平成29年1月1日発行   我孫子市史研究センター会報   178号  通算485号
  編集:編集委員会 

歴史講演会 我孫子市史研究センター・我孫子市教育委員会共催

「我孫子中世史へのアプローチ
 −相馬氏をめぐる歴史・伝承の世界−

講師: 岡田 清一 東北福祉大学大学院教授

平成29121日(土)午後2時〜4時(午後1時半開場) 我孫子市民プラザホール

定員:先着200名 入場料:一般500円(市史研会員、中高生無料)

      講演会終了後、「講師を囲む懇談会」を同ホールで開催、当日受付(参加費別途)


新年のごあいさつ

会長 関口 一郎  

2017年の幕開き 新年おめでとうございます。

昨暮1218日の湖北地区公民館等での『湖北村誌』(講師・柴田弘武顧問)の講演会・展示会は、ある意味で市史研究センターの活動を象徴する催しでした。

4月の新年度総会で、「郷土資料館」設置の推進について、会員及び市民の認識を高め、行政への要望を進展させようと採択。教育委員会とも話し合いの機会を持ちました。符合を合わせたように、市では『湖北郷土資料室』を7月にオープン。市当局も施設構築の突破口の実現に漕ぎつけてくれたものと、評価したいと思います。

本格的資料館の実現はいうまでもないこととして、せっかく機能し始めた施設を効果的に活用しようと市教育委員会と共催で取り掛かったのが、今回の催しでした。

忙しい日常のなか、そのようなことが可能かとの危惧もあったのですが、平成21年の市民団体フェアでつくった展示資料を保存していたのが功を奏し、23の資料を加えることで有効活用ができました。“財産”を手際よく使った事務局・運営委員会の実行力はさすがです。交通手段や開室日程の不便も克服、柴田講師の熱意あふれる講演は参加者を魅了。展示・講演会とも立派に成功し、今後につながる活動となりました。願わくは、会員の参加がもっと欲しかったですが。

さて、郷土資料館に関する当会の喫緊の課題は、歴史研究に欠かせない「古文書」の「保存・管理」です。現在「原本」は所有者に保存されていますが、湿度の高い日本では文書資料の劣化・損傷は否めなく、加えて所有者の世代交代も進み、保存そのものにも問題が生じています。当会の調査では、多くの所有者の保存困難の実態が判明しています。対策には一刻の猶予もなく、市当局の対応を強く望むものです。

当会の現在会員数は145名になり、6つの部会で活動を展開しています。なかでも部員数の多いのが2部会ある古文書解読部会です。教室の確保もさることながら、部会の運営にご苦労が多くなると思いますが、部員相互の助け合い学習もますます必要になってくるでしょう。

その他の各部会も活発に活動しています。会員各位は毎月の「会報」最終面の部会スケジュールを常に注視して、活動に参加してください。

会員皆さまの今年の更なるご活躍とご協力をお願いいたします。


「水戸道中 藤代宿〜若柴宿を訪ねる」に参加して

関口 眞喜子

129日(金)暖かな陽気に恵まれての一日、どんな所だろう?と楽しみに家を出発した。藤代駅集合。近江さんの説明で、『「洪水が三年来なければ、ぼた餅で壁が塗れる」と言われた程、水害が酷い地域だ』と分かった。

駅前から真っ直ぐの道を突き当り、左が藤代、右が宮和田、二つで藤代宿となる。まず先に、藤代側から歩き始める。街道筋と平行して家の背後に小貝川が流れて居り、時折、家と家の隙間より小高い土手が届く程に現れる。二階の屋根と土手の高さが同じ位に感じられる。家々は盛土もなく、当然のことの様に平らな地面に建っている。聞けば「土が無い」との話で、確かに周辺に山は無い。海抜10m以下の土地。フジシロと言う地名も縁代フチシロ…縁側エンガワなどの意味があるのかも?とのお話だった。その為、土が洗われ、土壌が肥沃になる。お金持ちは、水舟を持ち、土で小高い塚…水塚を作り財産を守る。〈なるほど〉と感じ入りテクテク歩く。物が船で流れた時代、店舗、旅籠が所狭しと建ち並び、江戸にまでも知られた、随分と賑やかで華やかな町、繁華街だったんだろうと想像した。


相馬神社

取手に至る道とのクランク突き当りの相馬神社を目指す。龍の彫刻が見事。柴又帝釈天が頭に浮かぶ。132161日創建。ここから宮和田へと元来た道を引き返す。「住井すゑ」が買いに来たと言う坂本呉服店前を通り、旅籠「銚子屋」へ。奥様が案内して下さり、明治224223歳の子規も見たであろうお庭を拝見。没後百年記念句碑がある。

『旅籠屋の門を出づれば春の雨』

次は、工事中の公民館の前から本陣跡の松と百日紅を遠くから確認し、その後、3軒しか家がなかったと言われている、片町を通って宮和田宿へと入る。本陣跡らしき、背の高い松が奥に聳えている家を見てから熊野神社へ。境内入り口、右に八坂神社。小貝川の横、すぐに建っている。ここから「宮和田の渡し」を偲びながら、文巻橋を渡り、対岸常陸国へ。

ここは、川を挟んで上総、下総、常陸、三つの国が出会う所。土手を暫く歩く。当日は小貝川の水位がかなり低かった。水量が多い時には、実際にしゃがんで手が洗える位の時があるそうだ。土手を下って慈眼院。少し川沿いに移動すると小さい石の祠があり、石に掘られた水の様子が見事。北斎の“浪裏”を連想した。横に並んだ同様の祠の中には、何やら


