平成23年10月22日発行   我孫子市史研究センター会報   第116号   通算423
編集:編集委員会116

(字誌・新木-2
  景観に見る祭祀の場―信仰としての塚、「標」としての塚
飯白 和子

1.中峠上の庚申塚と中峠下の亀田稲荷及び中里の庚申塚

中峠上の庚申塚は、『我孫子の遺跡』に117番遺跡と表示されている「中峠上古墳群」(円墳10基、一部現存とある)中の一つで、昭和5610月に発掘調査された。調査の結果、一辺約5.50m、高さ1.70mの方形で、古墳では無く付近の土を用い方形状につき固めて造った塚であったことが判明したという。塚上に「元禄十丁丑天 十月十三日」(1697年)に「総中相馬之内芝原村上宿 同行六十二人」の講中が建立した青面金剛像の駒形碑が祀られていたという(『我孫子市中峠庚申塚調査報告書』我孫子市中峠1号墳発掘調査会、1982年)。

この庚申塚は、北へ現在の古利根方面、南は亀田稲荷、西は旧芝原城跡へ通じる道の三叉路に造られていた。現在この付近は、住宅街となっている。

亀田稲荷は、遺跡番号115の中峠北古墳群の中の一つで、近年発掘調査されたようであるが未確認。現在は、立派な社殿が再建されている。この亀田稲荷は、小字「亀田谷津」から「外谷津」にかけての谷津田の水源「上溜」の守りとして祀られたものであろう。

中里の庚申塚については前回も触れたが、遺跡番号114の中峠南古墳群の中の一つで、直径約20mの円墳上に祀られていた(発掘調査の折にはすでに墳丘は削平されていて、調査で半地下式石室が発見され古墳であることが分ったという)。

この中峠上庚申塚と、亀田稲荷、中里の庚申塚を南北に結んだ里道で、中峠村が東西に上区と下区に分けられていることが分る。庚申塚や稲荷は、信仰の対象として祀られたものであろうが、一方で村や地区の境をも示している。同様なことは新木村でも言える。新木の葺不合神社前を布佐よりに国道356号を少し進むと、国道の南側に寛文102月(1670年)に建立された勢至菩薩の舟形碑が祀られている(初回の発表で、所在不明としたが半年後位に無事もどされ、もとの位置より1m位奥まった所に祀られている)。ここの小字は「セイシ前」で、隣りが「南」。「セイシ前」と「南」の間には、手賀沼方向に向かって里道が通じておりこの里道を境として西側が上新木、東側が下新木で、勢至菩薩の舟形碑は、この里道の入口、角に祀られ境の標ともなっている。

2.中峠の十三塚・中里の七塚と佐竹街道

* 十三塚について

十三塚は、全国で250例以上見られ、千葉県でも地名などで26例ほど確認できるという。不規則な並び方のものや群集するものなども見られるというが、13の塚が一直線上に並び中央の塚がもっとも大きいのが一般的だという。築造場所は、村落または国郡の境に造られているものが多いという(『房総考古学ライブラリー8 歴史時代(二)』101頁千葉県文化財センター平成6年)。また同書で、十三塚が築造された目的については諸説あり、代表的な説として十三仏信仰との関連をあげている。十三仏信仰の成立時期については、「十三仏板碑が印旛郡印旛村吉高の永和四年銘(1378)板碑に初見があり文明年代(1469-1487)をピークとして、天文六年(1537)に終焉をみ」(102頁)、十三塚築造時期を考えるうえで参考になるとし、中央の塚を大きく築くのは、十三仏板碑の主尊大日如来や阿弥陀如来を種子の頂上に据えることと関係があると考えられていると記している。十三塚の築造も室町時代に成立したものであろうという。

* 藤ヶ谷の十三塚

旧沼南町藤ヶ谷の十三塚は、中央の塚を中心に東西に6基づつ一列に並んでいる。中央の塚は直径が7.8m、高さ約1.5m、その他の塚は、直径1m前後、高さ50cm位で、70m位の距離に並んでいるという(『沼南風土記(二)』116頁)。『房総考古学ライブラリー8』には、地元では古くは十三仏塚と呼ばれていたと記している。富津市竹岡の十三塚は、尾根上に一直線に並び、中央の塚がもっとも大きい典型的な例という。印西市の和泉並塚は、15基の塚のうちもっとも大きい8番目の塚を中心にほぼ一直線に並んでいるとも記している(102頁)。

