平成22年11月27日発行 我孫子市史研究センター会報 第105号 通算412号
編集:編集委員会第105号
| 利根大堰・忍城址・さきたま古墳群見学会特集 |
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| 忍城址三階櫓前にて | 忍城主ご夫妻? |
| 行田市・史跡バス見学会に参加して | 中川 健一 |
10月29日、前日は雨、翌日も雨の間のさわやかな秋晴れのもと、朝陽を受けた44名を乗せたバスは目的地へひた走った。と、書き出したいところであるが、目的地へ向かう国道356と16号の二ヶ所で交通事故渋滞に巻き込まれ大幅に行程を遅らせられることとなってしまった。しかしながら、星野幹事の名采配で途中での休憩や見学時間を短縮させ無事予定のスケジュールをこなすことができた。
渋滞にあった我らのバスの中は、さながら歴史の授業であった。柴田副会長による「金錯銘鉄剣とその時代」と題する車中勉強会が開催された。即ち、午後に見学するさきたま古墳群のひとつの稲荷山古墳から出土した115文字の金錯銘鉄剣に関する資料を使った、中身の濃い勉強会である。鉄剣に金で象嵌された表裏合計で115文字が、昭和53年発見されそこに「ワカタケル大王」(雄略天皇)の名があるとの報道の驚きは未だ鮮明に覚えている。小生自身はこの鉄剣とは今回二回目のご対面であったが、柴田副会長の事前講義とさきたま史跡の博物館学芸員の説明のおかげでその発見の重要性を改めて認識させられた。柴田副会長の鉄剣とその発見以後の諸学説の紹介とそれに関する蘊蓄の深いご意見にはただただ感服した次第であった。
最初の見学場所は、@利根大堰の見学である。利根大堰を管理する利根導水総合事業所事務所屋上に案内され、職員より大堰につき説明を受けた。遠く筑波山や秩父の山々、上越の峰々が望まれ、正に関東平野のど真ん中という感じのところに、川幅700mの利根川を堰き止め取水している。主として上水道用水、農業用水取り入れのための堰堤、取水口、沈砂池、水路が俯瞰でき雄大なパノラマに見学者一同満足した。 カラスを二回りくらい大きくした多数の黒々としたカワウはやや不気味であったが、沈砂池でノンビリと羽を休め、あるいは獲物の魚を狙っている光景は普段見ることのない長閑のものであった。
昭和39年の東京オリンピックの水需要に応えるためまず武蔵水路が完成し、その後邑楽用水路、見沼代用水路等いくつかの水路が増設されていった。現在ですべて完成し、主に小学校の社会科見学で大変賑わい11月のピークにはなんと12校もの見学がある日もあるとのこと。
テレビでも紹介されたサケの遡上を、大堰横の魚道ガラス窓より見学できるはずであったが、この夏の炎暑で水温が未だ高くサケは遡上しておらず、残念ながら諦め交通渋滞で遅れた時間を取り戻すべく短時間でそこを離れた。
昼食のため、建物が国の登録有形文化財に指定されている A忠次郎蔵へ向かう。今は手打ち蕎麦処としてお蕎麦屋さんになっているが、もとは店主小川忠次郎の行田名産の足袋を扱う商店であった。相当大きな商売をしていた模様で、荷捌きをしていたと思われる石畳みの中庭や、広い上がり框がそれを物語っていた。蕎麦が一行に供される前に、行田名物の大判形の「ゼリーフライ」を食べた。「銭フライ」が訛ったらしいといわれるが、足袋を縫い上げる女工さん達のおやつだったようで今や行田の名物となっている。
食事後、歩いて10分程の B忍城跡とそこに建てられた行田市郷土博物館へ向かう(一部の人はバスに乗る)。忍城は、熊谷に拠った成田氏が台頭し1479年成田顕泰(あきやす)が築城し約百年位成田氏がそこを支配した。天正18(1590)年、秀吉が小田原北条氏を攻める中で石田三成が、14kmに及ぶ堤を築き利根川、荒川の水を引き忍城を水攻めにしたが落城せず、城が浮くからと噂され「浮き城」という別名が生まれたそうである。小田原城降伏後開城し、関東に入国した徳川家康の持ち城となった。徳川が幕府を開くと10万石の忍藩は、川越、岩槻とともに江戸を警護する要衝として扱われ重臣の阿部氏が入城し、多くの老中が出ている。(幕末のころは松平氏)。