往還橋を行く


お札が幾重にも納められていた。往還橋を過ぎ、可愛い赤い屋根も新しい、高さ50p位?小さな三叉路道標〈字がハッキリ読める〉を見て進む。

『向江戸 右りうかさき なりた 左わかしは 水戸』

モダンな馴柴小を右手に見ながら行くと、初期水戸道中との合流点道標に到着。こちらも三叉路。高さ150p前後、一辺30p位?四方の石柱に刻まれた大きな字。こちらも読み取れる。

『水戸16里 江戸13里 布川3里』1826年文政92月建立。


三叉路道標

午後は、若柴宿へ向かう。田圃の中、真っ直ぐ進むと坂道(大坂)の入り口になる。右少し前方高台に、本城、外城跡の木のこんもりと茂った個所がある。入り口付近の広場は役場址。登り切った所、右に八坂神社、街道は緩やかに左手に曲がり突き当りのお寺まで直線に続く。藤代とは打って変わって、家と家との間に風情のある坂道が細く下って見える。名称も素敵。約500m5つの坂道:入口が大坂、延命寺坂、会所坂、足袋屋坂、鍛冶屋坂。若柴は高台にのっているのが解る。両側は、立派な門構えの旧家が建ち並ぶ。時代劇のセットの様だ。本陣は無いが、水戸斉昭のお母様が宿泊した旧家の前を通り金龍寺まで行く。1666年、現在地に移った曹洞宗の古刹。新田義貞と一族の墓がある。門前のうどん屋さんは廃業。残念。左に折れて、星宮神社に到着。平貞盛940年社殿建立。北斗七星のパワーが強そうだ。


星宮神社

ここで、若柴宿を調べ、整え、得意の木工技術を使って案内板などを製作し、地域活動をされている芳川晋さんと(偶然)落ち合う。若柴に入ってからは、散策がしやすい様、または、町内の回覧の為に、要所要所に手作りの素晴らしい屋根付き木製案内板が設置されている。芳川さんにお話しを伺い、コミバスで佐貫駅へと向かった。芳川さんはバスが発車しても私達のため見送って下さっていた。

藤代宿と若柴宿、隣同士だけど、全く異なる江戸時代。我孫子からこんなに近くに、1000年も前の歴史が生き生きと残っている。それを保存しようと気付き、努力されている方がいて、本当に良かったと心より思った。様々な準備をして頂き、近江さんや皆様に大変お世話になりました。ありがとうございました

12月歴史探訪部会)

「水戸道中 藤代宿〜若柴宿を訪ねる」に参加して

萩原 正美

 128日(金)、風の無い穏やかな好天に恵まれて、参加者一同27名は930分に、藤代駅改札口に集合。近江礼子会員の引率で午前中に藤代宿(片町と宮和田をあわせて一宿)、午後から若柴宿を探訪した。

近江礼子会員がとても見やすく、詳細かつ分かり易い資料を作成・配布して、行く先々で丁寧で、中身の濃い説明を聞かせてもらったおかげで、全員が江戸時代にタイムスリップして、水戸道中の旅宿を堪能できた。

合計17か所を訪ねたが、配布資料と現地説明をもとに、特に印象に残った8か所を略載する。

(1)  水戸道中

慶長9年(1604)、五街道と脇往還の整備。日光道中の千住宿と水戸を結ぶ脇往還。

天和3年(1683)以前は、取手宿・藤代宿を通らず、我孫子→布佐→布川→若柴宿。

一里塚(我孫子・東我孫子・湖北・中田切・須藤堀・紅葉内)が確認できる。

千住宿から水戸宿まで20宿あり。

(2)  旅籠「銚子屋」(現在は河原崎書店)

旅籠「銚子屋」は、江戸時代には藤代宿の脇本陣(大名の供人などが宿泊)を務めた由緒ある家だった。

明治2242日、23歳の正岡子規が東京から水戸へ赴く途中に「銚子屋」に宿泊した。「まだ日高ければ牛久まで行かんと思いしに、我も人里の道にくたびれて藤代の中程なる銚子屋へ一宿す…(中略)

四日朝起き出でてみれば小雨しょぼしょぼとふりいたるに少し落胆したけれども春雨のこと何程の事があらんと各携へりし蝙蝠傘をひろげぬ…」(水戸紀行より)。

そして水戸へ旅立つときに「旅籠屋の 角を出れば 春の雨」の一句を詠んだ。近江さんが河原崎さんの息子さんのお嫁さんと懇意なので、1989年河原崎夫妻が、自宅の庭に建てたこの一句を刻んだ句碑を拝見することができた。

                    旅籠銚子屋の庭・子規句碑を見る

(3)  藤代宿本陣跡

日本橋から7番目の宿場。屋根は茅葺の寄棟、正面玄関は唐破風造、式台は玄関。母屋の規模は取手宿本陣を上回る。しかし本陣は昭和30年に、藤代町役場建設のため取り壊されてしまったが、玄関前右の老松と、左側の百日紅は今も健在で往時を偲ばせる。

藤代宿の名主と本陣を務めた飯田家は清和源氏の流れを汲む横瀬氏と称し、江戸時代に飯田と改めた。布佐井上家12代当主井上二郎(18731941)の生家。

(4)  宮和田宿本陣跡

現在、本陣は残っていない。名主・本陣は宮和田徳左衛門家。先祖が下総国香取郡宮和田郷から移り住み田畑を開発。天保郷帳によると、宮和田宿の石高は1035.091石で藤代宿の698.345石より多い。