* 中峠の十三塚

中峠の十三塚は、『湖北村誌』に「字塚の腰より、古戸境一里塚までの間に散在せる古塚にして、芝原村草分百姓十三戸の旧趾なりと伝えられるも、中里の七塚と同じく文献の徴すべきものなし、然れ共中里の七塚は凡て村の北方に配列し、此の十三塚は村の南側に在りて、七塚と略並行の位置を取れる」(178-9頁)と記している。中峠と中里の村境の道はこの間を通っていることは、旧図で明かだとも記している。この塚は、すでに大方のものは発掘され塚の中からは何も発見されず、ただの古塚に過ぎなかったともいっている。

* 中峠の十三塚と佐竹街道

佐竹街道とは、『湖北村誌』の記すところによると、常陸国久慈郡太田山の城主佐竹義重が「天正十六年(1588)、水戸但馬守重通を亡して水戸に出て、子義宣をして水戸城に居らしむ。義宣、豊臣秀吉より八十万石を賜り、天下六大将の一人と呼ばるゝに至るや。下総一円も亦其の領有に帰せるを以て、中相馬を通せる鎌倉街道を改廃して佐竹街道を開き、一里塚を築きて往来に便せり、之れを本村現在の県道とす」(72-3頁)とある。ここに云う県道とは、国道356号線のことである。中峠には、小田原北条方の城主河村出羽守の居城芝原城があった。

小田原城が陥落するのは、天正十八年(1590)であるから、それより以前に佐竹氏に領有され街道整備がなされたと言うことか。「慶長七年(1602)信吉水戸に移封せらるゝに及び、中相馬を通せる旧佐竹街道を水戸道中となし、中峠村を以て継立問屋場とせる事、旧佐竹街道に於けるが如し」(74頁)とすでに徳川時代以前、佐竹街道開設とともに中峠村が継立問屋場であったことが知れる。なお、先に発表した「親子榎塚」は佐竹氏時代の一里塚だと『村誌』には記されている。

佐竹街道が、中峠村と中里村の境界を通らず凸状に北に迂回して通っていると述べた。そして、この中峠村と中里村の境界の両側には、相並ぶように中峠の十三塚、中里の七塚が築かれていた。

中峠の十三塚は、小字「塚の越」より、古戸境の一里塚までの間に散在していると記されているが、この距離およそ1q位に及び、典型的な十三塚の事例からは外れる。でも、塚は散在しながら存在し、しかも後世にまで十三塚の伝承は伝えられている。ときの領主といえどもこと神仏に関わるものには手がくだせなかったものか、あるいは佐竹街道となる以前から既にこのような道筋になっていたものか。

中峠の小字「塚の越」付近で、「台地を東西に貫く国道356号線に沿って中世後期以前と考えられる道路遺構」が発見されている(『平成17年度市内遺跡発掘調査報告書』12頁 我孫子市埋蔵文化財報告第34集 2006年)とあり、発掘調査報告書の図版で確認しているが子細については良く分らない。

9/25歴史部会第32回字誌検討会にて発表の一部)


講演会「峠物語 〜中峠を中心に〜」を聴いて

白神 正光


1.はじめに

102日(日)、柏中央公民館講堂で「手賀の湖と台地の歴史を考える会」主催の講演会があった。

講師は白井市の小林茂氏で、我孫子市史研究センターの会報の記事**を読んで峠地名***に興味を持ち、独自に調査した、その発表だった。

* 同会及び白井市郷土史の会会員

 **104号(2010.10.23)掲載の市史研主催の歴史講演会「地名の話―日本語になった縄文語―」での地名研究家 鈴木健氏の中峠に関する説についての三谷会員の投稿意見

 ***本稿では便宜上、峠(びょう)、尾余(びょう)等の地名を峠地名(びょう地名)と仮称する。

2.講演の概要

 (1) 峠地名のピックアップ

 ・『角川日本地名大辞典 12千葉県』の小字一覧から抽出(約200ヶ所)。

 ・更に、地域別・当て字別で分布を分析している。

 (2) 現地調査

白井市、印西市、旧沼南町、鎌ヶ谷市、柏市、我孫子市、松戸市、千葉市、佐倉市の峠地名を実地に探した。

 (3) 結論

同氏は以下のようにまとめている。

 (a) 谷津から台地に登っている土地を人々は「ひよ」と呼んでいた。

 (b) その後、検地の際に役人が聞き取って検地帳に書いた当て字が定着して行ったと推測。

 (c) 地域に依り表記が、峠・尾余・兵・(山扁に票の字)・俵etc.と異なるのは藩や役人の相違に依ると推測。

3.所感

1年間に約200ヶ所の峠地名をリストアップ、主要な箇所は実地に調べている。車が通れない箇所も多く炎天下に自転車で現地に行ったこともあるという。また、現地で農家や地主、各市の文化課などのキーパーソンを探し当て、聴き取りをしている。短期間によくこれだけ調べたものだと感嘆する。

