平成24年10月27日発行 我孫子市史研究センター会報 第128号 通算435号
編集:編集委員会第128号
| 第9回会員研修 利根町探訪 | 荒木 龍 |
9月12日水曜日、会員21名が参加して利根町探訪を実施しました。JR布佐駅からこうもう神社までの約8キロの行程を厳しい残暑の下、全て徒歩で移動するという過酷な日程で行いました。参加された会員の皆様、大変お疲れ様でした。
コースはJR布佐駅に集合、利根川に架かる栄橋を渡り、利根町布川地区へ。布川台地の東端にある琴平神社から台地の縁を回るようにして徳満寺、弁天社、来見寺、布川不動、赤松宗旦旧宅、布川神社、柳田國男記念公苑まで歩き、昼食。公苑内の資料館を見学した後、右に利根川の堤防を見ながら田園地帯を歩いて中谷地区の利根町歴史民俗資料館を、さらに歩いて立木地区の台地上にある、こうもう神社奥の宮を見学しました。
布川琴平神社から探訪スタート
琴平神社。戦国期の布川城の大手にあたる場所といわれていて、隣の徳満寺との間に空堀と土橋が残っています。小林一茶が琴平相撲の様子を詠んだ句碑が境内にあります。
徳満寺。利根川図志には徳満寺で行われた地蔵市の様子が描かれています。布川城の本丸にあたる場所で土塁が僅かに残っています。柳田國男少年の心に強い衝撃を与えた「間引き絵馬」は本堂の中に大切に飾られていました。
弁天社。旧水戸街道をたどり民家の間の雑草の生い茂る狭い道の先にありました。ここにも一茶の句碑があります。
来見寺。布川城主の豊島氏の菩提寺です。創建当時は頼継寺といっていました。徳川家康との深い所縁もある寺です。赤門、豊島氏の墓、松替えの梅、赤松宗旦の墓を見ました。利根川図志によると江戸城には来見寺から贈られた「梅替えの松」があったそうです。
布川不動。鎌倉時代に造立された仏像が安置されています。そういえば、この辺りは「中宿」という場所です。布川地区には今でも内宿、浜宿、中宿、下柳宿、上柳宿という宿場の名残の地名が残っています。
赤松宗旦旧宅。建物は当時のままに復元されていて利根川図志に関する展示がされています。利根川図志を執筆していた頃の赤松家の雰囲気が味わえました。
布川神社。利根川図志では「布川大明神」となっていて、お祭りの様子が描かれています。石段の下では「ツク舞」という舞が行われていました。今ではもう行われていませんが隣の龍ケ崎市ではまだ行われていて、龍ケ崎市の博物館ではツク舞の展示があり様子が詳しく分かるようになっています。
柳田國男記念公苑。柳田國男が少年時代の数年間を過ごした小川家の跡地に建っています。私が住んでいた頃は役場が建っていました。職員の方のご好意で座敷で食事を摂らせて貰いました。食事後、記念撮影をして、資料館を見学しました。資料館はかって小川家の書庫でした。ここで柳田國男が本を読み漁ったのは有名な話です。展示品は少ないものの柳田國男の足跡がよく分かりました。
利根町歴史民俗資料館。展示は利根町の通史、柳田國男に関する資料、利根川図志に関する資料を中心としています。利根町の歴史が分かり易く展示されています。学芸員さんの丁寧な説明もとても良かったです。展示されていた複製の土器は全て職員の手作りなんだそうです。
こうもう神社奥の宮。資料館から北へ向かい、台地上にありました。途中、新利根川を渡りました。江戸時代の初期、利根川の本流を新利根川にした時期があったそうです。今ではその面影はなく、大きな用水路といった趣でした。こうもう神社は社伝によると紀元前の創建で平安時代の「延喜式神名帳」に名前のみられる古い神社です。宮司さんのお話が面白かったです。龍ケ崎の名前の由来が実はこうもう神社一体の地形にあったとは驚きました。
今回の探訪では私の故郷、利根町をご紹介できてとても楽しかったです。参加者の皆さんに十分に魅力をお伝えできたとは思いませんが、僕自身は新たな発見もあり、会員の皆さんと親しくお話できて、とても有意義なものでした。見学した場所の方々には詳しい説明や休憩場所の提供などの、ご親切をして頂きました。この場を借りて御礼申し上げます。ありがとうございました。