明治維新後も忍城は存在し数カ月間忍県の県庁舎にもなったが埼玉県に繰り入れられた後、城郭は破壊され、堀は埋め立てられ学校ほかの用地となった。
城跡にある行田市郷土博物館は学芸員の案内に従った。入館して直ぐの所に鎧兜一式が三領飾られてあり、そこで選ばれた体験希望の中沢「殿様」が鎧を説明されながら身に着けていった。具足を全て着け終えたところで、近江「北の政所」さんが赤い陣羽織を着て横に立ち城主夫婦ができ上がった。
展示室で行田名物の足袋産業のこと、変遷など、また発掘、復元された弥生時代の住居、土器、埴輪等の説明も受けた。最後に三層の忍城の復元櫓に上り近現代の行田の発展の写真を見学し格子からは櫓の外を眺め一端の侍になった気分を味わった。櫓が背景に入るところで全員が集合して記念撮影をし、時間に追われつつ次の見学地 Cさきたま史跡の博物館へ移動した。
まず石田三成が忍城を水攻めにした時本陣を置いた、さきたま古墳群のうちの一つの丸墓山古墳を上る。周囲を見下ろすと平原に幾基もの前方後円墳が並びまるで古代へ戻った感さえする。その丸墓山古墳へ至る道は、水攻めに三成が築いた堤の跡が道路になっている。さきたま古墳群は、行田近辺の有力者(土豪・豪族)の墓といわれ、その中の一つの稲荷山古墳から本日の見学会の目玉である金錯銘鉄剣が発掘されたのである。その古墳を上ると、頂には発見された石室が復元されている。また、将軍山古墳では古墳の一部が削られた形で展示館が出来ており、ボランティアーに急かされつつも各種埴輪や石室の展示がありじっくり見学した。
いよいよ博物館へ入り発見された国宝の鉄剣を見学する。剣の鉄の錆を食い止める作業中に、レントゲン線を当てたところ金の文字が象嵌されていることが分かり115文字が見つかったとのことである。その文字をすべてここに記し読み下し文を書くのは長くなるので省略するが、雄略天皇の親衛隊長を務めてきたワケノオミが国を治めるのに助けてきたことを誇る銘を入れた剣を作らせた、というのが一般的な解釈のようである。
さきたま史跡の博物館の鉄剣見学をもって本日の史跡見学を終え帰路に就くこととなった。多くの史跡、発掘物、写真等を見学し脳みそを洗濯し、古代のロマンに浸った見学会でした。帰りは朝とは反対に誠に順調でやや早めに帰宅ができた。
最後に私的な感想を述べさせていただきます。スピーチ、文章などで感想を言う場合「天地人」を使うとよいといわれています。即ち見学会の「天」気は誠に素晴らしく爽やかな秋晴れの下、広々とした所に散らばる古墳群を巡り歩き、上ることができました。雨の日や暑い日であったらあれほど自由に歩き回り見学できなかったでしょう。「地」は行田です。郷土博物館も史跡の博物館の纏まってよくできていました。大きな都市ではないが小ぶりに詰まった、さすがに10万石の都市で文化都市だと思いました。「人」はまず柴田副会長で講義のところで既述の通りです。そして星野幹事の事前準備の良さと臨機応変な対応には参加者一同感心しました。そして忘れてならないのは、見学施設内外における学芸員やボランティアーの方々の親切丁寧なアテンドと説明振りでした。
「天」は神のみぞ知るで運は天に任せるしかありませんが、また新しい「地と人」に会うべく次回も出席したいと思います。
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さきたま行(’10・10・29) 三谷 和夫 鉄剣銘の謎に迫りていちいち説く友の批判をバスに聞きゆく 柴田副会長 取水量毎秒10トン越ゆときけばまたたける間にプール満たすか 利根大堰 この年に利根の水未だあたたかく鮭の上るを見むはかなはず 十万石には小(ち)さしと思(も)へど木蔭なる白亜の城に声を上げたり 忍城 立つ友にいちいち鎧を着せしめぬ眼鏡をとればひとかどの殿 中澤下総守 この街に曙関の足袋を見つ大鵬関よりはるかに大き わが登る古塚の中に千五百年金の文字彫る剣眠りゐし いなり山古墳 将軍山古墳に並ぶ埴輪見ればわが街の塚に並べてみたし 銹びし剣に金錯の文字百十五今も光るを正目に見たり 金錯銘鉄剣 おだやかに埼玉(さきたま)の野の暮れゆけば塚成りし日もかくありけむか 埼玉古墳群 |
