿岸の方に近年「手賀沼ふれあいライン」が開通した。昔から宮司はいないし、呼ばない。
水神社の北方に名代官羽倉外記ゆかりの根戸新田名主飯泉八十郎邸跡(根戸新田136)があり、立札「羽倉外記代官預所跡」も建っていたが、今はない。外記は天保の改革、八十郎は天保12年(1841)の排水路訴訟事件で活躍した。そして、八十郎は黒船来航に対する幕府の御台場築造の御用材輸送の功により幕府下賜の余材を受け、7年かけて万延元年(1860)に83坪の屋敷を完成させた。しかし、屋敷は近年取り壊され、敷地は分割されそれぞれに住宅が建った。
1.縁起
草創年代不詳。この地区の新田開発が始まったのは寛文年代(1661〜73)とされる。安永5年(1776)の「根戸村新田検地帳」には「水神前」として「長拾六間三尺 横拾間三尺 水神社地」とあるので、創建は江戸中期以前と考えられる。明治年代の「神社明細帳」には「根戸新田字宮前 村社 水神社」とあり、「社殿間数 方弐間」「氏子数三戸」と見える。吾妻大明神と天満宮が合祀されたが、時期や元の場所は不明。境内は141坪。天保期(1830〜44)頃、境内の大木5本が大暴風により倒れたという。
2.堂宇
・社殿−大正14年修復、鉄板葺の入母屋造で向拝が付く。拝殿に内陣部分が接続し、背面は祭壇部分が突出している。素朴な造りであるが、正面と両側面の軒裏は隅の方の?[たるき]が扇形に広がる扇?になっていて珍しい。
・子安大師堂−鉄板葺の小祠。氏子神戸佐平治氏の祖父がどこからか迎えて来て祀った。厨子の中に木造弘法大師坐像が祀られていたが、10年位前に像が盗まれた。特に祭はなく、近隣の女性が安産や子育て祈願に来た。
・鳥居−元の木造明神鳥居は平成13年9月に倒れ、同年11月に木造の鹿島鳥居(神明鳥居に似た鳥居)が建立された。貫6)が柱の外まで出ており、笠木7)の両端は斜めに切ってある。柱の根元を土に埋め込んだ素朴な造作で、柱間203p。

−正面は水神社、左は子安大師堂−
3.石仏石塔
・文政13年(1830)11月・天保3年(1832)11月の庚申塔
・安政2年(1855)3月の石祠「吾妻大明神 神戸由左エ門 きの」
・安政2年3月の駒型「十三夜 二十三夜塔」
・文久3年(1863)4月の出羽三山・百観音霊場
・明治25年の手水鉢「奉納 願主日暮ナヲ」
・大正14年9月の富士山・立山・出羽三山・百観音霊場他巡拝塔
・大正14年10月14日の記念碑型の社殿修復碑
正面−「抑根戸新田に鎮まりませる此大神はいつの御代にか祀/りけん其は知り難けれど安政の昔大地震に次ぐに大暴/風あり二丈余る幾尺の大樹の数々吹倒され今又丈余の/大松樹あるを見ても最古き世の事とは覚ゆる然るを以/て此御社は人里遠く人々の参り拝するにも便りあしく将/自然に荒れ行きたれば此度氏子の人々相謀り力を合せ/御掟のまにへ壊てる御社を修復し此里の人々を長く久/しく守り幸ひ給ひなんかし扨て其の故由を聊か碑表し後/の世に伝へんと一言かきつゞりぬ/神戸佐平治謹白」(/は改行を示す)
背面−「・・・ 大正十四年十月十四日 金三十円 神戸有則殿 金二十三円 日暮清太郎殿 (23名略) 同(金)百円 修理担当人 神戸佐平治」(合計256円)
・昭和2年5月の「天満宮」
4.年中行事
・アケビシャ=10月14日夕方(午後4、5時頃)から午後9時頃。昔は「おこもり」といい、夜遅くまで根戸新田青年館で飲食した。今はお茶と食事で親睦を深める。
・水神ビシャ=1月15日。アケビシャと同じであるが、酒を飲む。
5.氏子組織
明治の神社明細帳には「氏子数三戸」と見えるが、新田を中心とする40戸の鎮守として祀られてきた。平成22年の根戸新田8世帯・24人。菩提寺は真言宗豊山派の根戸東陽寺と呼塚新田神照寺。念仏講は昭和58年以前になくなった。
注)
1)北極星あるいは北斗七星を神格化した菩薩。国土を鎮護し災害を滅除し、人の福寿を増すという。特に眼病平癒を祈る妙見法の本尊。千葉氏一族(相馬氏を含む)が信仰帰依。日蓮宗でも早くから祀った。柴崎の妙見社は明治期に柴崎神社と改称、我孫子の妙見社は香取神社に合祀された。