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歴史探訪G第2回 (’12年10月10日実施) |
原田 慶子 |
千三百年も昔、下総の地に龍角寺を建てる。この地に君臨していた首長とはどんな人だろうと考えさせられた一日であった。和銅2年(707)と縁起にあるが、翌年奈良に遷都した年である。木の文化である日本の宿命のようなもので、残っているものは塔阯の心礎と、金堂の基壇のみである。火災の度に再建され、最後に建て直されたのは元禄11年(1698)、金堂跡の背後にミニ校倉といった倉庫がある。昭和25年に解体された金堂の部材が格納されているのだが、床下を覗くと彫刻が施された棟木や虹梁がはっきり見え、講師の高谷さんも残念そうに「予算が無いし、重文・国史跡に指定されても国からの補助も出ない」とのボヤキであった。このまま朽ちて行く文化財に哀悼の意を表明して浅間山古墳へ。
現在114基の古墳が発掘されているが、なかでも浅間山古墳は印旛沼周辺では最大規模の前方後円墳で、この様式の最末期のもので、立地的には印旛沼(香取海)を見はるかす場所に築造されたのだろう。草や蔓草の生い茂る道をかき分けて行くと注連縄を張った細い石段が見える。結構高いのでおそるおそる登る。頂上には浅間社の小社があった。ここは後円部に当り落差のある前方部を見下ろすかっこうだ。出土した金銀製冠飾と銀製の冠などからヤマト王権に近い豪族のものと推定され、平城宮跡から発見の木簡により国造の大生部直(おおみぶべのあたい)とされ、龍角寺の創建も、また全国最大級の岩屋古墳の造営も同じ大生部氏一族と考えられている。
岩屋古墳石室前で説明を受ける |
鬱蒼とした浅間山と事替わり岩屋古墳は草が刈られ見通しの良い方墳で「環濠の周りから計ると一辺が108.108mでイワヤイワヤとなります」という高谷氏の説明が笑いを誘う。本日の眼目である石室に五人づつ入って説明をきく。南面に横穴式石室が二つあるが東側には崩落の危険があるのでシートで覆っている。西側には人一人がやっとの鉄格子がはまっていて鍵を開けてもらい入り口をくぐると意外に内は広い。奥行4.22m奥壁幅1.68m高さ2.14m、石材はこの地方産出の木下貝層と呼ばれる貝化石を含む砂岩で煉瓦積みのように互い違いに積み上げ、棺を置いたと思われる部分に筑波片岩が使用されている。滅多に公開されない岩屋古墳の見学は皆満足の面持ちであった。
![]() 龍角寺薬師如来像頭部模作(資料館) |
埴輪を並べて築造時を再現している101号古墳を見学、学習院正堂の見事な木の艶を鑑賞して昼食、午後は二班に分かれ風土記の丘資料館を見学、龍角寺の薬師本尊の頭部の摸作を見る。重文の本尊は龍角寺の本堂に厳重に保管されていて、御開帳の予定は11/3
*。関東地方に二体しかない白鳳仏である。もう一体は東京深大寺の釈迦如来で、創建は天平5年(733)で現在も繁栄している。龍角寺はそれより26年も前に建てられているのに彼我の差に悲哀の念を禁じ得なかった。金銅仏像というものは首の部分が非常に薄いので、火災の時最初に溶解して頭部が前に落下する。それを僧侶が抱えて避難するので、頭部だけは創建時のものが遺るとは今回初めて知った。飛鳥時代のやや生硬なアルカイックスマイルの御仏と違い優美な白鳳仏の表情を美しいと眺める。摸作ではあるが火災時に傷んだ耳の傷もそのまま作られている。私はまだ住職がいらした頃、拝観させて戴いたことがあるけれど、重要文化財が秘仏とは、全く残念なことだとつくづく思う。龍角寺に使われた屋根瓦の文様は奈良県の山田寺の文様と同じで、窯跡から文字瓦が1000点以上出土、七世紀の文字資料としては全国最多で「服止?」(羽鳥)、「朝布」(麻生)、「加止利」(香取)、「神布」(公津または郷)などを見ることができた。
房総のむらでは、我孫子市から寄贈された二基の青面金剛像を見学、水車小屋近くの蛇冠を付けている方に八日市場の風俗の藁縄を巻いてその説明板には八日市場のことしかついていないので皆不満顔であった。三叉路の方にあるのは髑髏冠、髑髏の首飾りをつけていて、どちらも青面金剛としては佳い出来の庚申塔である。我孫子市からの寄贈を示す説明板でもあればと一同残念がり解散した。