(5)  熊野神社

祭神は(こと)解男(さかのおの)(みこと)・伊佐奈美命・早玉男命。創建は治承4年(1180)千葉常胤と伝えられているが、天正10年(1583)千葉俊胤との説もある。

 天明年間(17811789)に火災にあい、享和2年(1802)に再建。大正11年・昭和8年・昭和18年の小貝川改修により3回も移転、その度毎に境内が縮小した。

(6)  慈眼院(小通観音)

文巻橋で暴れ川と呼ばれた小貝川を渡ると川沿いに慈眼院がある。天正末期(15731592)、由良国繁が岡見家一族の供養のために建立した観音八薬師の一つ。本尊の十一面観音は恵心僧都源信の作。昭和54年、竜ケ崎市文化財指定。

明治初年に廃寺になったが(廃仏毀釈)、七観音八薬師の由緒をもって若柴宿金龍寺の末寺として再興された。

(7)  若柴宿

水戸道中8番目の宿場。八坂神社から金龍寺までの500mは下町・仲町・上町から成り、明治19年に宿場の大半が焼失したが、今でも立派な門構えの旧家が続き、水戸道中で最も江戸時代の面影を残している。絵心のある方は、是非写生して欲しい風景である。

天保郷帳によると若柴宿の石高は1581.191石であり大きな宿であったことがうかがえる。

                     若柴宿を行く

(8)  金龍寺

創建は諸説あり。本堂は天保4年(1833)に大火で類焼し、安政5年(1858)に再建。

国指定重要文化財「絹本着色十六羅漢像」があったが、茨城県立歴史館へ寄託。新田義貞・新田貞氏・由良國繁の墓がある。

                    新田氏墓

(9)  星宮神社

祭神は(あめの)御中主(みなかぬし)(のみこと)(天地開闢の初め、高天原に最初に出現)。神仏習合により、妙見菩薩や北斗七星信仰と一体化。星宮の星は北斗七星を指す。天慶3年(940)、平貞盛が神徳(将門の乱平定)を得て建立。境内に「駒止の石」がある。これは、馬に乗った平貞盛がここを通った時、馬が立ち止まり動かなくなった。見ると星大明神の祠があり、参拝すると馬は動きだしたという。

10若柴宿の郷土史家、芳川晋氏

芳川晋氏は金融機関に定年まで勤務し、定年後地元の歴史を地道に調査・研究し、多くの歴史的事実を発見した。その成果を「若柴物語」「若柴宿の祭礼」として上梓し、更に手作りで27種類の木製案内板を作成して、それぞれの場所に建てて人々の理解を助けている。

星宮神社の境内でお会いしたが、真摯な態度で地道に地元史を調査・研究する姿は私たちのお手本のようだった。

藤代宿では、江戸時代の人々が水の恵みと水との不屈の闘いによって、豊かな生活を送ったこと、若柴宿では今に残る江戸時代の家並み、および郷土史家芳川晋氏が特に印象に残った。

 最後に、素晴らしい資料と丁寧な説明をしていただいた近江礼子会員に深く感謝し、あわせてこの探訪の企画・実施にご苦労いただいた、探訪部会員の皆さんに感謝申し上げます。


歴史探訪部会12月の活動

長谷川 秀也

○歴史探訪 水戸道中を歩く 「藤代〜若柴宿」

  ・日時    129日(金)
  ・集合     930 JR藤代駅 改札口
  ・解散    1440 星宮神社
  ・参加者   27

*出発時は晴天、微風、気温10℃以下の冬の朝でしたが、探訪中は汗ばむほど暖かくなりました。近江会員の丁寧、簡潔な案内で藤代宿、宮和田宿、台地上の若柴宿、三宿の歴史・地勢を学びました。解散後、参加された方々から歴史探訪「水戸道中を歩く」を水戸まで数回に分けて開催してほしいとの要望がありました。

*行程 930JR藤代駅北口出発〜相馬神社・高蔵寺・坂本呉服店・旅籠「銚子屋」(23歳の正岡子規が宿泊)・藤代本陣跡・愛宕神社・宮和田宿本陣跡・熊野神社・宮和田の渡し・慈眼院(小通観音)・往還橋・三叉路の道標(初期水戸道中との合流点道標)・1210同所近辺(昼食1300同所出発〜・八坂神社・若柴宿(板塀を回らした門構えの旧家が続く)・金龍寺(新田義貞と一族の墓)・星宮神社・同所1440解散〜JR佐貫駅(コミュニティ−バス)

◯今後予定

・平成291月は市史研主催「歴史講演会」が開催されるので休会

・平成2928日(水) 座学 場所;北近隣センタ−並木本館会議室3

時間;13301530(詳細は1月会報でお知らせします。)

・平成2938日(水)「相馬霊場の札所参り―10(取手地区)」


井上家文書研究会12月の活動報告

品田 制子


 1210日(土)於つくし野館

11月に配布した下記の6点を解読・解題

@明和4年亥正月「去戌年村入用遣改差上帳」919

 相嶋新田の正月から12月まで名主給や定使給など、村に懸る諸入用(費用)12982文を、反別(高付・反高場)429623歩であるので1反に付き鐚9文1分の割合で、村百姓が持高割で負担した記録。

