平成24年6月23日発行 我孫子市史研究センター会報 第124号 通算431号
編集:編集委員会第124号
ご挨拶 | 会長 柴田 弘武 |
このたび平成18年(2006)以来会長をなされていた長谷川一さんが会長を退かれ、不肖私が後任の会長に推挙されました。重責を思うと身の引き締まる思いです。
いうまでもなく、本会は昭和50年(1975)に「市民の手で創ろう我孫子の歴史」を相言葉にして、行政と市民が一体となって「市史編纂」事業を推進してきた団体であります。その事業は『我孫子市史』3卷の通史として完結し、一定の役割を終わりました。
しかし市史研究はそれをもって終了することはあり得ず、当研究センターは平成13年(2001)には事務局体制を一新して市史編さん室から独立し、市民の研究団体となりました。平成17年(2005)には行政の財政援助もなくなり完全に自立しました。その困難な自立した団体を纏め上げ、その後の市史研究を深化させ、会員も100名を超えるところまで発展させてきたのは長谷川前会長の手腕によるところであることは、会員周知のことです。
この間当研究会は、合同部会・古文書解読部会・歴史部会の3部会による研究の推進を基軸として、多くの市民を対象にした歴史講演会(市教委との共催)、古文書解読講座の開催(市教委後援)、会員研修としての史跡見学会、地域歴史資料の整理・保存(市教委との協力)等々の活動を行ってきました。昨年度には歴史探訪グループも発足し、また市民活動ネットワーク及びインターンシップ制度に参加、他研究団体との交流等その活動範囲はますます広がりを見せております。
このような活動を継続・発展させるのは私ひとりの力ではどうにもできるものではありません。したがいまして今年度からは規約を改正し、新たに副会長4人体制に致しました。私としてはこの強力な副会長陣、そしてベテランの事務局長、会計、各部会の委員、各地区の委員の皆様のご協力を得て、なんとか長谷川前会長の路線を引き継ぎたいと思っている次第です。
なおこれまで顧問であられた古宮隆信、芳賀登両先生がお亡くなりになり、顧問の席も空白となる心配がありましたが、長谷川一前会長と松本庸夫前合同部会代表が顧問就任を承諾してくださり、これも新米会長としては甚だ心強く感じているところであります。
微力ながらできるだけのことはやっていく所存です。会員の皆様の絶大なるご協力を切にお願い申し上げます。
<柏の歴史展示「絵図が語る 手賀沼 そのU」市史研会員見学のお誘い>
来る6月28日(木)に上記の展示を解説付きで見学します。参加希望の会員は 直接 柏市郷土資料展示室(柏市沼南庁舎併設、04-7191-1450)にお出で下さい。午前10時30分展示室集合。予約不要。
5月に「絵図が語る 手賀沼 そのT」の展示見学を実施しましたが、今回はその第2弾です。
明治以降の史料を読み解きながら、人々の生活に密接な関わりを保ち続けてきた干拓や魚漁、鳥猟を通して手賀沼の姿を紹介する展示です。
解説は前回と同じ、柏市教育委員会文化課 高野博夫専任主幹にお願いしてあります。
字誌 我孫子新田と若松(5/27発表) | 荒井 茂男 |
「我孫子新田」
当地は江戸前期の寛文年間(1661〜1672)、沼開墾により成立した。若松住宅地の東西の区域で、白山・寿・緑に接しハケの道と手賀沼ふれあいライン(都計道3・5・15号)に挟まれた区域。昭和39年(1964)手賀大橋の開通で分断された我孫子手賀沼漁協のある一画が東端となる。
この区域に白山下・川岸上(かわぎしあげ)・多美喜(たみき)・子の神下の4小字がある。自治会は白山下・川岸上地区に昭和56年結成の白山湖畔町内会がある。
川岸上にある手賀沼公園は、昭和10年(1935)清澄山・水郷等と共に最初の県立公園に指定され、昭和41年(1966)に開発行為により市に約3.3f帰属、現在は約4.6fの地区公園になっている。当公園は多くの人たちの憩いの場で、血脇先生謝恩の碑(昭和15年に大光寺入口に建立、2度の移転で現在地)やバーナード・リーチ碑(巡礼像、昭和49年建立)、平和の記念碑(昭和61年建立)、アビスタ(平成14年開館、アビコでスタディ)がある。当公園の西端、湖上園の前に風早村〜我孫子町を結ぶ県営渡船場(昭和28〜39年)があった。その船、中秋丸は村長・町長の名前からつけられた。
この県営事業以前に、高嶋家の南(竹山附近)に五江間の渡しがあった。沼の渡船の歴史は古く、人々の往来に広く利用されていた。大正時代、この船着場に志賀直哉の「和解」に登場する三造(本名宇田川三之助)が働いていた。