講師・栄町教育委員会 高谷(たかや)英一氏
*11/3(土)8:30〜11:30「駅からハイク(安食駅)No.07214」参加無料、予約申込03-5719-3777又はJRホームページで。
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東葛の庚申塔 |
三谷 和夫 |
1.はじめに
東葛地方では庚申塔が各地で見られる。「青面金剛」と彫られたもの、また単に「庚申塔」と彫られたものが多いが、青面金剛像や、また釈迦如来、地蔵菩薩、阿弥陀如来、大日如来、さらに聖観音菩薩の仏像が彫られたものもある。数は少ないが、二十一仏板碑といわれものもあり、猿田彦大神と彫られたものもみられる。さらにまた百庚申は多数の庚申塔(文字通り100基、あるいはそれより多いものさえある)が、並んで立っている姿は、壮観である。庚申信仰がひろく広がり、講をつくり、さまざまな形で庚申塔が建てられたことがわかる。
ではこの地域で、いつ、どこで、どんな庚申塔が建てられたか、どれが最も早く建てられたか、東葛5市(松戸、柏、流山、野田、我孫子)で各市域のものを比較しながら見てみたいと思う。庚申信仰がどのように広がり、どのように変遷したかについても考えてみたい。各市域で調査された報告があり、それぞれ調査の時期、方法、まとめ方が異なるので、同じ視点で見直してみることにした。いちいち現地にあたることは出来ないので、間違いがあり得るが、お許しいただきたい。
ここで時代的な流れと庚申塔の種別についてあらましを述べる。但し1)、2)については、「庚申」、「庚申供養」などの銘、三猿があるので、庚申塔と認められるものをいう。
1)板碑 中世の庚申信仰では、板碑が1500年代の中ごろに東葛の各地でみられる。二十一仏板碑が多いが阿弥陀三尊板碑もある。
2)如来・菩薩を主尊とする彫像塔 江戸時代の初期、1660〜70年代には大日如来、阿弥陀如来、釈迦如来、地蔵菩薩、聖観音菩薩の像の彫られた庚申塔がみられる。1980年以降は見られなくなる。
3)青面金剛像の彫られた庚申塔 上記の如来・菩薩像の庚申塔とほぼ同年代に始まり、以後各地で多数建てられた。関宿木間ケ瀬の塔は県内最古といわれる。
4)文字塔 1650年代より「奉造立庚申供養・・・」などいろいろに彫られた文字塔が見られ、1690年からは「青面金剛」の文字が彫られた塔が現れる。
5)百庚申 信仰よりも多数の庚申塔を建てることに主眼をおき、いわゆる百庚申が1800年以降に建立され始め、ごく短期間に、またはかなり長期にわたり、塔の數も100基に満たないものも多数みられる。19世紀中ごろにはほぼ終了した。柏市に多くみられる。
6)猿田彦大神の庚申塔 1800年頃から神道系の性格を持つ文字塔が各市域の神社内に建てられた。これより遅れて猿田彦大神の彫像塔が見られたが、両者ともにその数はわずかである。
2.板碑
![]() 図1 板碑(1543年) 松戸市下矢切西連寺 |
庚申信仰の板碑は星野昌治によれば、その一覧表に45基があり、1518年川口市所在のものが最古で、東限は我孫子市、西限は旧大宮市、北は古河市三和、南は東京都文京区に限られている。東葛地域(以下前述の5市について述べる)で、最古のものは1543年の松戸市所在の阿弥陀三尊板碑である。碑面に阿弥陀三尊の像があり、「庚申待供養」と彫られ、下に三猿があるが造立者の名は不明。次に古いのが、1547年柏市高田の二十一仏板碑で、ほぼ完形の貴重なもの。「奉庚申待供養」と刻し、主尊の釈迦と20の仏尊の種子が刻してある。下に八郎三郎など12名の造立者名がある。今聖徳寺で保管しているが、以前は後方の庚申山に建てられていた由。これと同じころのものが同市藤ケ谷にあるが、年代銘が一部崩れ、正確な年代が不明。5市域で次に古いのが流山市の二十一仏板碑で1557年、造立者不明。その次が東限の我孫子市のものである。5市域の最後に野田市の釈迦三尊板碑であるが、野田市は山王三尊板碑の名を与えている。ついでにいえば、野田市でこのあとすぐの1586年の二十一仏板碑があり、5市域で最も新しく造立されたものである。