A明和4年亥3月「三河屋新田宗門人別御改書上帳」811

 地守百姓庄兵衛家族が息子1人の誕生で、男4人、女4人に変更された人別帳。

B「(前欠につき表題不明)」1728

 発作新田藤左衛門組請地である反高場が、長さ100間、横15間の水落となり、自然と水道(みずみち)が出来たため、耕作不能の潰地となったことから代替地を願い出た。その節は堀浚いは自普請で行うとの文書。

C明和4年亥4月「相嶋新田請字六軒堤際屋敷地證文之事」1200

 相嶋新田請六軒堤屋敷地地主七郎兵衛が表間口五間、裏行見通しを与右衛門に1両と永842分で譲り渡した証文。

D文化4年卯7月「一札之事」1200

 時代は下って文化4年の資料であるが、発作新田、六軒新田、相嶋新田の百姓が沼の水内請地の漁業に事起こり、それに懸る諸入用、諸雑用はすべて心得ているとの文書。

E明和4年亥6月「博奕三笠附之儀ニ付被 仰渡候御請書」2054

 武蔵、下総、上野、常陸辺りは人気(じんき)強く、宜しくない者が多くいる。三笠附等博奕をすれば農業が等閑になる。そうした行為を見聞きしたら隠し置かず、注進したり、召し捕えてもよいとの仰せ書。現在、国会で討議されているカジノ法案の逆を行く文書でもある。


我孫子の社寺を訪ねる 21

―中峠地区(2)―  法岩院

合同部会 金成典知

法岩院   我孫子市中峠1561(小字は外谷津)

平成281119日、我々合同部会メンバーは中峠にある法岩院を訪ね、川村住職に本堂内をご案内頂き、限られた時間ではあったが我々の質問にお答え頂いた。御多用中にも拘らず懇切に対応していただいたことを感謝したい。

当寺は、JR成田線湖北駅の北口から北西に約1kmのところにある。古利根沼(かつて利根川が大きく南に蛇行した流路の跡)の南、今は「古利根自然観察の森」として整備されている芝原(中峠)城跡と、谷津(現在の大和団地)を挟んで南に相対する少し高まったところにある。境内の東隣りと本堂の西側は高くなっている(台地が東から西になだらかに傾斜している)ので、本堂のある境内地は以前もう少し高い位置にあったかも知れない。

 法岩院山門と本堂

1.   寺の歴史 

曹洞宗の寺院で、本尊は釈迦如来、山号は祝融山(しゅくゆうざん)。茨城県猿島郡五霞町(ごかまち)(茨城県だが利根川右岸、埼玉県側にある。江戸川を挟んで関宿城跡に近い)の東昌寺(とうしょうじ)末であった。戦国時代の天文11年(1542720日の創建と伝わる。市内柴崎の東源寺と中峠の長光院は、当寺の末寺になる。

開山(せつでん)しんりょう)和尚。東昌寺の5世で、正覚禅師の諡号を賜っている(本覚禅師とする資料もある)。土浦市の土浦城跡近くにある(じん)龍寺(りゅうじ)の開山でもある(こちらは天文元年の創建)。雪田和尚は東昌寺開山の即庵宗覚の法弟で、即庵は曹洞宗の有力寺院で神奈川県南足柄市にある大雄山最乗寺の11世住職である(雪田和尚も最乗寺の147世住職)。東昌寺の開基は古河公方の重臣で関宿城主の梁田持助、神龍寺の開基は土浦城主菅谷勝貞で、開基はいずれも土地の領主である。

最乗寺との関係は、大正時代に湖北村役場が発行した『湖北村誌』に、「抑も当山(引用者注 法岩院のこと)は、関八州甲信豆駿の諸国に跨り、二十五派四千余ヶ寺の末寺を有する最乗寺(・・・)の支流にして、・・・輪住(引用者注 住職を短期間に交替でつとめること)候補寺の栄を担いたる百三十余ヶ寺の一に列し・・」とあるように密接であったが、現在は独住(輪住に対する言葉で、一人の住職が引退するか死去するまで住職をつとめること)制になったこともあり、本末の関係は薄れている。

開基は芝原城主の河村出羽守勝融。当寺の山号祝融山は、開基の法号「祝融斎心岩永法大禅定門」に因んでいる。また、寺名に法号の2文字、法と岩が用いられている。「祝融」を『広辞苑』で見ると、@中国で火を司る神A中国で夏の神B火災、火事、とある。山号は、このどれを表しているのだろうか。

河村出羽守の出自は諸説あって、確定しない。前述の『湖北村誌』は、当寺にあった延享4年(1747)の梵鐘の銘などをもとに「千葉氏の支族」としているが、『我孫子市史 原始・古代・中世篇』は、「千葉一族説は後世の付会(ふかい)であろう」524頁)とし、出自は不詳ながら、「おそらく、北条氏に従属していたのであろう」(560頁)としている(平野明夫氏稿)。昭和563月我孫子市教育委員会発行『我孫子市史研究』第5号の「中峠城主河村氏について」(長沼友兄氏稿)は、後北条氏草創の時期からの家臣団相模衆14家の中に河村家があり、中峠の河村氏は「この後北条氏の直属家臣団の一員である河村氏が、何らかの目的で我孫子中峠地区に登場してきたもの」としている。昭和5812月我孫子市教育委員会発行の「我孫子の史跡を訪ねる」の当寺の項(増田義二氏稿)にも、「河村氏の本領川村郷は、曹洞宗の古刹大雄山最乗寺のある現神奈川県南足柄市(南は引用者補記)に隣接している。また本寺東昌寺がこの最乗寺の門末にあたることから、河村氏がこの地に法岩院を開基したいきさつがうかがえるかと思われる」と書かれている。