ハケの道は、かつては沼べりの道で昭和30年代までは、ヨシ・マコモ等が水辺に生えていた。今は昔日の面影なく、沼ははるか遠い。ふれあいライン(根戸新田布佐下線)の都市計画決定は昭和36年(1961)だが道路の完成は、若松地区が最も早い昭和43年で、根戸新田から手賀沼公園までが昭和63年頃である。
「若松」
日本の高度成長と共に昭和30年代後半に沼埋め立てにより成立した。昭和26年の手賀沼競艇場計画は町を二分する争いとなり、昭和30年1月町長の辞任、選挙敗北で中止となった。
昭和39年東京オリンピック漕艇会場誘致の活動と断念や手賀沼ディズニーランド計画(昭和34〜40年)など夢の変遷が住宅地になった。
昭和40年3月の町議会で大字若松が決定。同年12月町議会で、町に3.3fの土地と1億円相当の公民館の寄付を条件に、全日本観光鰍フ遊園地計画の中止と宅地転用が承認された。当地区には3児童公園と遊歩道(昭和54年)、県立我孫子高校(昭和45年開校)があり、自治会は若松第1が昭和48年、若松第2が昭和44年に結成されている。
我孫子新田(緑色部分)と若松 |
「番匠免」について考える |
古内 和已 |
東急ニュータウン柏ビレッジの東、堤防近くの小高い台地入り口に「番匠面入口」の案内表示板がある。手書きの地図に赤い矢印も薄れており、気を付けないと見逃してしまう。矢印に従ってゆるい坂を上って行くとニュータウンと対照的な戸数13の集落の暮らしがある。此の地に生まれ育ったHさん82歳を訪ね、市街化前の様子を伺うことができた。
「子供の頃、この先に(じょうのこし)という山があって遊んだ。祖父の昔話で、バンジョメの下に木戸があり、番人がいて不審な人は通さなかった」と聞かされた。Hさんの夫は、香取市から此の地に入植し、縁あってHさんと結婚したが40年前に他界したという。香取市では大工を「番匠」というのでバンジョウメに縁があったと話したことを覚えていると話してくれた。ちなみに、銚子あたりから九十九里町の方言では船大工を「ふなばっちょう」という。大工の笠を(ばっちょうがさ)広辞苑。
番城面案内図 | 番城面集落 |
また、近くに住むお婆さん(75歳)は「ジョウノコシと云うところがあってなんでも城があったということを聞いたよ」と話してくれた。土地の人の言う「ジョウノコシ」や「バンジョメ」について柏市域の旧田中村 村史によると、<城之腰は腰元の城とも読める也。況や口碑による妾の城(将門の妾)が正しからん。また城之腰の前には更に番城のありしは城跡により疑いを入れる余地なく、此の地小高き丘なりしも河川工事により切崩され、当時、埴輪その他出土せり。今この地名「番匠前」と呼ぶ。(中略)、番匠については家康江戸城の番城として、各地の城を定めたりといえども正しく番城と呼称せず、しかるに将門は「城之腰前三−四町に番城」を置き、まさしく番城とよびしなり>とあって江戸城の出城や大室城の出城を守る番をする城としての意味を抱かざるを得ない。
東急柏ビレッジ建設の前(戦後だが時期不詳)と現在 |
現在の東急花野井ビレッジ |
そこで更に「番匠免」を調べてみると、平安時代の中期に都の貴族の邸宅の建築・修理のために大和(奈良)飛騨(兵庫)から集めた大工職人を一定の区域に住まわせ、税を免除したことから、その区域を「番匠免」と云う(三省堂大辞林)。柏ビレッジの外、柏市戸帳の日体高校の裏に「番匠作」の地名が残るのも関わりのある地名かもしれない。全国的に検索してみると埼玉県三郷市に番匠免、福島県喜多方市は蕃帳面、秋田県美郷町に番匠免がある。柏市の教育委員会高野氏に伺うと、「元和6年(1620年)徳川秀忠時代の検地帳に記載があります」と教えていただいた。
旧田中村 村史による「番城面」附近図 |
台地から下をみると、400年前の人々の生業(なりわい)が営まれた土地は、近代建築の屋根ですき間なく埋められ、全国から移り住んだ人々によって新しい街が形成されている。北に目を向けると、洪水に幾度となく悩まされた葦原や農地も基盤整備によって見事に整理された田圃に早苗が青々と育っていた。
近代化した地域開発は歴史を刻んだ人々の努力の足跡が、語り草となり風化されてしまうのではないかと気になる。
土地の名は私達と祖先、過去と現在を繋ぐ伝導体の役割を果たしている(民俗学者 谷川健一)、名前に降り積もった時と記憶は厚い層をなす(6/2朝日新聞・天声人語)。時を同じくして考えさせられた記事であった。
(追記)「薫風花野井地区探訪」が台風により中止せざるを得なかったが、予察によって貴重な発見であったのでここに報告し、皆さんのご意見を賜りたい。