この変遷をみると、松戸、柏、流山、我孫子、野田の順に伝来したようにみえる。旧東海道(古代よりの往還)により柏から我孫子へ、またその後流山から野田へ伝来したということか。そして1590年代で中世に長く行われた板碑は消滅する。荒川に産する緑泥片岩の供給が止み、安山岩の石材が用いられるようになったからといわれる(関忠夫)。板碑に見られる造立者のつくる講はその後も続いたであろうが、板碑は衰退し、新しい形態が現れる。
3.如来・菩薩を主尊とする彫像塔
![]() 図2
大日如来(1666年) |
江戸時代に入り世情がようやく安定したころか、1660年代に各市域ほとんど同じころに如来・菩薩像を刻した庚申塔が出現する。我孫子市だけはこの塔が見られない(理由不明)。1662年の野田市所在の延命地蔵の塔は、側面に「庚(かのえ)供養」に続いて造立者細村与兵衛以下七人の名を刻している。この塔には日月や猿は刻していないが、「かのえさま」と呼ばれる庚申塔であろう。同市船形にカノエサマが行われていたらしく、また東京、五日町には庚供養塔があるようだ。これとほとんど同じ時期に地蔵菩薩のほか、大日如来、阿弥陀如来、聖観音、釈迦如来の彫像塔がまちまちにみられ、何らかの規則性はみられない。一市内の中でもまちまちである。よくみると松戸、柏では寺院に多く造立され、流山、野田では神社に多くみられる。寺院では宗派に関係して主尊が選ばれたということがあったかどうか。いずれにしてもこれらの彫像塔は長い年月を風雪に耐え、庶民に親しまれ素朴な美しさを秘めている。文化財として指定されないものでも、まちの文化的遺産として大切に見守って行きたいものである。
これらの塔は寛文・延宝(1661〜1681)の時代に集中しているが、その理由は目下不明。
4.青面金剛を主尊とする彫像塔
![]() 図3 青面金剛(1663年) |
この塔の出現は1663年の野田市関宿に所在するもので、千葉県内最古といわれる。青面金剛は顔の色が青い金剛童子で、大威力があり病魔、病鬼を払い除く神である。四臂または六臂で、赤い三眼の忿怒相をしている。民間信仰の庚申待において本尊として祀られる。像は矛、輪、弓、矢を持つものが多く、剣、ショケラ(人)を持ち、邪鬼を踏むこともある。この塔は上方に日、月、青面金剛の足もとにニワトリ、下部に三猿を刻したものが多い。
その出現時期をみると、野田1663年、松戸1668年、我孫子1674年、柏1675年、流山1686年となっており、まったくバラバラで、その関係を見定めることはできない。野田市の塔が県内最古である事情も、埼玉県からの伝来が考えられるにしても、目下詳細は不明。一般に六臂像が多いが四臂像もあり、まれに二臂が見られ、柏のそれ(1680年)は最も古い例である。
5.文字塔
東葛の庚申塔一覧表において、[供]とは、「供養」とか供養銘文のあるもの(供養塔)をいい、[青]とは「青面金剛」の銘のあるものをいい、[庚] とは「庚申塔」(「庚申」含む)のみの銘あるものをいう(百庚申を含まない)。
1)供養塔
![]() 図4 供養塔(1659年) |
如来・菩薩、青面金剛を主尊とする彫像塔より10年ほど早く、1650年代に長い銘文の彫られた供養塔が建てられた。各市域で早期に見られるものをあげる。
1650年 松戸市古ヶ崎 不動尊
奉造立庚申供養二世安楽所
1654年 野田市木間ケ瀬
奉納供養二世悉地成就之処逆修本願□□攸
1658年 柏市藤心 宗寿寺
奉新開眼供養庚申待石塔一宇為二世安楽
1659年 我孫子市高野山 香取神社
奉造立庚申□講衆二世安楽所
1662年 流山市前ヶ崎 香取神社
奉造立山王権現二世成悉地
相前後して建立されたこれらの庚申塔に、伝来経路をくみとることは困難である。銘文もまちまちである。
2)青面金剛
文字塔に「青面金剛」の彫られたものが、40年ほどのちの1690年代から建てられた。これはまた青面金剛の彫像塔より30年のちのこととなる。