しかし、前述の『我孫子市史』は、この頃の北条氏は「いまだ直接被官を派遣して常駐できるほどには西下総地域を掌握していない。したがって、北条氏被官説は成り立たない」と否定的である。北条氏の家臣団の一員である相模の河村氏と中峠の河村氏をつなぐ確かな史料が見つからない限り、確定は困難と思われる。

開基河村出羽守勝融の没年は天文15年(1546)。河村氏はおよそ50年当地を支配したが、天正18年(1590)北条氏の滅亡によって没落し、芝原城も廃城になった。開山雪田和尚の没年は弘治元年(1555)である。

江戸時代の当寺については、再三の火災のため文書資料が残っていないが、『湖北村誌』所載の延享4年(1747)梵鐘銘によれば、当寺は万治年間(16581661)に火災に遭って堂宇が焼失したが、寛文年間(16611673)(『村誌』では寛永とあるが間違い)に12世霊峰淳苗が再建。16世天然自暁が元文から寛保年間(17361744)にかけて、僧堂、庫院、方丈の堂宇を整備し、釈迦如来像、開山像、達磨大師像、大権(だいげん)修理(しゅり)菩薩像、韋駄天像の五体の尊像を整えたという。この銘がある梵鐘は残念ながら第2次大戦中に供出されて今はない。

 『湖北村誌』によれば、はじめ、寺は寺山台(寺山台は中峠の今の小字にはないが、現在地の東に続く台地上と思われる)にあったが、当寺に見舞われた2度目の火災によって、20世越山大超のときに現在地(地蔵ヶ谷津と称された)に仮堂として建立したものを本堂とした、という。『郷土あびこ』第3号法岩院の項(林 義男氏稿)によると、昭和53年の旧本堂解体の折、大黒柱の先端に「明和元年(1764)申12月吉日」の墨書があった。移転新築はこの時期であろうが、とすると、「我孫子市社寺要覧(寺院篇)」に書かれているように、時の住職は18世心牛牧宗であったかも知れない。寺地を移した法岩院は、周囲に水田が広がっているところから、「田寺(たでら)」と通称されたという。

明治に入ってからの「寺院明細帳」には、本堂間数間口8間奥行3間、庫裏間数間口8間半奥行5間半と書かれ、境内坪数800坪、境内に大師堂、茶堂、鐘楼堂の三宇があると書かれている。

 内陣
 時代は下って、昭和54年に本堂を改築し、境内を整備している。現住職は33世に当たる。

2.   境内・堂宇

境内入口左右には、「新四国五十一番」(年紀なし)の札所塔と「不許葷酒入山門」(安永5年(1776)銘)の結界石がある。短い石段を上がった左右には、昭和48年に前32世住職が造立した「祝融山法岩院」と「曹洞宗」の門柱がある。石畳を進むと正面に本堂、右に庫裏、左に手前から長屋形堂と大師堂がある。本堂は間口9間奥行7間。入母屋造向拝付銅板葺で、前述のように昭和544月の改築だが、今も当時の状態が保たれている。堂内は前面と西側に廊下があって、中央仏間の奥を位牌の間としている。右側の庫裏と本堂の間に玄関が設けられている。本堂正面上に掲げられた「祝融山」の額は大雄山最乗寺独住18世の余語翠厳老大師の書である。

左奥の大師堂は、明治13年(1880)の再建で、方一間の入母屋造向拝付瓦葺。向拝部の天井に彩色の七福神が描かれ、四方の垂木が扇垂木で、柱に昇り龍、降り龍の彫刻があるなど、小さいが豪華な建物である。新四国相馬霊場の五十一番札所で、伊予石手寺の移しである。

左手前にある四間一棟の長屋形堂は、明治の寺院明細帳に記載がないので比較的新しい建物だろう。4つの堂には、弁財天、道了尊、地蔵菩薩、弘法大師が祀られている。

3.   仏像など

本堂 内陣中央には本尊釈迦如来座像、その右に頭陀第一摩訶(まか)迦葉(かしょう)尊者、左に多聞第一阿難尊者(アーナンダ)の立像が並ぶ。これらは本堂改築後に奉安されたものである。

同じく内陣には、中央に道了大さった、右に高祖(じょう)(よう)大師(法統の祖道元の諡号)、左に太祖常済(じょうさい)大師(寺統の祖瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)の諡号)の位牌が配されている。

内陣上部左右には、祖師達磨大師の座像と曹洞宗の守護神である大権修理菩薩の座像が配されている。いずれも寛保4年(1744)に奉安されたもので、本堂改築時に修復され、今も色鮮やかである。

同じく寛保4年に奉安された像は、釈迦如来、開山像、韋駄天像の三体である。開山像、すなわち雪田和尚の像は位牌の間に奉安されている。同末の神龍寺の像を手本に造立したもので、右手に払子(ほっす)を持つなど、少し姿を変えている。韋駄天像は本堂横玄関の正面上部に安置されている。韋駄天は寺院の伽藍の守護神で、甲冑姿で合掌する手に宝棒を捧げるのが通例だが、この像は右手に宝棒を構え持つ姿になっている。

かつて本尊として仏壇の中央にあった寛保年間の釈迦如来は位牌の間にあると思われるが、現地調査の際は確認できなかった。

 釈迦涅槃図
 本堂内左の廊下上には元文4年(1739)銘の殿(でん)(しょう)(禅寺の仏殿などに吊るされる小鐘)が、右の廊下上には歴代住職が用いられた駕籠1挺がある。