2)根戸氏を称する相馬氏が在城した(1290年代)とも、地名「道灌」の存在などから文明10年(1478)12月千葉孝胤と合戦に及んだ太田道灌の築城ともされる。天正中期から同18年(1590)の廃城までは高城氏の属城。
3)『我孫子市史 民俗・文化財篇』p529にある荒迫は荒追の誤記。
4)切妻造・平入で、屋根に反りがない。両妻に棟持柱を有し、柱掘立式とし、千木は屋蓋を貫通して高く聳える。また、茅葺屋根の頂に左右から泥障板(あおりいた)を加え、樋貫でつなぎ、その上に甲板すなわち甍覆を冠し、その上に鰹木をのせる。伊勢神宮正殿の形式。
5)『我孫子市史 民俗・文化財篇』p337
6)柱と柱とを横に貫いて連ねる材。
7)笠木=鳥居や門・板塀などの上にわたす横木。冠木[かぶき]
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井上家文書研究部会 質地証文 その1 清水 紀夫 |
はじめに
質地証文とは、「土地の質入に際して作成される文書」(『国史大辞典』)、また、質地とは、「金銭貸借のため担保として質入した土地の事」(同)である。と言われても、この引用だけでは何がなんだかわからない。それを解明するのがこの研究の目的である。一つの文書を取りあげて、丁寧に読み込み、考察を加えていく。其過程において、幕藩体制、封建制度下の「村」社会の構造を、それも相嶋新田の具体的な様子を窺い知ることができるのではないか、と思う。
まず、今回精読するサンプルを右に示す。
これは、明和九年(1772)、布佐村の廣右衛門が自らの土地・三斗蒔にある下畑1畝10歩を佐次兵衛に質入し、金3両2朱を借受けた時の質地証文である。
江戸時代の代表的地方書『地方凡例録』(寛政六年(1794)、日本史料選書@、近藤出版社1969.5)には、「質地証文通法ハ端書に質地証文と認め、字何の上中下、田畑何反何畝何歩、何箇処、当何の年より来る何の年まで何箇年季に相定め質地に入れ、金子何程借用いたし年貢諸役ハ金主方にて相勤むべく、年季明け元金皆済いたせば田畑受戻すべき極めにて…」とある。
土地が財産であることは今も昔もかわらない。それ故、村金融において取引物件となるのであり、質地証文とはすなわち権利書である。サンプル文書は「通法」の用件をほぼ満たしており、当時の形式に則ってきちんと作成されたものであることがわかる。 (以下次号に続く)
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質地證文之事 (井上基家文書 469) 一下畑一畝拾歩 字三斗蒔 此分米四升 右者当辰御年貢米永ニ差詰り、右地所質地ニ書入、金子三両弐朱 只今慥ニ請取、御年貢未進不残御上納申處実正也、年ノ義者当辰より来ル午?三ヶ年ニ相定申候、年之内金子返進いたし候ハゞ右地所無相違御返シ可被下候、若其節金子出来兼候ハゞ、為質流貴殿御持高ニ御加江可被成候事 一御公儀様御年貢者不及申諸役諸出銭、貴殿方ニ而明年より御勤可被成候、此地所ニ付諸親類者不及申 外より違乱申者少も無御座候、若横合より六ヶ敷申者御座候ハゞ、加判之者共何方?も罷出急度申訳ヶ仕、貴殿へ少も御苦労掛ヶ申間敷候、為後日證文仍而如件 明和九辰年十月 布佐村 地主 廣右衛門 印 證人 不動院 印 組頭 治右衛門 印 名主 又左衛門 印 相嶋新田 佐次兵衛殿 |
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歴史部会10月の活動と11・12月の予定 関口 一郎 |
[1]10月の活動(10月27日)
第53回『字誌』研究講座 出席者21名
当研究講座は当初北近隣センターで、小熊興爾氏を講師として行う予定であったが、台風27・28号の影響で、予定会議室が「避難所」として使用されることになり、急きょ「NPO法人ACOBA」(我孫子市本町3丁目)の「ABIKOs会場」で行うことになった。
(1)今回の講座の趣旨は、我孫子生れで、我孫子育ちの小熊興爾氏(八坂神社氏子代表)から、我孫子の古い時代からの土地、地名の位置・呼称・由来、また年中行事、生活慣習、地域開発の様子などを質問形式で問い、応答していただく形式で進行することにした。したがって、事前に質問事項や地図などの資料等も添付して、小熊講師に提出しておいた。