1692年 我孫子市岡発戸 八幡神社
奉供養庚申青面金剛
1698年 流山市青田 香取神社
奉造立青面金剛像庚申講結衆
1711年 柏市増尾 少林寺
1747年 松戸市中金杉 香取神社
奉建立青面金剛童子
1748年 野田市山崎大和田
青面金剛庚申供養
「青面金剛」の文字塔の伝来経路はさだかではない。青面金剛の彫像塔は各市域で造立されていたが、文字塔にかえることにより経費の節減をはかったということであろうか。講の信仰の強さもさることながら、講の人たちの経済的事情を考える必要もあろうが、一方我孫子市でみると1690年代以降彫像塔も文字塔も次々に造立されており、元禄(1688〜1704)のころには、各村々で墓碑や位牌をつくり始めた家も多かったようだから、ほかに理由があるのかもしれない。「青面金剛」(尊などがつくものもある)」とだけ彫られた文字塔が我孫子市では1690年からみられるようになり、1860年ころまで盛んに造立され、「青面金剛尊(まれに青面金剛王)」が圧倒的に多い。これに対して柏市(旧沼南町含まず)では、我孫子市よりずっと遅く1760年ころから造立され始め、圧倒的に「青面金剛」のみが多い。市域による相違がみられる。両者いずれも1860年ころに造立が終わったのは共通している。
3)庚申塔
文字塔の中で「庚申塔(庚申を含む)」のみの銘のあるものについて考えてみる。各市域について最古の塔が古い順に書くと、野田(1670)、柏(1764)、流山、我孫子(同じく1803)、松戸(1813)となり、市域により造立年代に大幅な相違がみられる。
6.百庚申
![]() 図5 百庚申(1800年)柏市布施下 大師堂 |
現在東葛の各地で百庚申が残されている。前述のように庚申講の人たちはさまざまの庚申塔を造立してきたが、百庚申となると、塔自体が信仰の対象ではなくなり、塔を多く造立することに功徳があると考えられたのであろう。折しも寛政12年(1800)は庚申の年に当たり、60年に1度の庚申の年ゆえ、百庚申の造立を目ざす人たちが現れた。正にこの年に、柏のあけぼの山に百庚申が造立され、のちに移されて布施下の大師堂に45基が現存している。この百庚申には、地元や近隣の人たちに混じって、藤代宿の人の名もみられる。次に古いのは南増尾の百庚申で、最古のもの(1817年)をふくむ95基が現存している。ただし、造立された百庚申が100年ほどたって破損したため昭和12年に22基を再建したものである。その次に古い布瀬の百庚申は、字御林という地域(県道に沿った山林で、布瀬村の出入り口であった)に、現在105基が並び立って壮観を呈している。最古は1824年のもので、1875年(明治8年)のものまで混じっている。さらに続いて百庚申の古いものからいうと、柏・諏訪神社(1832年〜)97基、名戸ヶ谷・香取神社(1835年〜)100基、松ヶ崎・香取神社(1841年〜)46基、高田・聖徳寺(1844年〜)13基があり、東葛地域では柏市内に百庚申が最も集中して現存している。
東葛地域では、柏市より40年ほどのちに造立された百庚申が各地に残されている。野田市西三ヶ尾に現存する100基は、1838年のものである。次に古いものは、我孫子市の百庚申で、高野山・香取神社に100基、我孫子・大光寺に37基が現存し、いずれも現存する一番古いものは1844年、一番新しいものは1852年で両者が一致している事情は不明。高野山では造立した初め、村の入口の成田街道沿いに並べられていたが、のちに移されて、今は香取神社の参道に二列に整然と並べられている。大光寺のものの初めの場所は不明。
次に松戸市の百庚申は1858年から1863年までの5年間に206基建てられたと帳簿にあるが、現在大谷口の神明神社に201基が残されている。いずれも個人造立で、講の参加者は武蔵、上総にまで及ぶ43ヶ町村にわたっている。願主は大谷口村の大熊伊兵衛、流山の石工平吉がすべて引き受けて製作したという。流山市には鰭ヶ崎・東福寺に97基(自然石型)、前平井・旧東栄寺に55基の百庚申が現存しているが、いずれも年代不明。