寺が所蔵する画幅に「仏涅槃図」がある。明治29年に湖北村(当時)中里の中野治四郎氏が寄進したもので、釈迦が入滅したときの情景が彩色で描かれている。

大師堂 堂内正面に石造の弘法大師像が安置されている。

長屋形堂 向かって右端の小間には弁財天が祀られている。『我孫子市史 民俗・文化財篇』によると、元文5年(1740)の中峠村の記録に法岩院弁天堂にあったと書かれているもので、その堂が廃されて今はここに安置されている。木造彩色の女神の姿である。

 右から2つ目の小間には、「道了尊」の額が掲げられ、中に羽根団扇型灯明台がある。道了尊は前述の最乗寺の守護神である。室町初期に総持寺(当時は能登にあった)の16世住職であった了庵慧明が転住して故郷の相模に最乗寺を開山したとき、その事業を土木面で助けた人物が道了尊(道了大さつた)で、了庵が亡くなったとき、最乗寺を護持すると言って天狗に姿を変えたという伝説の主である。調査時に確認していないが、本堂内に天狗姿の道了尊立像も安置されている。

残り2つの小間には、木造地蔵菩薩像と石造弘法大師像が安置されている。

4.   主な石造物

 本堂の左を奥へ進んで、そこから左へ上がる石段を登ると、高台の正面に当寺開基の河村出羽守とその一族の墓石あるいは供養塔が並び、左右には歴代住職の卵塔(無縫塔ともいう)が並ぶ。正面の最右の自然石には、「当山開基祝融斎心岩永法大禅定門、天文十丙午歳六□□□日中峠邑城主川村出羽守勝融」と刻んである(解読は『我孫子市史研究』第5号による)。天文十年(1541)の干支は辛丑で、丙午は天文15年なので、年号の誤記と考えられている。

  河村出羽守等の墓石・供養塔と歴代住職の卵塔

この高台の南は、境内中程から入る竹林の道で、その両側に多くの石造物がある。江戸初期からの造立になる「十六夜塔」(延命地蔵などを彫る)、「十九夜塔」(如意輪観音を彫る)、「二十三夜塔」(勢至菩薩、あるいは文字を彫りこむ)、庚申塔などである。

本堂左手前の六地蔵が並ぶ奥に、天保5年(1834)造立の大きな筆子(ふでこ)塔がある。市内最古の筆子塔といわれている(『我孫子市史 民俗・文化財篇』)。前面に「前永平当院廿三世道珍海大和尚 禅師」、台石の正面に右からの横書きで「筆子中」とある。

5.   年中行事など

最大の行事は8月1日に行われる大施食会(おおせじきえ)(大施餓鬼)である。他の寺院の僧侶も参加して盛大に行われる。祖先、父母、親類、縁者や無縁の霊を供養する法要である。

そのほか、正月2日の新春大祈祷会を初めとして、彼岸会などの年中行事や、座禅会、写経の会などが行われている。

6.   檀家

湖北の中峠、古戸、中里一帯を中心に、多数所在する。

参考文献

 1.『我孫子市史 民俗・文化財篇』(平成2年)

 2.『我孫子市史 原始・古代・中世篇』(平成17年)

 3.『我孫子市史資料 旧町村誌篇 湖北村誌』(昭和55年)

 4.『我孫子市史研究』第5号(昭和56年)

 5.『我孫子市史研究』第12号(昭和63年)

 6.『我孫子の史跡を訪ねる』(平成7年)

 7.『郷土あびこ』第3号(昭和56年)

      以上すべて我孫子市教育委員会発行

8.『我孫子の石造物(所在地別リスト)』(平成17年)我孫子市史研究センター合同部会発行

9.『新四国相馬霊場八十八ケ所を訪ねる』(平成25年)我孫子市史研究センター発行



合同部会12月の活動

12/17(土)                                  中澤 雅夫

午前中に社寺調査報告書原稿の検討を行い、正午より昼食忘年会を行った。

1.社寺調査報告書原稿の検討 参加者16

  於 北近隣センター並木本館会議室1

 法岩院と西音寺の原稿を検討、しかし、西音寺は時間切れのため持ち越しとなった。

(1)―中峠地区(2)―法岩院(担当:金成典知会員)

原稿案は同院住職にお見せして加筆訂正して頂いた由。検討では、用語・字句の修正、「本尊」の記載、「参考資料」に番号付記などの意見があり、そのように修正することとなった。

本稿はシリーズ「22」を予定したが、西音寺が検討未了のため「21」となった。

(2)―下ヶ戸地区―西音寺(担当:藤井吉彌会員・関口一郎会長) 検討概要以下の通り:

 @本尊を記載する。

 A「墓碑」→「墓石」。

B「・・これ以降の住職の位牌は見当たらない。したがって18世紀の前半には、すでに寺の管理・運営は村落の住民の手で行われていたのではないか・・」→住職の位牌がないからといって無住とは限らない、無住でも村落の住民が管理・運営したとは限らない、確かな証拠がないのに断言するのはよくない、などの意見あり。

 C「安政四年の修理、彩色補修」→記述過多。

D本堂、「1階躯体は・・」→本堂は平屋なので「1階」は不要ではないかとの意見があり、柱・壁等と屋根の構造が違うので、「1階躯体」とするのが正しい、との説明があった。