話は変わるが、私が初めて我孫子市中峠という地名を知った時に思い浮かべたのは谷川岳付近の「平標(山)」(たいらっぴょう)(注1だった。

この「標」とは、乗越(注2の分岐点や分かりにくい場所などに、目標の柱などを立てたところという意味で「ピョウ」や「ヒョウ」などと呼ばれてきた、と言われている。中峠も同様で、単に当て字の違いだろうという程度に軽く考えていた。

ところが2年程前に、当センターに入会し、長谷川会長、柴田副会長などの中峠に関する研究を知り、上記の私の単純な推測とは異なり歴史(古代史、中世史、近世史)、地理学、言語学等の学際的な知見と豊かな発想力、緻密な研究なしには解明できない課題であることがわかってきた。

講演会の感想に話を戻す。発表では多数の峠地名のリストアップがされていたので、これらを峠地名に関係する物と、そうでない物の分離など精査していけば研究者の為に大いに役立つ基礎データとなるだろうと思った。また、聴講者から、「私の地元のビョウが抜けている」との指摘があったという。この講演会を機に更に情報収集が進むものと期待される。

他方、解明を期待していた峠地名の由来の研究については、「台地が切れる先端のところが、びよ」との話は紹介していたが、更なる検証、緻密な詰めが必要だと感じた。

柳田國男の『地名の研究』の「峠をヒヤウと云ふこと」に書かれている「標」説に対し、賛成できないとの意見が表明された。その理由の一つとしてあげている、「標は水上に立てる杭である」という点は誤解に基づくものであると指摘しておきたい(柳田説への賛否はここではさておく)。

柳田はヒョウが「標」から来たと書いているのであり、「澪標」(みおつくし)からとは言っていない。標は「澪標」の「標」(つくし)だと言っているのである。「標」は海・陸を問わず、立てられる。

現地調査の際、80歳代更には90歳代の人にしか峠地名がわからなくなっている所もあることが紹介されていた。その場所の文化・風土を如実に表現している歴史ある地名が、近年の商業目的により急速に失われていることが実感された。これは市史研の字誌の研究に降りかかっている問題でもあり危機感を覚える。

4.「ひよ」が活きている風景

閉会の挨拶での中村勝氏(同会副代表、 柏市史編さん委員会副委員長)の総括は実に興味深かった。

(1) 地形を表す方言「ひよ」、「びょう」、「ぴょう」が先ずあった。「峠」は当て字であり、地形を表す峠と考えてはいけない。地形を表す語の峠自体、新しい言葉。

(2) 小字は土地の売買のために名前が残った(人が住んでいなくても)。

(3) 字には、小字・中字(ちゅうあざ)・大字がある。中字は地域により坪(つぼ)、小名(こな)、洞(ほら)等と呼ばれる(注3)。柏市大井にも7つの坪があり、各々20軒程度。現在もコミュニティ活動の単位として活きている。

(4) ひょう

平標山を想像する。この地形から台地の上を「ひょう」と言ったのではないか。旧沼南町では谷津から上がってきた台地の上は風が強いので集落は作らず、下の方に家を建てる。中程から上にあるのは分家などの新宅。

(5) 中村氏のNativeとしての実体験

 (a)「なかっぴょうの家に行ってくるよ」

子供の頃、こんな風に言っていたという。講演会の後で伺ったところ、この家は台地の平面上の家とのこと。

 (b)祖母から注意されたこと;

「たかっぴょうは危ないから行くな」(小高い、崖の上のようなところで転落を心配されたとのこと。

(注)旧沼南町では、ごく日常的に一般名詞としても使われていることを示している。

5.終わりに

上記のように峠地名の由来についての課題は残ったが、この地名を長年研究されていて、核心に迫っている市史研の長谷川氏、柴田氏による緻密な研究の成果がまとまり長年の謎が解明されるのも近いのではないかと期待される。