百庚申の本来の意味からはずれて、1石塔で「百庚申供養塔」と彫られたものが、柏市名戸ヶ谷・香取神社ほかにみられる。また1石に「千庚申塔」と彫られたものが、柏市藤心ほかにみられる。
7.猿田彦大神
![]() 図6 猿田彦大神(1823年) |
猿田彦大神は天孫降臨の先導をした神で、山崎闇斎(1618-82)や垂加神道の人々が庚申の本尊とした神である。申と猿が同じことから庚申塔に猿田彦大神の文字または像が彫られた。猿田彦大神は文字塔が古く、彫像塔が新しいが、特に後者は数が少ない。青面金剛塔では、彫像塔の方が古く、文字塔が新しいのと逆でもある。猿田彦大神の文字塔は、野田の1793年のものが最も古い。それから我孫子、流山、柏、松戸の順に、10年ほどずつ新しいものが現存する。伝来経路といえるかどうか。また猿田彦大神像は野田の須賀神社のものが彫刻がすばらしく、代表的なもので、市指定文化財。流山のものは、自然石型の陰刻で珍しい。柏市名戸ヶ谷のものは、百庚申とともに建てられているが年代不明。松戸、我孫子には彫像塔は見あたらない。
8.その他の庚申塔
五輪塔(1671)が我孫子市新木にあり、「奉庚申石尊建立之」の銘があり、珍しいものである。
鉄道庚申(1925)、我孫子駅構内にあり、台座ともで高さ2mを越える。駅の営業開始以来30余年間の事故犠牲者20余名の供養と事故防止を祈願して建立された。
9.庚申講
庚申の日に行う庚申信仰の行事は、庚申待と呼ばれ、江戸時代盛んであったが、明治以降すたれてしまった。松戸市栗山地区では伝統を守って、毎年正、5、9月の一の申の日に世話役当番の家に講中(20人ほど)一同が集まる。米2.5合を持ち寄る。床の間に帝釈天の画像をかけ、仕来りの料理を供える。午後7時題目と勤行を行ない、そのあと酒宴、四方山話となる(昭和30年代)。また流山三丁目の1地域では、初庚申の日に当番が庚申堂を清め、幟を立て、幕や提灯をかけ、朝から夕方までお守りする。夕方から人が集り、お茶飲みとお喋りをする。前には無尽のくじを引いたという。堂には青面金剛像の庚申塔があり、幟には猿田彦大神と書かれているが、堂のかけ軸は「庚申佐田彦大神」と書かれている。また流山五町目にも庚申様の講があるという。
東葛の庚申塔一覧表
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野田 |
流山 |
柏 |
松戸 |
我孫子 |
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板碑 |
1583山王三尊板碑 東金野井 1586二十一仏板碑 東金野井 |
1557二十一仏板碑 中 1577二十一仏板碑 鰭ヶ崎・東福寺 |
1541〜50二十一仏板碑 藤ヶ谷・香取神社 1561阿弥陀三尊板碑 藤ヶ谷・香取神社 1585二十一仏板碑宿蓮寺・須賀神社 |
1543阿弥陀三尊板碑 下矢切・西蓮寺 |
1581二十一仏板碑 中峠・天照神社 |
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如来・菩薩を主尊とする彫像塔 |
1662延命地蔵(庚) 1763阿弥陀如来木間ヶ瀬・須賀神社 |
1666大日如来 流山・光明院 1667延命地蔵 1667聖観音 木・香取神社 1671聖観音 |
1668大日如来 手賀 1674地蔵菩薩 1677聖観音 1678阿弥陀如来 |
1666地蔵菩薩 1667地蔵菩薩 1672大日如来 1677釈迦如来 1679聖観音 |
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青面金剛(彫像塔) |
1663関宿台町・不動堂 (県内最古) 1671三ツ堀県道添 1671上花輪・香取神社 |
1686鰭ヶ崎・東福寺 1690西深井 1691三輪野山・三輪茂侶神社 |
1675布施下・大師堂 1676名戸ヶ谷・法林寺 1680戸張(二臂) |
1668下矢切・矢切神社 1674松戸・勝龍寺 1674伝兵衛新田・香取稲荷神社 1678大橋・浄念坊 |