E掲載する写真の位置は指定されているが、写真が未提出なので、ベタ・コピーを合同部会員に12月会報(12/24作成予定)に同封送付する。

2.昼食忘年会                       参加者17

7月から参加の「新入部会員」矢野朝水会員の音頭により乾杯、今年1年の活動に感謝し、新年のお互いの健闘を祈った。

3.今後の予定

新年1月=既報の通り歴史講演会のため休会。

2月=2/18(土)13:30、於 市民活動St.(けやき10階)西音寺調査報告書原稿等を検討する。


歴史部会11月の活動報告

飯白 和子

16回研究講座 出席者21

日時: 平成281127日(日)

午後130分〜430

会場: 我孫子北近隣センタ―並木本館 会議室3

発表者:飯白和子会員

テーマ:「明治維新と村の神々・そのU―旧青山村の日天子社」

配布資料:本文、資料共6

【報告の要旨】

今回の調査の端緒は、昨年926日(日)に「我孫子これからフォーラム」参加企画として計画された「久寺家城周辺を歩く」に参加。はじめに岡本和男会員によるガイダンスがあり、我孫子から久寺家・布施にいたる「久寺家みち」沿いの天子山にかつて「天子社」が祀られており、この天子社は青山の八幡神社内陣の「日天子」の額、あるいは燈籠に刻まれた「日天子」(祭神は大日靈命)と同じ「日天子社」だったのではないかとの説明があった。そこで、近在ではあまり聞かない「日天子社」とはどんな神社だったのか、調べてみることにした。

1)近世の青山村

青山村は、元和2年(1616)から明治維新まで本多田中藩領。石高236石弱。水戸道中の青山〜取手の利根川の渡し場の村として栄えた。

寺は1カ寺。日照山無量院(真言宗・中峠の龍泉寺末)。本尊は、不動明王。開基・開山は不明であるが、無量院境内から正和元□(1312)の阿弥陀三尊の武蔵板碑が発見されていることと、同本堂には室町期に遡るのではといわれている十一面観音像があり、無量院創建以前の寺院の存在が指摘されている。

2)青山の日天子社とその信仰について

『口訳利根川図志 巻260頁に、日天子社について次のように記している。「(略)土地の人びとは「御天様」(オテンサマ)とよんでいる。一つの不思議な故事がある。それは、凶作の年には、この社地におびただしい芹が生えて、近所の数百の人の食料となる。ところが、ふだんの年には少しも生えないというのである」。この記述から日天子社の信仰が凶作・飢饉と関係していたことを指摘した。

また、現青山地区の鎮守八幡神社の社殿前に「帰命日天子」と刻まれた宝暦5年(1756)と天保4(1833)に奉納された燈籠が建立されている。銘文から、宝暦511月に海老原喜太夫を神主とし21名の講員で祀り始められたものと考えられること。49年後の文化12年(181512月には、「天下泰平 五穀豊穣 萬民豊楽 郷中安全」を願いまた、感謝し常夜燈を奉納するが、「供養御神酒惣氏子」とあるから村中が氏子になったものと思われること。ところが、天保411月に海老原丈右衛門および世話人4名と「青山村中」により、再び「帰命日天子」と刻んだ燈籠が奉納される。一般に、東北3大飢饉として@宝暦の大飢饉(宝暦5-7年)A天明の大飢饉(天明3-4年、7年)B天保の大飢饉(天保3-10年 特に4年)があげられるが、こうした飢饉と関係した奉納だった可能性を指摘した。

3)日天子と十二天

日天子とは、密教では単に日天といい、世を守護する十二天の一つで、もともとは古代インドの神話に出てくる太陽を象徴した神(スールヤ)が密教にとり入れられたものという。青山の日天子社は、この日天(日光天子ともいう)を祭神として祀ったものと考えられること、また、十二天供についても説明。

4)日天子社の旧在地と青山村の家並

明治9年の「下総国南相馬郡大字地図」、昭和31年の「我孫子町全図」及び『我孫子の地名と歴史』に掲載の「青山地区の小字区分図」から日天子社、水神社、弁才天の旧在地を推論した。また、これらの地図と「青山村屋敷番号帳」(明治6年)、燈籠の銘文から明治初期の青山村の家並の復元を試みた。

5)青山村の神々と明治維新

慶応4328日の神仏判然令により、日天子は皇太神(天照神社)、弁才天は厳島神社、八幡大菩薩は八幡大神に改称。さらに、明治421010日に八幡神社に合祀され、現在は青山地区の「八幡大神 皇大神両鎮守」として祀られている。


古文書解読火曜部会12月の活動報告

茂木 勝己

五人組御仕置帳」の解読も4回目となり、3班は全65の内4761を解読しました。

紙面の都合上、一部を紹介します。

一 御年貢皆済これなき以前穀物を他所へ出してはいけない。金納のため米を売るときはまず納米の数を見積もり、納米ほど上米にこしらえ、次の余米を売ること

一 御城米・荏大豆ともに名主組頭立ち合い、青米死米籾糠などないように十分吟味すること。俵作りは二重にして小口をかがり、すり縄にして作ること。手代印形の中札を入れ、外札は木または竹でもよい。国郡村米主の名を記すこと。

一 御城米積み出すときは、名主組頭立ち合い、俵数を改め、船積み出船中に米差し取りがないように船頭たちに堅く申し付けること。御蔵前において悪米、ふけ米などないようにすること。御蔵前の入用や船中へは雑用などが多く、入らないよう申し付け委細帳面に記させこれを渡すこと。