史跡見学会写真
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| 利根大堰での取水は武蔵水路などへ送られる | さきたま史跡の博物館で国宝「金錯銘鉄剣」をじっくり見せてもらい一同満足 | |
| 昼食後、歩いて行田市郷土博物館へ向かう | 墳丘と堀を復元した将軍山古墳。円筒埴輪もずらりと立てられている。後円部(左側)に展示館がある | |
| 金錯銘鉄剣の出た石郭(復元) | 金錯銘鉄剣の出た稲荷山古墳後円部へ登る | 将軍山古墳展示館に復元された石室は迫力があった |
兼好の歴史観について ―徒然草の行間から読む中世史― |
星野 征朗 |
我が市史研には「歴史は科学である」との厳しい伝統がある。それを承知しながら、私のような素人が、やれ歴史観の、やれ中世史のと、生半可な知識で云々すれば顰蹙を買いそうである。
昨年、10人ばかりの仲間と徒然草を鑑賞する機会があった。すぐれた処世の書として読み継がれてきた古典と思いきや、実は周到な時代批判の書であり、出家遁世者として政治的世界とは無縁の兼好と思いきや、実はとびきりの人間通であるなど、中世知識人の強かな一面を垣間見る思いがした。
1.兼好と徒然草について
卜部兼好(1283〜1350)が生きた時代は、鎌倉末期から建武の新政、南北朝へと続く動乱期。徒然草では、31歳で出家した兼好が自分の人生観をはじめ、仏教観、高僧伝、処生訓、滑稽譚、美意識、有職故実などを達意の文章で、簡潔かつ的確に語っている。同時に、この頃の社会の様相や時代の転換などが遠回しに、しかも鋭く表現されている。これまで国文学者、評論家、歴史学者、小説家、文化人などによって多くの注釈書が著され、さまざまな解釈がなされてきたが、最近では中野孝次が「死を憎まば、生を愛すべし」という兼好の死生観を採りあげ、老境に入った読者に貴重な指針と示唆を与えている。
兼好とは一体どんな人物だったのか。変転極まりない時代に、出家という隠れ蓑をかぶって、自分の知識と教養を生かしながら、朝廷、上流貴族、幕府の要人たちと幅広い人脈を築いていた兼好である。鋭い嗅覚と抜け目ない処世観を持ち、しぶとく懸命に生きた人物である。まるで心理学者のような人間観察力の持ち主である。「兼好はぎらぎらする達眼で雑駁な時代をねめ廻し、鋭い懐疑的な文明批評家で終始した」(舟橋聖一)との人物評価がぴったりする。あの小林秀雄も、「彼には常に物が見えている。人が見えている、見えすぎている」(『無常といふこと』)とべたほめである。
2.徒然草の時代的背景と兼好の歴史観について
小林や舟橋のいうような兼好の炯眼に接し、彼の実像に迫ってみたい、徒然草の時代背景を理解し、行間に込められた彼の歴史観を捉えてみたいと思うのは自然の流れである。
(1)兼好は、延喜から摂関時代までを「いにしへのひじりの御代」として重視し、天皇が摂関などの臣下によって支えられる政治体制を理想の姿と考えていた。次の院政時代については、政治のよき姿が失われていった時代として否定的である。天皇中心の政治を取り戻すために源平武士層を手足として利用した結果、彼らの台頭を招き、平家滅亡後も「頼朝がひとえに天下を掌にせしかば、君としてやすからずおぼしめしけることもことわり」(『神皇正統記』)との火種を残したからである。
(2)幕府からの復権をめざした後鳥羽の承久の乱は、公武協調派の摂関などから「当今御謀反」とまで酷評されていた。事実、この失敗を境に朝廷は幕府に完全に従属し、天皇を誰にするかの決定権まで幕府に握られてしまい、大覚寺・持明院統の皇位争いが幕府への依存をますます強めていった。幕府の調停を受けて、両統が10年ごとに交互に天皇を即位させるという文保の和談が1317年に成立し、後醍醐が翌年に即位した。10年後に次の天皇を量仁親王(光厳)に譲位するという約束を後醍醐が無視したため、持妙院統および幕府との亀裂が決定的となった。後醍醐は天皇専制を強め、後宇多の院政停止、正中の変、元弘の乱へと倒幕に走り、幕府も光厳擁立、後醍醐の隠岐配流で対抗したが、1334年に滅亡した。