1674柴崎・東源寺 1681中峠・法岩院 1681中峠長光院 |
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文字塔* |
[供]1654関宿木間ケ瀬 [青]1748山崎大和田 [庚]1670〜1933 |
[供]1662前ヶ崎・香取神社 [青]1698青田・香取神社 [庚]1803〜1917 |
[供]1658藤心・宗寿寺 [青]1711増尾・少林寺 [庚]1764〜1880 |
[供]1650古ヶ崎・不動尊 [青]1747中金杉・香取神社 [庚]1813〜1863 |
[供]1659高野山・香取神社 [青]1692岡発戸・八幡神社 [庚]1803〜1962 |
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百庚申 |
1838西三ヶ尾・香取神社 100基 (1840下三ヶ尾・駒形神社 1基) |
年代不明(江戸後期) 鰭ケ崎・東福寺97基自然石型 同上 前平井・旧東栄寺 55基 |
1800布施下・大師堂 45基 1817-1937南増尾 95基 1824-1875布瀬 105基 1832-1853柏・諏訪神社 97基 1835-1864名戸ヶ谷・香取神社 100基 1841-1848松ヶ崎・香取神社 46基 1844-1860高田・聖徳寺 13基 (1828片山 千庚申 1基) |
1858-1863大谷口・神明神社 201基 |
1844-1852我孫子・大光寺 37基 1844-1852(?)高野山・香取神社 100基 1847-1858岡発戸・八幡神社 18基 |
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猿田彦大神 |
1793(文字)桜台・桜木神社 1823(像)野田下町・須賀神社 |
1815(文字)平方・香取神社 1860(像)西深井 自然石型 |
1823(文字)塚崎 1824(文字)若白毛 1838(文字)大青田・妙見神社 年代不明(像)名戸ヶ谷・香取神社 |
1831(文字)惣台・風早神社 |
1806(文字)古戸・天満宮 <その他の庚申塔> 1671五輪塔 1925鉄道庚申 |
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庚申塔総数 |
174(関宿含まず) |
462 |
1026 |
422 |
399 |
*注) [供]とは、「供養」とか供養銘文のあるもの(供養塔)をいい、[青]とは「青面金剛」の銘のあるものをいい、[庚] とは「庚申塔」(「庚申」含む)のみの銘あるものをいう(百庚申を含まない)。
10.終りに
およそのことをまとめ得たが、なお正確に各市域での検討が望まれる。松本庸夫氏に見ていただき教示をいただいたことを感謝します。なお関心のある方の研究考察を期待したい。
文献・資料
1.「野田市史研究」18号(2007)、川戸彰「野田市の板碑」
2.「民間信仰を中心とする野田市金石資料集」野田市(1967)
3.流山市教育委「流山庚申塔探訪」(2007)
4.「柏の金石文(1)(2)」柏市(1997)
5.「沼南町史 史料集金石文1,2」沼南町(2007)
6.「庚申塔と庚申信仰 松戸市の民間信仰」上野顕義(1957)
7.我孫子市史研究センター合同部会「我孫子の庚申塔」(2000)
8.宮坂博明「写真集 北総の庚申石仏」文芸社(2008)
合同部会10月の活動(10/20)
出席者11名 (中澤雅夫)
1. 荒井茂男副会長が出席、「ふれあい塾あびこ」より「新四国相馬霊場」の講演会共催の申し出があり、運営委員会で検討するが合同部会での意見を聞きたい、との説明があった。本部会では基本的に賛同した。
2. 中澤より、@『新四国相馬霊場八十八ヶ所を訪ねる』(仮題)の出版は「鰍ツくばね舎」に依頼した、A会員各位には1部無料配付(執筆者にさらに1部)するが出来るだけ多く購入頂くよう働きかける、などの報告があった。