一 御年貢金銀名主方へ取り集め、控え帳に納め主の名を書き印判させること。控え帳に押切(割り印)印形し、後日間違いがないようにすること。

一 御年貢納米の時、名主方より米主へ銘々手形を渡し、庭帳(年貢納入を記録し捺印した帳簿)に入念に書き付けること。印形なきは後日に訴えがあっても取り上げないこと。

一 御年貢免定を出すときは、村中のものに見せ、名主組頭方より村中大小の百姓出作の者まで残らず触れ寄合で免割をすること。小物成浮き役臨時もの米金一人前宛て委細書き付けること。小百姓にも疑われないよう申し聞かせ、この書き付けを写させその上免定の奥に別紙に綴じ、立ち会い見ることができる旨を書き付け、銘々印を取り置くこと。郷蔵(共同倉庫)の戸にも免定写しを貼っておくこと。

一 手代村々を廻るときいつも飯米塩味噌などを持ち、お定めの木賃を払い、百姓のご馳走にはならず、村の費用が出ないようにすること。もし寄合飲食村入用が必要あれば名主組頭に申し出ること。

その他

*納租額記して領主から村方交付する文書を〈免定()めんじよう)〉と呼びまた各百姓への割付けを〈免割(めんわり)〉と称した。



事務局便り

教育委員会共催・特別展示『湖北村誌』とその草稿・講演会・見学会が終了しました

    12/1322                                  12/18

    湖北郷土資料室                        湖北地区公民館と中里地区

我孫子市史研究センターは、郷土資料館設立の呼びかけ活動の一環として、今回設置されたばかりの湖北郷土資料室において、「一世紀前に書かれた郷土史『湖北村誌』とその草稿」の特別展示を湖北地区公民館で8日間我孫子市教育委員会と共催で開催いたしました。連日、何人もの市民の方がお見えになり、熱心に展示を見学されました。市史研会員が毎日交代で解説にあたりました。

また、この価値ある「村誌」の著者である菅井敬之助・校閲者である中野治房らの事績を語る講演会(講師:柴田弘武市史研顧問)を湖北地区公民館で開きました。会場の第1会議室には90名近くの方が聴講に来られました。

講演終了後、会場近くから市史研会員のご案内で、中里地区の見学会(湖北一里塚、中野治房邸、星野邸、中里薬師堂など)を開催し、20名ほどの方が普段とおり過ぎていたところをじっくり見て回られました。

特別展示・『湖北村誌』とその草稿
 
 
           特別展示全景                       湖北村誌草稿と他町村誌              菅井敬之助の湖北村誌草稿類
  

      市民活動フェア2009展示パネルを転用した           『湖北村誌』に見る昔と今             菅井・中野年表

講演会・見学会
  
                講演会会場で                       講師 柴田顧問        見学会で中里を歩く・中野治房邸


各部会活動・1月の予定
会員は下記6部会のどれにも参加できます。初めての参加の時には部会の担当者に連絡して下さい。

部会と集まり 担当
@古文書解読日曜部会(第2日曜) 18(日) 1300 アビスタ
5学習室
清水 千賀子
テキスト  故高田明英会員所蔵 大道寺友山著「落穂集」
A古文書解読火曜部会(第3火曜) 117(火) 1330 ケヤキプラザ9F
ホール
日出夫
テキスト 川村一夫家文書「五人組御仕置帳」
B井上家文書研究部会(第2土曜) 114(土) 1330 我孫子北近隣センター 並木本館会議室2 品田 制子
C歴史部会 (第4日曜)
近世初期の「領」名称と由来−我孫子周辺を中心にして”山崎章蔵会員
122(日) 1330 我孫子北近隣センター
並木本館会議室3
谷田部 隆博
D合同部会 (第3土曜) 
 
28年度歴史講演会開催のため休会
E歴史探訪部会 同 上 休 会
1月度運営委古文書講座、総会準備他 127 940 市民活動St.大会議室 岡本 和男
歴史講演会* 「我孫子中世史へのアプローチ」 講師:岡田 清一先生
 講演会後に「講師を囲む懇談会」
121(土) 1400 我孫子市民プラザ
ホール
岡本 和男

事務局便り

・新入会員のお知らせ12月度入会

染谷 淑子さん 中峠

どうぞよろしく。

只今、顧問含めて会員数145名です。

* 歴史講演会

「我孫子中世史へのアプローチ

−相馬氏をめぐる歴史・伝承の世界−」

日時:H29/1/21(土)14001615

会場:我孫子市民プラザ ホール

講師:岡田 清一 東北福祉大学大学院教授、我孫子市史「原始・古代・中世篇」の中世の部で執筆)

参加費:500円(高校生以下、市史研会員は無料)

☆岡田先生の著書が会場で出版社から販売されます。

講演会終了後、同じ会場で「講師を囲んで懇談会」開催、自由参加、会費未定

講演会場には関連展示パネルを掲示予定。

・第18回古文書解読講座のお知らせ

日時:平成2921日(水)、10日(金)、17日(金)、33日(金)各AM9301130

会場:けやきプラザ7F・研修室

講師:清水千賀子会員

テキスト:村方訴訟の済口證文

参加費:会員4回通して1,000円(1回でも)

    一般4回通して2,000円(1回でも)

定員:55

締切:平成29125日(定員なり次第締切)


事務局 〒270−1132     編集・発行  編集委員会
我孫子市湖北台5-15-17 岡本方   TEL. 04-7149-6404
電子メール:gasonsi@jcom.home.ne.jp
市史研ホームページ:http://abikosisiken.main.jp/