具体的には@志賀直哉の作品にみられる布施弁天への当時の道路行程、A我孫子宿の範囲(地番との関係)、B合祀された寺社の旧跡などの質問があった。香取神社参道と天子山(天子社)との関係(天子山への松並木は逆に香取神社への参道であったといわれていた)、我孫子の呼称と「あびこごろざえもん(我孫子五郎左衛門)」(この豪族が天子山にあった城の主だったという)の関係など珍しい話も出た。「峠」→「ひよ」→「切通し」などの解釈もあった。
また、C「上町(かみまち)」「下町(しもまち)」の範囲、D「白山」→しらやま、はくさんの呼称、E八坂神社と「大杉祭り」の関係、F本町にあった「延寿院」が子之神大黒天に移った事情、G昭和30年代にあった映画館・銭湯などの位置、H山下清のこと、I手賀沼の渡し場、井戸、燃料、馬による運送、J久寺家、造成前の「つくし野」は日当たりのよい地域(泥鰌取り、ザリガニ取りの話など)K旧日立精機の地図をもとに、一里塚の位置(旧街道で本町一丁目からJRガードをくぐる道への信号のある三差路の辺の西側で南北にあった)、6号線エスパの向かい側の高台は我孫子外科とつながる山林であり、日立精機が買収した。L小学校の遠足は1-2年はゴルフ場やサツマイモ畑、大きくなると取手や布施弁天などへ行ったことなど多くの話がうかがえた。
≪今回は、香取神社・八坂神社を調査されていた松本庸夫顧問を通して小熊興爾氏の紹介を受け、たいへん参考になりました。続けて質問のある方は取り次ぎをします。また、今後も適任者がおりましたら、推薦していただきたいと思います。≫
(2)研究会の後半は、字誌編集委員会で討議・作成した「『字誌』執筆要項」(A5判10頁)の説明を関口が行い、質疑を受けた。これを整理したものをメール上で示し、さらに質問や訂正があり、小字名と地図上の表示の整合性(消滅した小字名もあり)等について、編集委員会で討議することにしている。
[2]11・12月の予定
11月24日(日)・第54回『字誌』研究講座
@報告者・中澤雅夫会員(青山1〜4丁目、青山、南青山、日の出、北新田) A各地域の「執筆事項」に関する問題点等の討議。
12月22日(日)・第55回『字誌』研究講座
@報告者・岡本和男会員〔下ヶ戸〕 A各地域の「執筆事項」に関する問題点等の討議。
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合同部会11月の活動(11/16) (中澤 雅夫) |
1.第4回社寺調査:
八坂神社(白山)、香取神社(緑) 参加者17名
けやきプラザに10:00集合、八坂神社(担当:吉田とし子さん)と香取神社(担当:江澤由紀子さん)を調査、そのあと、第2回調査報告原稿(台田北星神社・根戸神宮水神社、担当:近江礼子さん)と第3回同(久寺家鷲神社・宝蔵寺、担当:中川健治さん)について検討した。あとで気の付いた点があれば連絡し合う。
なお、ガイドクラブ山本忠敏会長から岡本事務局長宛てに、「新四国相馬霊場八十八ヶ所」について、明年2月8日(土)10:00〜11:30から2〜3回に分けて講演をしてほしいとの依頼があった旨報告、部会員の了解を得た(講演者未定)。
第4回調査の概要は以下の通り。
1)八坂神社:氏子総代の小熊興爾さんにお出で頂いて、同社は疫病の流行った江戸時代の文化文政期に京都祇園の八坂神社(当時は「天神堂」)を勧請した、祭神は他の八坂神社と同じく素戔嗚尊、祭礼は京都に合わせて7月17日であるが、最近は海の日(7月第3月曜日)の前の土・日曜日としている、総代に就任した時に京都の八坂神社へ挨拶に行った、神輿は香取神社に置いてある、氏子は特定しておらず、近隣住民全体の守り神である、同社は香取神社の支神社である、などの話を伺った。なお、小熊さんには10/27(日)の歴史部会で我孫子についての説明をして頂いている。
2)香取神社:氏子総代代表の渡辺慶一さんに堂内へ入れて頂き、概要次のような話を伺った。「祭神は経津主命、例大祭は11月3日、柴崎神社の宮司に祝詞をあげて頂く。本殿の扉が開けられるのはその時だけ。大晦日15:00に宮司が来て年越祭、元旦11:00に元旦祭。毎月1日と15日にお燈明とお榊を供える。大体1日には近所の方が集って見える。祭礼の2〜3日前には清掃する。堂内は氏子総代代表が行い、境内はボランティアの方がしてくれる。社務所は町内会なども使用、空いていれば一般の方も使用可能。室料は現在1回1,000円。」