同じく、@市史研では12/1(土)、/2(日)の市民活動フェスタに出展、Aテーマは「新四国相馬霊場」、B本部会が中心になる、との説明があり、11月度例会(11/17)から作業に入ることとなった。
歴史部会9月の活動(9/23)『字誌』第41回検討会
出席13名 (関口一郎)
@ 前回の会報(第127号)で紹介した第2回編集委員会の内容の詳細について、『字誌』の全体構成を整理した白神副部会長が、内容について説明を行った。
A 続いて、先般デザイナーに依頼した『字誌』の内容展開(レイアウト)のサンプルについて、関口が説明を行った。
@については、「総説編」「各論編」「資料編」に分けること、特に「総説」の内容は、本書の目的である“失われつつある地名”の持つ意味、地域共同体の生活者としての「地名」発掘の意味、そのための「地名」の成立過程の検討等が、現代に続く「地番」「住居表示」などにも重要な関わりをもっていることが指摘された。またそれが新しい地域共同体(自治会等)にもつながることの認識の必要性についての討議も行われた。
それに基づく各論の展開については、40か所の「字」地域が示された。具体的な内容の展開については、これまでの各担当者の報告に基づき、最大公約数的な事項の整理がなされているところであるが、10月30日(火)に開催される第3回編集委員会において、さらに整理された展開例を構築していく予定である。
B 10月28日の歴史部会研究講座は、報告会(越岡会員・緑地区と茂木会員・岡発戸地区)を午前中に行い、午後2時からは寿地区の子之神大黒天・延寿院の柴灯護摩(火渡り)の見学を行う。
各部会の活動と予定
| 部会名 | 日 | 時 | 所 | 担当者 |
| @古文書解読日曜部会(第2日曜) | 11月11日(日) | 13:00 |
アビスタ |
佐々木 豊 |
| テキスト 高田勝禧家文書「手賀沼新田 漁猟藻草出入諸書物扣」 | ||||
| A古文書解読火曜部会(第3火曜) | 11月20日(火) | 13:00 | 我孫子北近隣センター つくし野館 |
金井 準 |
| テキスト 川村一夫家文書「自警集 全」 | ||||
| B歴史部会 第43回字誌検討会 | 11月25日(日) | 10:00 |
我孫子北近隣センター |
関口 一郎 |
| C合同部会 市民フェスタ展示作業 | 11月17日(土) | 13:30 |
我孫子北近隣センター
並木本館 |
中澤 雅夫 |
| 第10回会員研修 笠間市探訪* | 11月14日(水) | 9:20 | JR常磐線友部駅 改札口 |
土井 玲子 |
| E井上家文書研究会(参加希望者は担当まで連絡下さい) | 11月13日(火) | 13:30 | 我孫子北近隣センター 並木本館 |
品田 制子 |
| 11月度運営委(市民フェスタ、冊子刊行他) | 11月24日(土) | 9:40 | 市民活動St. | 岡本 和男 |
| 11月度井上基家文書U整理作業 | 11月5日(月) | 10時〜 | 相嶋文化村母屋 | 〃 |
| 古文書初心者講座 | 11月15、22、29、12月6日 | 9:30〜11:30 | 我孫子北近隣センター 並木本館ホール |
〃 |
事務局便り (ご寄付・ご寄贈)
・森春枝会員から1万円のご寄付がありました。ありがとうございました。会の運営に有効に使わせていただきます。
・柳町敬直会員から、代表を務めておられる(株)敬文舎が、この程刊行した「日本歴史 私の最新講義シリーズ」で『日本史の新たな見方、捉え方−中世史からの提言』五味文彦著と『自由民権期の社会』大日方純夫著の寄贈がありました。ありがとうございました。会の蔵書として活用させていただきます。
事務局便り(訃報)
・西嶋恒子会員 10月5日夕刻お亡くなりになった。故西嶋定生顧問の奥様であった恒子さんは古文書の解読を大変楽しまれた方でした。ご自宅で同好の方々と毎月解読の会を開かれていました。ご冥福をお祈りいたします。葬儀はご親族のみにて郷里の岡山で来月執り行われるとのことです。
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