―なお、この探訪計画は再度実現すべく委員会で検討します。(事務局)―
各部会の活動と予定
部会名 | 日 | 時 | 所 | 担当者 |
@古文書解読日曜部会 | 7月 8日日(日) | 13:00 |
アビスタ |
佐々木 豊 |
テキスト 「和歌思婆不流太仁誌」 | ||||
A古文書解読火曜部会 | 7月17日(火) | 13:00 | アビスタ 第2学習室 |
金井 準 |
テキスト 小笠原文書「万躾方次第」 | ||||
B歴史部会 | 7月22日(日) | 13:30 |
我孫子北近隣センター |
関口 一郎 |
第40回字誌検討会 | ||||
C合同部会 香取神社調査 | 7月21日(土) | 10:00 |
けやきプラザ
1階ロビー |
中澤 雅夫 |
D歴史探訪G 講演* | 7月11日(水) | 9:30 | アビスタ 第2学習室 |
田中 由紀 |
講師 三谷和夫会員「将門伝承をたどる」*Gメンバーは無料。メンバー以外の会員は@300円(予約不要 直接会場へ) | ||||
7月度運営委(バス見学、講演会他) | 7月23日(土) | 9:40 | 南近隣センター第2会ギ | 岡本 和男 |
7月度井上基家文書U整理作業 | 7月16日(月) | 10時〜 | 相嶋文化村母屋 | 〃 |
古文書解読講座7月6、12、19、26日(予約者のみ) | 9:30 | 我孫子北近隣センター 並木本館 |
品田 制子 |
合同部会6月の活動(6/16)相馬霊場冊子編集(15)
出席者14名 (中澤雅夫)
1.配付資料 相馬霊場冊子版下116枚(約230頁分)。5月配付分(一部差し替え)と合わせ、新冊子のほぼ全体を完了。6/13、岩ア、金成、中川、山本各氏と印刷・セット。
新冊子は、口絵カラー写真8頁、目次以下255頁、計263頁で、このうち、「はじめに」(1頁)は柴田会長に執筆をお願い、「凡例」(2頁)、「新四国相馬霊場八十八ヶ所について」(2頁)、「参考文献・参考資料」(4頁)は5月配付分に加筆中、本文2ヶ所分(4頁)は執筆中、最終頁は発行所が決定後、5月配付分に加筆する。
題名は、現段階では「新四国相馬霊場八十八ヶ所を訪ねる」とし、発行所と打合せの過程で最終決定する。決定後、安本正道会員に揮毫して頂く。発行所は3社と相談する。
2.相馬霊場調査の写真担当岩アさんによる写真集:部会内での配布について意見交換した。
3.7月以降の合同部会活動方針:24年度事業計画で示した通り、『我孫子の石造物』などの補遺に関して調査し、その結果を『市史研会報』に掲載、それが蓄積されれば立派な調査報告書になる、との方針で一致した。なお、検討の過程で、石造物の写真を載せ、銘文を全部活字にすることにより、貴重な資料になる、との意見が出された。
4.最近、合同部会開催日は悪天候が多い。7月は我孫子香取神社の調査に再々挑戦する。又悪天候の場合は10階市民活動ステーションで情報交換を行う。
歴史部会5月の活動 (5/27) 第38回「字誌」検討会
出席者17名 (関口一郎)
17名の出席は、歴史部会研究講座では最多タイ記録。今回は、荒井会員の「我孫子新田・若松地区」。
(1)我孫子新田は、根戸新田境を西端に、白山1・2丁目、緑1・2丁目、寿2丁目のハケの道とそれに接する埋め立て地域。東端は高野山新田に接する。途中、「若松住宅地域」で2分されるが、東側には手賀沼親水広場、手賀沼遊歩道があり、住宅はない。
(2)小字名は4か所あり、自治会も2つある。ただし、広範の面積が手賀沼公園として立地。公共機関も多く、我孫子ゆかりの著名人の記念碑等も建立され、我孫子市観光の拠点地域にもなっている。市の生涯学習センタ―「アビスタ」も公園内にある。
(3)「若松地区」が形成されるまでの事情を、時系列的に説明があった。@手賀沼競艇場計画(昭和26年〜29年)、A手賀沼遊園地計画(昭和30年〜35年)、Bオリンピック漕艇会場誘致問題(東京オリンピック漕艇会場として昭和34年2月〜12月)、C手賀沼ディズニーランド計画(昭和34年〜39年)。D開発会社の遊園地計画の中止と宅地化への転用。
(4)若松地区の分譲 昭和40年3月、我孫子町臨時議会で大字「若松」が決定。開発会社2か所で分譲開始(昭和43年10月)。自治会2か所。人口2,119人、912所帯。高齢化率は32%(市内115中28位)という。県立我孫子高校開校(昭和45年)。
(5)我孫子新田、若松地区、特に前者の江戸時代からの開拓の事情などが加えられることを望みたい。
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