(3)徒然草が誕生したのはこんな騒然とした時代である。時世が急迫する中で、彼は大覚寺―後二条―久我系の少数派に所属し、政治的には非(反)持妙院、後醍醐の立場。政治と密接に結びついていた歌の道では二条派で、反京極、冷泉の立場。出家を急ぎたい気持ちも当然である。
(4)兼好によれば、政治とは社会の安定と秩序の維持であり、為政者とは「世を治むる道、倹約を本とす」である。彼は金沢貞顕や大仏宣時などの北条一族とは六波羅以来の昵懇の仲で、関東にも2度は下向し、称名寺近くに住居まで構えた鎌倉通。時頼や松下禅尼の質素な暮らしや倹約の話を度々採りあげているが、兼好の語り口は愛情に満ちている。得宗専制下の幕府の行く末を憂慮していたゆえであろう。
執権貞時が安達一族を誅した霜月騒動は、北条氏との政争に敗れて次々と有力大名が没落する中で、最後に残った足利に反北条の意思を固めるきっかけを与えた。尊氏の寝返りが決定打となって倒幕が実現したが、尊氏との連立を拒否した建武の新政はわずか2年にして挫折してしまった。
(5)原理主義者の後醍醐が理想とした政治形態は、国家権力のすべてを完全に天皇に集中し、幕府も院政も摂関もすべて無用とするもの。後鳥羽の二の舞を懸念する多くの貴族層や常識人の兼好にとっては受け入れ難い政治思想である。科挙などの官僚機構をもたない専制君主(天皇)など妄想にすぎないことは、『愚管抄』、『正統記』、顕家の「諌書」、「落書き」などが教えるとおり。結局、後醍醐のもたらしたものは社会の混乱と門閥の破壊であり、南北朝の動乱が収束し社会の秩序が回復するのは義満の時代になってからである。後世に与えた影響も大きい。特定の政治勢力が天皇制をイデオロギーで厚化粧し、政治利用するという悪い前例を残したことである。「帝室は万機を統ぶるものなり、万機に当たるものに非ず」(『帝室論』福沢諭吉)。兼好はこのことを後醍醐に言いたかったに違いない。
3.比喩という「鈍き刀」を用いた政治批判について
「よき細工は、少し鈍き刀を使ふといふ。妙観が刀はいたく立たず」(第229段)。兼好の人生哲学が凝縮された名言である。「彼は利きすぎる腕と鈍い刀の必要を痛感している自分のことを言っているのである」(小林秀雄)。政道に対して傍観者でいられなかった彼は、王朝の没落が両統迭立から「一天両帝」の南北朝までの同族同根の天皇家や上級貴族の不毛な争いに起因することを見抜いていた。摂関政治のころの「煮られる豆と焚かれる豆殻」の挿話(第69段)を引用しながら、彼が生きた鎌倉末期から南北朝時代の社会の様相、特に後醍醐の専制政治を婉曲に、鋭く風刺したのである。もともとこの話は、三国史で有名な魏の曹植の「七歩の詩」に由来するもので、豆と?に託して兄の文帝(曹丕)の非情な仕打ちを嘆いた詩といわれ、兄弟がいがみ合うことの愚を兄に訴えたもの。
その後20年近く、俗世を悲観し現実から逃避することもなく「衰えたる末の世」の観察者を続けた。足利政権有力者たちとの歌を通じた交流すら伝えられている。「人生の達人」らしい見事な一生である。
4.「日本最初のジャーナリスト」といわれた兼好について
兼好の歴史観などと気負ってみたが、やはり荷が重すぎたようである。最後は少しばかり夢のある話で締めくくりたい。北条一族は日本全国に圧倒的な広さを占める荘園を支配し、しかも治安の維持のために道路、河川などの交通の要衝を完全に掌握していた。網野善彦などの研究によれば、金沢氏の有力所領である下総国下河辺荘の関連文書に名前が出てくる倉栖兼雄は兼好と兄弟である可能性が非常に高く、文筆によって父祖の代から金沢氏に仕えていたという。そうであれば、兼好が金沢貞顕などと親しく交わり、京都と鎌倉を自由に往来し、あちこちの見聞記を残していることも納得がいく。
