平成16年9月26日発行   我孫子市史研究センター会報   第31号 
編集:編集委員会 第31号

疱瘡神の詫び証文

近江 礼子

 我孫子市下ヶ戸の染谷彦右衛門家と根戸の飯泉茂武家に、疱瘡神の詫び証文と称する文書が所蔵されています。

 疱瘡とは、痘瘡すなわち天然痘の俗称で、奈良時代に大陸から日本へ入って来て、明治時代に種痘が普及するまで、度々大流行を繰り返し、長い間日本人を苦しめた病気です。疱瘡に罹ると醜い痕を残したり、最悪の場合は死にも至りました。しかし、一度罹ると免疫ができるため二度と罹らない、いわゆる通過儀礼のようなものでした。そのため、疱瘡に罹ると疱瘡棚を作って疱瘡神を丁重に祀り、治ると丁重に送り出すことが古来から行なわれて来ました。

 我孫子市史編さん室で閲覧させていただいた染谷家の原本コピーの文書には、次のように書かれています。


         疱瘡神五人誤証文事

一我等共従往古世上一統流行致来候所、疱瘡重く為致候段、我等心得違、且又笹湯等相済候後七十五日之内、食餌等相障、一旦仕舞疱瘡悪敷為致、不届之段、誤入奉畏候事

  一別而(外郎)松川之類者、自今急度相止間、黍之如く、不二山之様山を揚可申事

  一序病より本服之中笹湯等済候迄、種々役体もなき戯言為致申間敷候事

一疱瘡乾仕舞不申内、当(如何)様痒味有之候共、猥指(掻)申間敷候、尤其身蚤等喰候

   共堪忍為致可申候、若無拠痒味有之候ハヽ、兎之手而撫置可申候事

右之趣已来急度相守、勿論仲間之者江も為申聞、貴殿名前書有之門江者、悪者とも覗而も見セ申間敷候

自今何方子なりとも、成人之後邪魔相成候様なる寄跡出来候ハヽ、如何様之御咎メ御仕置被仰付候共、其節一言之申訳無御座候、為後証誤証文、一札依而如件

     長徳五酉五月                        丈七尺山伏里見筋者判

                                         廿三才郭成男勝早荷軽判

                                         七十才乞食姥松川摺姫判

                                         十七才振袖邪之寛味判

若狭国小浜              五十才格類何某判

紺屋六郎左衛門殿


 丈七尺の山伏である里見筋者をはじめとする疱瘡神五人から、若狭国小浜(福井県小浜市)の紺屋六郎左衛門へ、長徳五(999)年に出された謝りの証文です。根戸の飯泉家の文書もほぼ同様でした。

 簡単に読み下すと、次のようになります。

  一 私たち5人の疱瘡神は疱瘡を流行らせ、重くしてきましたが、心得違いでした。

    また笹湯*1)が済んで75日後にまた再発させたのも不届きで、謝ります。

  一 松皮のような瘡(かさ)は止めて、黍(きび)くらいにとどめ、富士山のように山を上げさせます。

  一 全快するまで、役に立たない嘘は言いません。

  一 全快するまで、痒くても掻かずに我慢し、どうしてもの場合は兎の手*2)で撫でます。

これらのことを守り、仲間へも言い聞かせ、あなたの名前(紺屋六郎左衛門)を記した門へは、悪者が覗きみても見させません。

   子供が成人した時、邪魔になるような(あと)ができたら、どんなお咎めも受けます。

以上のように、疱瘡神が謝るという形式をとりながらも、重い疱瘡に至らせないよう誓ったもので、疱瘡に罹っても軽く早く済むようにとの願いが込められています。また、男女老若五人の名は、疱瘡の症状になぞらえて各々付けられた名前です。また、紺屋六郎左衛門は小浜港随一の豪商*3)で、永禄年中(155870)から戦後も疱瘡神の守り札を授けていたとされています。

 書体や内容から判断しても、平安時代の長徳五年に書かれた文書ではなく、後世(江戸時代)の人の筆によることがわかります。疱瘡に対しなす(すべ)のない時代、この証文を家の鴨居や戸口に貼って、疱瘡が軽く早く治るのをひたすら願った様子が窺えます。