2.今後の予定:
12月はこれまで部会の後、昼食忘年会を行ってきたが、今年は興陽寺の調査が午後2時からとなったので、その終了後、ちょっと狭いが、午後5時より「海華」2階で行うこととなった。
1、2月は室内で勉強会の予定。 以上
各部会12月の活動予定
| 部会と集まり | 日 | 時 | 所 | 担当 |
| @古文書解読日曜部会(第2日曜) | 12月8日(日) | 13:00 | アビスタ 第3学習室 |
佐々木 豊 |
| テキスト 高田家文書 「手賀沼稼船御改ニ付書類」 | ||||
| A古文書解読火曜部会(第3火曜) | 12月17日(火) | 13:00 | 我孫子南近隣センター 第1会議室 |
古内 和巳 |
| テキスト 「五人組帳前書写」 | ||||
| B歴史部会 第55回字誌研究講座 「下ヶ戸」 |
12月22日(日) | 13:30 | 我孫子北近隣センター 並木本館会議室 |
関口 一郎 |
| C合同部会 社寺調査(5) 興陽寺調査(あと忘年会) |
12月21日(土) | 13:30 | けやきプラザ 1階ロビー |
中澤 雅夫 |
| D歴史探訪部会 「野田市周辺をめぐる」 |
12月4日(水) | 9:30 | 東武野田線 愛宕駅改札(小雨中止) | 田中 由紀 |
| E井上家文書研究部会(第2土曜) | 12月14日(土) | 13:30 | 我孫子北近隣センター 並木本館会議室 |
品田 制子 |
| 井上家文書目録整理 | 12月2,16日(月) | 10:00 | 湖北小(展示室) | 岡本 和男 |
| 12月度運営委員会 (市民フェスタ、歴史講演会、古文書解読講座他) | 12月24日(火) | 9:40 | 市民活動St. | 岡本 和男 |
| 「我孫子市民フェスタ2013」参加 展示と講演 「我孫子の将門伝説」 |
11/30土、12/1日 | 下記 | アビスタ2F | 岡本 和男 |
・本の寄贈を受けました。
再び柳町敬直会員から、同氏が代表を勤めている敬文舎が発刊した「私の最新講義シリーズ」の一つとして、最新刊の渡辺尚志著『近世百姓の底力』を寄贈してくださいました。このシリーズの刊行のたびに、寄贈を受けております。深く感謝申し上げます。
昨年2月12日当会と教育委共催歴史講演会で、渡辺先生から「村からみた江戸時代」と題してご講演をいただいたことは、記憶に新しいと思います。ご希望の方に貸し出しいたします、事務局へ連絡ください。
・「我孫子市民フェスタ2013」が開催されます。
前号でお伝えしたように、11月30日(土)と12月1日(日)アビスタを主会場に午前10時から午後4時(日曜は3時)まで種々のイベントが行われます。
市史研では文化分科会に属して、展示とミニ講演会で参加します。
今年のテーマは「我孫子の将門伝説」。
展示はアビスタ2階のガラスケース、ミニ講演会は11/30(土)11時〜12時アビスタ2階ミニホールと12/1(日)11時〜12時第4学習室で講師として三谷和夫会員、茂木勝己会員がそれぞれお話をする予定です。
・歴史講演会、古文書解読講座などの予定
(詳細は追ってお知らせします。)
<歴史講演会>
日時:平成26年2月1日(土)14:00〜
場所:千葉県福祉ふれあいプラザ(けやきプラザ)ホール(2F)
演題:「平将門と我孫子の古代」
講師:川尻 秋生氏(早稲田大学文学学術院教授)
参加費:会員無料
<第12回古文書解読講座>
日時:平成26年2月7、14、21、28日(各金曜日)9:30〜11:30
場所:けやきプラザ・7F研修室
講師:清水 千賀子会員にお願いしています。
参加費:従来どおり
事務局 〒270−1132 編集・発行 編集委員会
我孫子市湖北台5-15-17 岡本方 TEL. 04-7149-6404
電子メール:gasonsi@jcom.home.ne.jp
市史研ホームページ:http://abikosisiken.main.jp/