兼好と下総国相馬とを結びつける記録はない。が、空想は人の心を豊かにする。 了
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布施中尾滋家文書 中尾嘯花筆写 「徒然草 上」より |
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1)第8回古文書解読入門講座(一般向け)
平成23年2月に4回(4週にわたって)行う予定で、教育委員会の後援を受ける積りです。例によって会場確保がままならず、毎週会場が変わるかもしれません。予約中です。講師は清水千賀子会員に務めていただきます。12月会報および1月の広報あびこに募集記事の掲載を予定しております。
2)会員研修 市周辺の史跡探訪
12月の小金探訪に引き続き、平成23年3月11日(金)に「取手宿」探訪を予定しています。地元の近江礼子会員に幹事をお願いします。詳細は新年になったらお知らせしますが、取手旧宿場から取手市埋蔵文化財センターまでを歩く予定としています。
その後、新年度にも継続して「探訪」を計画したいと思っています。ご期待いただくと同時に、ご希望など部会の中でお話し下さるようお願いいたします。
3)“川瀬巴水木版画展−「手賀沼」制作80周年−”
我孫子市民プラザ(?我孫子市あゆみの郷・都市建設公社)主催で平成23年3月18日(金)〜3月23日(水)10時‐19時に我孫子市民プラザ・ギャラリーにおいて開かれます。当会は同実行委員会に他の文化関係諸団体とともに加わり、協力してゆきます。近く詳細が決まりチラシが出来次第、お送りいたします。「手賀沼」(昭和5年制作)のスケッチから初摺りまでの展示や多くの後摺り版画が展示され、摺り師による実演も予定されています。
番外−1)「会報100号記念原稿募集」はまだ続けています。
‘私(それぞれ)の故郷’、‘郷土(史)への思い’など、皆様の原稿をお待ちしております。
長さは自由で、800字から1,200字を目安とします。12月20日位まで、事務局岡本宛に郵送もしくはメールに添付(kaz_.okamoto@nifty.com)でお願いいたします。
番外−2)布佐相嶋文化村「井上基家文書U」整理中
井上家母屋2階に所蔵されていた幕末期当主から現当主までの4代にわたる書籍及び文書の整理、目録作成作業を11月から当会、我孫子の文化を守る会共同で開始しました。文書などを所定の封筒に納め、手書き目録を作成します。作業参加ご希望の方は事務局まで連絡ください。
新入会員のお知らせ(10月度)
各部会の活動と予定
| 部会名 | 日 | 時 | 所 | 担当者 |
| @古文書解読部会(日曜コース) | 12月12日(日) | 13:00 | 我孫子北近隣センター並木本館 | 佐々木 豊 |
| 「関東御取締御出役様方御調中書類留」 | ||||
| A古文書解読部会(火曜コース) | 12月21日(火) | 13:00 | アビスタ | 古内 和巳 |
| テキスト 「幕末の外寇二大事件」 | ||||
| B歴史部会 | 12月19日(日) | 11:00 | 上新木青年館 (日秀観音寺先、50m) |
高木 繁吉 |
| 湖北座会講座「手賀沼地域の治水対策を考える」(塩野谷 勉)に参加。終了後、合同忘年会(¥2,000) | ||||
| C合同部会新四国相馬霊場調査(18)‐柴崎、青山地区、忘年会‐ | 12月18日(土) | 9:00 |
「中央学院高校」バス停(下記活動報告参照)
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中澤 雅夫 |
| 12月度運営委(周辺探訪、第8回古文書講座他) | 12月25日(土) | 9:40 | 市民活動ステーション | 岡本 和男 |