(注1)「びょう」の話題から離れるが、谷川岳周辺、越後三山周辺を登山すると現代では意味のわからない沢山の興味深い地名に出会う。

「タワ」、「タオ」などは鞍部を意味すると地名の本に解説されているが、「ダオ」「松の木ダオ」などは実際、鞍部であり、良く名前が残っていると思う。

(注2)のっこし。鞍部をいう。山の地名では乗越の他、近代登山で導入された用語であるコル(col[仏語])も良く使われている。

(注3)木村礎編『村落生活の史的研究』では行政村内部の「微小地域」であるとしている。「坪」は栃木県・茨城県に多く分布している。

(参考)

 (1)『角川地名大辞典12  千葉県』 なかびょうまち(中尾余町)<佐倉市> 「地名の由来は丘陵性台地の鞍部を「ビョウ」と呼ぶことによる。」

(2)『訂正増補 富勢村誌 上巻』方言の項

デッピヨウ(高キ所。ピヨウハ峠又ハ峰ナリ)


各部会の活動と予定

部会 担当者
@古文書解読日曜部会 1113(日) 1300 我孫子北近隣センター
並木本館
佐々木
テキスト 「和歌思婆不流太仁誌」
A古文書解読火曜部会 1115(火) 1300 けやきプラザ8F
1会議室
金井
テキスト 「桜井克巳家文書」
B歴史部会 1127(日) 1330

我孫子北近隣センター
並木本館会議室
3

関口 一郎
 33回字誌検討会 
C合同部会 1.香取神社、楚人冠邸園
2.「相馬霊場」編集(8)
1119(土) 1000
1330
1.けやき1Fロビー集合
2.我孫子北近隣センターつくし野館
中澤 雅夫
11月度運営委 1126(土) 940 市民活動ステーション 岡本 和男
11月度井上基家文書U整理作業 117,21() 10時〜 相嶋文化村母屋
史跡バス見学会(予約された方のみ) 114() 730800 布佐駅南口、以下新木、湖北、我孫子各駅集合

合同部会10月の活動(10/15)相馬霊場冊子編集(7出席者:午前8名、午後10   (中澤雅夫)

午前中は香取神社の現地調査をする予定であったが、突然の烈しい風雨の為中止、資料の印刷、相馬霊場冊子の編集に関する意見交換などを行った。

午後は冊子編集会議に先立ち、川瀬巴水木版画展(11/2512/4開催予定)入場券を希望者に頒布、次回会員研修が12/18()木下見学である旨説明した。

冊子編集に入り、部会員より冊子原稿の1つに対して著作権侵害との文書を送られ、そのような事実はない旨証拠を示して説明、それは了解されたが、他の個所に対し今後詳細に検討して著作権侵害があれば訴えると言っている、との報告があった。原稿は見ていないとのこと、ではどうして著作権侵害と言えるのかなど不可解な点はあるが、それはともかく、諸権利の登記関係の業務に携わっている部会員より、著作権とは何かなどについて説明を受けた。

冊子編集の意見交換に移り、これまでに寄せられたコメントを朱書きした原稿をそれぞれの執筆者に渡し、コメントを参考にして必要に応じ修正の上再提出するようお願いした。また、午前中に印刷、席上で配付した新規および修正原稿を含め、すべての冊子原稿についてコメントを寄せるようお願いした。そのあと、漢字・仮名の使い分け(例:在る・有る・ある。分かる・判る・解る・わかる=意味で区別)、使用する漢字(例:常夜灯=一般的使用例・常夜塔=石造物での使用例)、漢字の字体(異体字は使わない。例:篭→籠)、送り仮名などについて意見交換した。

歴史部会9月の活動(9/25)31回「字誌」検討会

出席者14                             (関口一郎)

5月の例会で飯白和子会員の発表が途中までだったことから、継続のレポートが行なわれた。内容は1.中峠の十三塚、2.新木の小字「平市(ひらいち)」、3.「味噌作」について、等である。関連の内容が飯白会員から本号で紹介されているので参照されたい。なお、字誌と関係の深い「峠(ひょう)」についての小林茂氏の講演会の報告を白神正之会員にお願いしたので、併せてご覧いただきたい。


会員の田宮克哉さん(高野山)が9/26お亡くなりになりました。謹んでご冥福を祈ります。

上期新入会員の紹介 以下の皆さんです、どうぞよろしく。

 飯白 和子(新木)6      宮川 速水(青山台)7

(以下10月度)

 荒木 龍(並木5             桑原 忠良(つくし野7

 長谷川 忍(松戸市小金)  渋谷 昇吾 (湖北台5


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我孫子市湖北台5-15-17 岡本方   TEL. 04-7149-6404