 疱瘡神の詫び証文の第一人者である大島建彦氏によれば、この類の文書は関東を中心に約90点確認されており、疱瘡除けの呪符として用いられたとされています。そして、我孫子市の2点は4つの類型の第一類にあたり、『越前国南条郡湯尾峠御孫嫡子縁起』*4)を原典として、幕末のある期間に相次いで写されていったうちの2点のようです。同類文書は茨城県で17点確認できますが、全く同じものはなく、写し継いだためか少しずつ語句や形式が異なっています。千葉県では我孫子市の2点を含めて7点が確認できますが、この文書の学問的認識が広まれば、今後増えると推測できます。

 我孫子市文書目録からは残念ながら確認できませんでしたが、茨城県では「疱瘡祝受納帳」や「疱瘡祝餞別控帳」と題された疱瘡見舞帳が散見できます。疱瘡は正しく子供が大人になるための祝うべき通過儀礼の一つだったようです。また、享保151730)年の『一代書用』という手紙の用例集には、疱瘡見舞が病気見舞でなく、婚礼や元服等と共に祝儀の仲間に入っています*5)

 古文書の他に、疱瘡除けを祈願した石塔を市内の神社境内で確認することができます*6)。布佐の愛宕神社には、元文3(1738)年に建立された市内最古の「疱瘡神」石祠があります。次いで高野山香取神社の文政2(1819)年、根戸北星神社の文政3年、中里新田諏訪神社の文政5年と続き、その他2基が確認されています。また、中峠の竜泉寺には、疱瘡神の信仰と考えられる正徳元(1711)年の「大杉大明神」石祠が所在しています。さらに、市内では疫病除けの大杉囃子は昭和期迄続き、茨城県桜川村の大杉神社への代参は今も行なわれているようです。

 昭和50年のWHOによる疱瘡撲滅宣言により、疱瘡は完全に過去の病となってしまいました。古文書や石仏等の有形の物から、当時の疱瘡の一断面を窺うことは可能ですが、習俗等無形の物は、近代化の中でただ消え去るのみです。江戸時代の我孫子の人々が、疱瘡にどのように対応したのかは、勉強不足も相俟って不明です。疱瘡に限らず、過去の物となりつつある事象を、聞き取りや映像等によって記録する必要性を感じます。


*註  1)疱瘡の癒えた後、酒を混ぜた湯を浴びせること。
2)4代将軍家綱が疱瘡に罹った時、御三家や諸大名から兎の手が献上された。大島建彦「疫病神の伝承」『国語―教育と研究―』11p 栃木県高等学校教育研究会国語部会 2002年    
3)大島建彦「疱瘡神の詫び証文」『病よ去れ』54p 古河歴史博物館 2001年    
4)湯尾峠の茶屋で、疱瘡神と安倍清明が出会って疱瘡について論じた時、茶屋の娘を苦しめた疱瘡神の力に畏れをなした安倍清明が、共に疱瘡から守ることを誓った。注3)に同じ 55p
5) 3)に同じ 24p    6)『我孫子市史資料 金石文篇U』62p〜 我孫子市教育委員会 1981


各部会の活動と予定

部会

講座名

担当者

歴史      

@古文書解読(日曜コース)

10月10日

PM 1:00

アビスタ第4学習室

高田 明英 

テキスト 写本『落穂集』

A古文書解読(火曜コース)

10月19日

PM 1:00

アビスタ第1会議室

今村 昌人

テキスト 「日光御宮御参詣ニ付諸御触面冩並諸入用向取調帳」

B研究講座

10月24日

PM 1:30

サポートセ ンター A

清水 千賀子

講演録: 安澤秀一「文書館と地域の社会的集合記憶」を読む −本渡市立「天草アーカイブス」の紹介を兼ねて−

合同 C手賀沼べりの道今昔 歩く・見る・聞く
布佐台観音堂石造物調査(雨天時サポートセンター)
10月16日 新木駅南口
PM 1:30
松本 庸夫

合同部会9月の活動 (9/18)
 (1)所在地別リスト作成に備え、地域を分担して調査中の石造物について情報交換し、記載法の統一について協議した。我孫子市史資料 金石文篇に記載されていても見当たらないもの、新たに建てられたものも多数あることが報告された。
 (2)前回、金石文篇Tに記載されている我孫子駅南口交番裏の庚申塔銘文に1行相当分の欠落や、誤記のあることが指摘された。今回、調査した結果による全文が改めて紹介された。











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