| 我孫子周辺の史跡探訪会 小金城址と小金宿(参加は既に予約された会員のみ) | 12月10日(金) | 9:30 | 北小金駅改札口 (参加費¥400) |
岡本 和男 |
合同部会11月の活動−新四国相馬霊場調査(17)滝前〜下ヶ戸(11/20土) 参加者12名
阪東バス「中央学院高校」停留所前に集合、我孫子ゴルフ場と五本松運動広場の間にある「山の中の新四国相馬霊場道標」を見て36番(滝前不動または滝不動)に行き、そこから74番(西音寺-下ヶ戸-)に向った。予定ではさらに65番(無量院-青山-)、75番(東源寺-柴崎-)、55番(円福寺-柴崎-)まで足を伸ばす予定であったが、当霊場で最も多く霊場道標が残っている地域だけに時間が掛かり、65番への途中で今回の調査を打ち切った。
12月以降の予定は次の通り:
12月18日(土)09:00JR天王台駅北口集合→55番(円福寺-柴崎-)→75番(東源寺-柴崎-)→65番(無量院-青山-)→天王台駅へ向かう途中のすし屋「いける鮨」で昼食・忘年会(会費2,100円、飲み物別料金)。
1月15日(土)13:30〜15:30 勉強会(主として冊子編集・作成済み原稿検討、於我孫子北近隣センター並木本館−我孫子駅北口バス通り右折300m−)。
2月19日(土)09:00JR天王台駅北口集合→柴崎→27番(最勝院-高野山-)→38番(子の神)・43番(延寿院(子の神の中)-寿-)→42番(大光寺-緑-)→59番(興陽寺‐白山-)→JR我孫子駅。
3月19日(土)09:00JR我孫子駅北口集合→(バス利用?)84番(宝蔵寺-久寺家-)→85番(円性寺-土谷津-)→26番(南龍寺-布施-)→67番(薬師堂-布施-)→68番(東海寺-布施-)=利根川および取手地区方面を眺望して現地調査完了。→最寄バス停からバスで我孫子駅に戻る。
なお、68番近辺か我孫子駅周辺で「昼食・打ち上げ懇親」。
現時点での予定は上記の通りですが、天候および調査の進展具合等により、現地調査完了が4月以降にずれ込む可能性もあります。 (中澤 雅夫)
歴史部会10月の活動(10/24) 第25回「字誌」検討会 出席者13名
今回の発表は「日秀地区」で、担当は安本正道会員(日秀観音寺住職)。安本氏は地元日秀で生まれ育った土地っ子であり、こうした地元出身の会員は少ない。まだ調査研究は進んでいないということであったが、研究の方向性、当該地区の特徴だけでもということで発表していただいた。
資料は概要の説明文、地番と対応した小字表とその解説、小字の位置図、航空写真、日秀西遺跡建物跡分布図等であった。
日秀地区の位置は、我孫子市の中央やや東寄りになるが、旧湖北村でも南寄り中央にあり、古戸、新木、中里地区に囲まれ、南側は手賀沼を望む位置にある。そうした環境のためか古代中世の遺跡や郡衙跡が発見され、相馬郡の中心的な役割を担っていたのではと推測される重要な地域である。
特に平地にある小字「チアミ」(地網?千網?)地区に「日秀西遺跡」や「郡衙跡」が集中する。その他の小字名も地形との関係や将門伝説とのかかわり等から推測される説明があった。
なお当該地区は、古くは「日出村」と称していたが、元録5年(1692)に新木村と分村し、日秀村となったという。「ひびり」の名称についての諸説の紹介があり、また西側の小字「西ノ甲・西ノ乙」は、新木地区の香取神社を中心とした東端の「東」と対応していて、以前一村であったことによる小字名であることが推測されるという説明があった。また新木村の西側(イリ)ということから、「日入り村」→「ひびり村」となったのではとの意見もあった。
今後、日秀地区の年中行事、寺社、石造物、文化財等の整理も必要になってくる。
後半、「字誌」とは別に、わが国「戸籍制度」の変遷の説明が、安本会員から資料にもとづきあったが、大へん参考になった。
なお、11月28日(日)の第26回検討会は、中田 實会員の「船戸地区」の発表がある。
(関口 一郎)
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